晋陽
漢趙の石勒は葛陂から北に向かっていたが、通過した地が全て守りを固めて田野に何も残していなかったため、略奪しようにも獲るものがなく、軍中が甚だしく飢えて、士卒が互いに食すようになってしまった。
東燕に至った時、汲郡の人・向冰が数千の兵を集めて枋頭の営壁を守っていると聞いた。石勒は黄河を北に渡ろうと考えていただけに向冰の存在に困った。
すると、張賓がこう言った。
「向冰の船は全て川の中にあり、岸に上っていないと聞いております」
使わない船は運びやすくするため、岸に上げて乾かし、軽くしていた。当時、向冰の船はまだ川に置いたままであった。
「軽兵を派遣して小路から船を襲い取り、それを使って大軍を渡らせるべきです。大軍が既に渡ってしまえば、向冰は必ず擒にできます」
七月、石勒は支雄と孔萇を派遣し、木を縛って筏を造り、秘かに文石津から渡って船を奪わせた。
石勒も兵を率いて棘津から河を渡り、向冰を撃って大破した。向冰の物資をことごとく得て、軍勢が再び振うようになった。その後、石勒は長駆して鄴に至った。
劉演が三台を保って守りを固めている中、臨深と牟穆らは兵を率いて石勒に降った。
彼らの降伏もあり、石勒の諸将は三台の攻撃を欲した。しかし張賓はこう言った。
「劉演は弱いとはいえ、その兵はなお数千もおり、三台も険固なので、これを攻めても突然容易に攻略することはできません。逆にこれを捨てて去れば、彼らは自ら潰えることでしょう。今は王彭祖や劉越石こそが将軍の大敵です(彭祖は王浚の字、越石は劉琨の字)。先にこれらを取るべきであり、劉演は顧みるに足りません。そもそも、天下が饑乱しており、将軍は大兵を擁しているものの、各地を周遊して他郷に寄居し、人々の心が安定していません。これは万全を保って四方を制す方法ではありません。利便のある地を択んでそこを占拠し、広く食糧の蓄えを集め、西の平陽(漢趙の都)を奉じて幽・并(幽州は王浚、并州は劉琨)を図るべきです。これが霸王の業です。邯鄲と襄国は形勝の地です。そのどちらか一つを択んで都とすることを請います」
石勒は「右侯の計が正しい」と言い、兵を進めて襄国を占拠した。
張賓がまた石勒に言った。
「今、我々がここに居るのは、彭祖と越石が深く忌み嫌うことです。恐らく我々の城壁や塹壕が堅固になっておらず、物資も集まっていなかったら、二寇が互いに至りましょう。速やかに田野の穀物を収め、あわせて使者を派遣して平陽に至らせ、この地を鎮守した意図を詳しく陳述なさるべきです」
石勒はこの意見に従い、諸将に命じて分かれて冀州を攻撃させた。郡県壁塁の多くが投降し、穀物を襄国に輸送した。同時に石勒は漢趙の昭武帝・劉聡に上表した。
昭武帝は石勒を都督冀幽并營四州諸軍事・冀州牧に任命し、爵位を進めて上党公に封じた。
その頃、晋の平北大将軍・劉琨が州郡に檄を移し、十月に平陽で集合して漢趙を撃つ約束をした。
劉琨はかねてから奢豪で、声色を好んでいた。
河南の人・徐潤は音律によって劉琨の寵を得て、晋陽令に任命された。
徐潤は驕恣で、政事に干預したため、護軍・令狐盛がしばしば意見を述べ、更には劉琨に徐潤を殺すように勧めた。しかし劉琨はこれに従わず、逆に徐潤が劉琨に対して令狐盛を讒言したため、劉琨は令狐盛を捕えて殺してしまった。
劉琨の母が息子にこう言った。
「汝は豪傑を動かして遠略を拡大することができず、専ら自分より勝る者を除いているので、必ずや禍が私にも及びます」
令狐盛の子・令狐泥が漢趙に奔って詳しく情報を述べた。
昭武帝は大いに喜び、令狐泥が先導の元、河内王・劉粲と中山王・劉曜を派遣して、兵を率いて并州に侵攻させた。
それを聞いた劉琨は、東に出て常山と中山で兵を集め、その部将・郝詵と張喬に兵を率いて劉粲を拒ませ、同時に使者を送って代公・猗盧に救援を求めた。
郝詵と張喬は漢趙軍の前に敗死した。勢いそのまま劉粲と劉曜が虚に乗じて晋陽を襲い、太原太守・高喬と并州別駕・郝聿は晋陽を挙げて漢趙に降った。
八月、劉琨は戻って晋陽を救おうとしたが、間に合わなかったため、左右の数十騎を率いて常山に奔った。
劉粲と劉曜が晋陽に入った。先導を行っていた令狐泥は劉琨の父母を殺した。
劉粲と劉曜が晋の尚書・盧志、侍中・許遐、太子右衛率・崔瑋を平陽に送った。
漢趙昭武帝は再び劉曜を車騎大将軍に任命し、前将軍・劉豊を并州刺史にして晋陽を鎮守させた。送られてきた盧志を太弟太師に、崔瑋を太傅に、許遐を太保に任命し、高喬と令狐泥をどちらも武衛将軍にした。
九月、、晋の安定太守・賈疋らが秦王・司馬鄴を奉じて皇太子にした。
