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紅蓮の大地  作者: 大田牛二
第二章 五胡躍動

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晋陽

 漢趙の石勒せきろくは葛陂から北に向かっていたが、通過した地が全て守りを固めて田野に何も残していなかったため、略奪しようにも獲るものがなく、軍中が甚だしく飢えて、士卒が互いに食すようになってしまった。


 東燕に至った時、汲郡の人・向冰しょうすいが数千の兵を集めて枋頭の営壁を守っていると聞いた。石勒は黄河を北に渡ろうと考えていただけに向冰の存在に困った。


 すると、張賓ちょうひんがこう言った。


「向冰の船は全て川の中にあり、岸に上っていないと聞いております」


 使わない船は運びやすくするため、岸に上げて乾かし、軽くしていた。当時、向冰の船はまだ川に置いたままであった。


「軽兵を派遣して小路から船を襲い取り、それを使って大軍を渡らせるべきです。大軍が既に渡ってしまえば、向冰は必ず擒にできます」


 七月、石勒は支雄しゆう孔萇こうちょうを派遣し、木を縛って筏を造り、秘かに文石津から渡って船を奪わせた。


 石勒も兵を率いて棘津から河を渡り、向冰を撃って大破した。向冰の物資をことごとく得て、軍勢が再び振うようになった。その後、石勒は長駆して鄴に至った。


 劉演りゅうえんが三台を保って守りを固めている中、臨深りんしん牟穆ぼうぼくらは兵を率いて石勒に降った。


 彼らの降伏もあり、石勒の諸将は三台の攻撃を欲した。しかし張賓はこう言った。


「劉演は弱いとはいえ、その兵はなお数千もおり、三台も険固なので、これを攻めても突然容易に攻略することはできません。逆にこれを捨てて去れば、彼らは自ら潰えることでしょう。今は王彭祖や劉越石こそが将軍の大敵です(彭祖は王浚の字、越石は劉琨の字)。先にこれらを取るべきであり、劉演は顧みるに足りません。そもそも、天下が饑乱しており、将軍は大兵を擁しているものの、各地を周遊して他郷に寄居し、人々の心が安定していません。これは万全を保って四方を制す方法ではありません。利便のある地を択んでそこを占拠し、広く食糧の蓄えを集め、西の平陽(漢趙の都)を奉じて幽・并(幽州は王浚、并州は劉琨)を図るべきです。これが霸王の業です。邯鄲と襄国は形勝の地です。そのどちらか一つを択んで都とすることを請います」


 石勒は「右侯の計が正しい」と言い、兵を進めて襄国を占拠した。


 張賓がまた石勒に言った。


「今、我々がここに居るのは、彭祖と越石が深く忌み嫌うことです。恐らく我々の城壁や塹壕が堅固になっておらず、物資も集まっていなかったら、二寇が互いに至りましょう。速やかに田野の穀物を収め、あわせて使者を派遣して平陽に至らせ、この地を鎮守した意図を詳しく陳述なさるべきです」


 石勒はこの意見に従い、諸将に命じて分かれて冀州を攻撃させた。郡県壁塁の多くが投降し、穀物を襄国に輸送した。同時に石勒は漢趙の昭武帝・劉聡りゅうそうに上表した。


 昭武帝は石勒を都督冀幽并營四州諸軍事・冀州牧に任命し、爵位を進めて上党公に封じた。









 その頃、晋の平北大将軍・劉琨りゅうこんが州郡に檄を移し、十月に平陽で集合して漢趙を撃つ約束をした。


 劉琨はかねてから奢豪で、声色を好んでいた。


 河南の人・徐潤じゅじゅんは音律によって劉琨の寵を得て、晋陽令に任命された。


 徐潤は驕恣で、政事に干預したため、護軍・令狐盛れいこせいがしばしば意見を述べ、更には劉琨に徐潤を殺すように勧めた。しかし劉琨はこれに従わず、逆に徐潤が劉琨に対して令狐盛を讒言したため、劉琨は令狐盛を捕えて殺してしまった。


 劉琨の母が息子にこう言った。


「汝は豪傑を動かして遠略を拡大することができず、専ら自分より勝る者を除いているので、必ずや禍が私にも及びます」


 令狐盛の子・令狐泥れいこでいが漢趙に奔って詳しく情報を述べた。


 昭武帝は大いに喜び、令狐泥が先導の元、河内王・劉粲りゅうさんと中山王・劉曜りゅうようを派遣して、兵を率いて并州に侵攻させた。


 それを聞いた劉琨は、東に出て常山と中山で兵を集め、その部将・郝詵かくしん張喬ちょうきょうに兵を率いて劉粲を拒ませ、同時に使者を送って代公・猗盧いろに救援を求めた。


 郝詵と張喬は漢趙軍の前に敗死した。勢いそのまま劉粲と劉曜が虚に乗じて晋陽を襲い、太原太守・高喬こうきょうと并州別駕・郝聿かくしは晋陽を挙げて漢趙に降った。


 八月、劉琨は戻って晋陽を救おうとしたが、間に合わなかったため、左右の数十騎を率いて常山に奔った。


 劉粲と劉曜が晋陽に入った。先導を行っていた令狐泥は劉琨の父母を殺した。


 劉粲と劉曜が晋の尚書・盧志ろし、侍中・許遐きょか、太子右衛率・崔瑋さいいを平陽に送った。


 漢趙昭武帝は再び劉曜を車騎大将軍に任命し、前将軍・劉豊りゅうほうを并州刺史にして晋陽を鎮守させた。送られてきた盧志を太弟太師に、崔瑋を太傅に、許遐を太保に任命し、高喬と令狐泥をどちらも武衛将軍にした。












 九月、、晋の安定太守・賈疋かひつらが秦王・司馬鄴しばぎょうを奉じて皇太子にした。


 司馬鄴が長安に行台(臨時の政府)を設立し、壇に登って告類(天に報告する祭祀)を行い、宗廟・社稷を建てて、大赦を行った。


 閻鼎びんていを太子詹事にして百官を統括させた。


 胡三省は、


「太子詹事は宮僚(宮中の属官)を統括したが、当時は太子が行台を建てたため、詹事が百官を総管することになった。特別な位号に正されてはいないが、実際は丞相の職である」


 と、解説している。


 賈疋に征西大将軍を加え、秦州刺史・南陽王・司馬保しばほを大司馬にした。


 司空・荀藩じゅんはんに命じて遠近を監督させ、光禄大夫・荀組じゅんしょを領司隸校尉・行豫州刺史にして、荀藩と共に開封を守らせた。


 秦州刺史・裴苞はいほうが険阻な地を占拠して涼州兵を拒んだが、張寔ちょうしょく宋配そうはいらがこれを撃破した。裴苞は柔凶塢に奔った。









 十月、昭武帝が子の劉恆りゅうこうを代王に、劉逞りゅうていを呉王に、劉朗りゅうろうを潁川王に、劉皋りゅうこうを零陵王に、劉旭りゅうきを丹陽王に、劉京りゅうきょうを蜀王に、劉坦りゅうたんを九江王に、劉晃りゅうこうを臨川王に封じ、王育おういくを太保に、王彰おうしょうを太尉に、任顗じんがいを司徒に、馬景ばけいを司空に、朱紀しゅきを尚書令に、范隆はんりょうを左僕射に、呼延晏こえんあんを右僕射に任命した。


 代公・猗盧が晋陽を攻めるために、子の六脩ろくしゅうと兄の子・普根ふねおよび将軍・衛雄えいゆう范班はんはん箕澹きせんを派遣して、数万の兵を指揮させて前鋒にした。猗盧も自ら二十万の兵を指揮して後に続いた。