司馬鄴が長安に行台(臨時の政府)を設立し、壇に登って告類(天に報告する祭祀)を行い、宗廟・社稷を建てて、大赦を行った。
閻鼎を太子詹事にして百官を統括させた。
胡三省は、
「太子詹事は宮僚(宮中の属官)を統括したが、当時は太子が行台を建てたため、詹事が百官を総管することになった。特別な位号に正されてはいないが、実際は丞相の職である」
と、解説している。
賈疋に征西大将軍を加え、秦州刺史・南陽王・司馬保を大司馬にした。
司空・荀藩に命じて遠近を監督させ、光禄大夫・荀組を領司隸校尉・行豫州刺史にして、荀藩と共に開封を守らせた。
秦州刺史・裴苞が険阻な地を占拠して涼州兵を拒んだが、張寔、宋配らがこれを撃破した。裴苞は柔凶塢に奔った。
十月、昭武帝が子の劉恆を代王に、劉逞を呉王に、劉朗を潁川王に、劉皋を零陵王に、劉旭を丹陽王に、劉京を蜀王に、劉坦を九江王に、劉晃を臨川王に封じ、王育を太保に、王彰を太尉に、任顗を司徒に、馬景を司空に、朱紀を尚書令に、范隆を左僕射に、呼延晏を右僕射に任命した。
代公・猗盧が晋陽を攻めるために、子の六脩と兄の子・普根および将軍・衛雄、范班、箕澹を派遣して、数万の兵を指揮させて前鋒にした。猗盧も自ら二十万の兵を指揮して後に続いた。
劉琨が離散した士卒数千人を集めてその先導となった。
六脩が劉曜と汾東で戦った。劉曜は兵が敗れて落馬し、七つの傷を負った。
討虜将軍・傅虎がこの劉曜に馬を授けたが、劉曜は受け取らず、こう言った。
「汝が乗って逃れるべきだ。私の傷は重いので、自らを測るに、ここで死ぬだろう」
傅虎が泣いて言った。
「私は大王の抜擢を蒙ってここに至りました。そのため常に效命(命を懸けること)したいと思っていました。今がその時です。しかも漢室は基礎ができたばかりなので、天下に私がいないことは許されても、大王がいないことは許されません」
傅虎は劉曜を抱きかかえて馬に乗せた。そして、馬に鞭を打ち、馬を駆けさせて劉曜に汾水を渡らせてから、自分だけ戻って戦死した。
劉曜は晋陽に入り、夜、大将軍・劉粲、鎮北大将軍・劉豊と共に晋陽の民を奪って、蒙山を越えて帰還した。
十一月、猗盧が漢趙軍を追撃して藍谷で戦い、漢趙の兵を大敗させた。その戦いの中、猗盧が劉豊を捕えて邢延ら三千余りを斬った。屍が数百里にわたって横たわったという。
猗盧はこれを機に寿陽山で大獵(大規模な狩猟)を行った。獲物の皮や肉を並べて観覧させたところ、そのために山が赤くなったという。
劉琨が営門から歩いて入って猗盧に拝謝し、進軍するように強く請うた。
しかし猗盧はこう言った。
「私が速く来なかったために、あなたの父母が害されることになってしまい、誠に慚愧しています。しかし今、あなたは既に州境を恢復し、私は遠くから来て士馬が疲弊しているので、とりあえず今後の行動の機会を待ちます。劉聡はまだ滅ぼすことができません」
猗盧は劉琨に馬・牛・羊を各千余匹と車百乗を贈って帰還し、その将・箕澹、段繁らを留めて晋陽を守らせた。
劉琨は戦死した者を思って号泣し、怪我人の手当てに当たった。その後、移動して陽曲に遷り、逃亡離散した者を招集した。
盧諶は劉粲の参軍になっていたが、劉粲が敗れると逃亡して劉琨に帰順した。
それを受け、漢趙は盧諶の父・盧志および弟の盧謐、盧詵を殺した。また、傅虎に幽州刺史の官位を追贈した。
十二月、昭武帝は張氏を皇后に立てて、その父・張寔を左光禄大夫にした。
彭仲蕩の子・彭天護は群胡を率いて賈疋を攻めた。前年、父に賈疋を殺された復習のためである。
この戦いの中、彭天護は勝てないふりをして逃走したため、賈疋は追撃した。しかしその夜、澗中(「澗」は山間の小渓や谷)に落ちてしまった。
彭天護は賈疋を捕えて殺した。
晋書において、『賈疋は勇猛で謀をよく巡らし、気節を固守していた。晋室の復興を自らの責務としていたが、不幸にも谷底に落ちてしまった。当時の人は彼の死に心を痛め、その死を惜しんだ』と述べられている。
漢趙はこの功績を元に、彭天護を涼州刺史に任命した。
衆人が始平太守・麴允を推して雍州刺史を兼任させた。そんな中、閻鼎が京兆太守・梁綜と権勢を争い、梁綜を殺したため、麴允は撫夷護軍・索綝、馮翊太守・梁粛と兵を合わせて閻鼎を攻めた。
閻鼎は雍に出奔したが、氐の竇首に殺された。
胡三省はこう評している。
「当時は、胡・羯がまさに強くなっている時であり、賈疋、閻鼎、麴允、索綝が心を落ち着かせて一つになり、協力して晋室を輔佐したとしても、なお、全うできないことを懼れるべき状況だったにも関わらず、自ら殺し合っていたらなおさらではないか。長安の敗亡の兆はここに見えている」