 劉琨が離散した士卒数千人を集めてその先導となった。


 六脩が劉曜と汾東で戦った。劉曜は兵が敗れて落馬し、七つの傷を負った。


 討虜将軍・傅虎ふこがこの劉曜に馬を授けたが、劉曜は受け取らず、こう言った。


「汝が乗って逃れるべきだ。私の傷は重いので、自らを測るに、ここで死ぬだろう」


 傅虎が泣いて言った。


「私は大王の抜擢を蒙ってここに至りました。そのため常に效命(命を懸けること)したいと思っていました。今がその時です。しかも漢室は基礎ができたばかりなので、天下に私がいないことは許されても、大王がいないことは許されません」


 傅虎は劉曜を抱きかかえて馬に乗せた。そして、馬に鞭を打ち、馬を駆けさせて劉曜に汾水を渡らせてから、自分だけ戻って戦死した。


 劉曜は晋陽に入り、夜、大将軍・劉粲、鎮北大将軍・劉豊と共に晋陽の民を奪って、蒙山を越えて帰還した。


 十一月、猗盧が漢趙軍を追撃して藍谷で戦い、漢趙の兵を大敗させた。その戦いの中、猗盧が劉豊を捕えて邢延けいえんら三千余りを斬った。屍が数百里にわたって横たわったという。


 猗盧はこれを機に寿陽山で大獵(大規模な狩猟)を行った。獲物の皮や肉を並べて観覧させたところ、そのために山が赤くなったという。


 劉琨が営門から歩いて入って猗盧に拝謝し、進軍するように強く請うた。


 しかし猗盧はこう言った。


「私が速く来なかったために、あなたの父母が害されることになってしまい、誠に慚愧しています。しかし今、あなたは既に州境を恢復し、私は遠くから来て士馬が疲弊しているので、とりあえず今後の行動の機会を待ちます。劉聡はまだ滅ぼすことができません」


 猗盧は劉琨に馬・牛・羊を各千余匹と車百乗を贈って帰還し、その将・箕澹きせん段繁だんけいらを留めて晋陽を守らせた。


 劉琨は戦死した者を思って号泣し、怪我人の手当てに当たった。その後、移動して陽曲に遷り、逃亡離散した者を招集した。


 盧諶ろたんは劉粲の参軍になっていたが、劉粲が敗れると逃亡して劉琨に帰順した。


 それを受け、漢趙は盧諶の父・盧志および弟の盧謐ろひつ盧詵ろせんを殺した。また、傅虎に幽州刺史の官位を追贈した。










 十二月、昭武帝は張氏を皇后に立てて、その父・張寔を左光禄大夫にした。


 彭仲蕩ほうちゅうとうの子・彭天護ほうてんごは群胡を率いて賈疋を攻めた。前年、父に賈疋を殺された復習のためである。


 この戦いの中、彭天護は勝てないふりをして逃走したため、賈疋は追撃した。しかしその夜、澗中(「澗」は山間の小渓や谷)に落ちてしまった。


 彭天護は賈疋を捕えて殺した。


 晋書において、『賈疋は勇猛で謀をよく巡らし、気節を固守していた。晋室の復興を自らの責務としていたが、不幸にも谷底に落ちてしまった。当時の人は彼の死に心を痛め、その死を惜しんだ』と述べられている。


 漢趙はこの功績を元に、彭天護を涼州刺史に任命した。


 衆人が始平太守・麴允きくいんを推して雍州刺史を兼任させた。そんな中、閻鼎が京兆太守・梁綜りょうそうと権勢を争い、梁綜を殺したため、麴允は撫夷護軍・索綝さくりん、馮翊太守・梁粛りょうしゅくと兵を合わせて閻鼎を攻めた。


 閻鼎は雍に出奔したが、氐の竇首に殺された。


 胡三省はこう評している。


「当時は、胡・羯がまさに強くなっている時であり、賈疋、閻鼎、麴允、索綝が心を落ち着かせて一つになり、協力して晋室を輔佐したとしても、なお、全うできないことを懼れるべき状況だったにも関わらず、自ら殺し合っていたらなおさらではないか。長安の敗亡の兆はここに見えている」

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