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紅蓮の大地  作者: 大田牛二
第二章 五胡躍動

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劉殷

 涼州主簿・馬魴(ばぼう)が涼州の張軌(ちょうき)に言った。


「将に命じて兵を出し、帝室を補助するべきです」


 張軌はこれに従い、檄を関中に馳せさせて、共に秦王を輔佐するように呼びかけた。


 あわせて張軌はこう言った。


「今、前鋒督護・宋配(そうはい)を派遣し、歩騎二万を率いて、直接、長安に向かわせる。西中郎将・寔(張寔(ちょうりょく))に中軍三万を率いさせ、武威太守・張琠(ちょうてん)に胡騎二万を率いさせ、相継いで出発させることとする」







 漢趙の昭武帝・劉聡(りゅうそう)が西晋の懐帝・司馬熾(しばし)。平阿公から会稽郡公に封じ、儀同三司を加えた。


 昭武帝が落ち着いた様子で、懐帝に言った。


「お前が昔、豫章王だった時、私が王武子(武子は王済の字)と共にお前の元を訪ね、武子がお前の前で私を称賛したものだ。するとお前は、『その名を聞いて久しくなる』と言い、私に柘弓(柘木の弓)と銀硏(銀の硯)を贈った。そのことをまだ覚えているか?」


 懐帝はこう答えた。


「どうして忘れられるでしょうか。あの日はまだ龍顔(天子の顔)を知らなかったことを、ただただ悔やんでおります」


 言外に今の昭武帝のことを知っていれば、違う対応をしただろうという意味も含まれているような言葉である。


 それに気づくことはなく、昭武帝が問うた。


「お前の家の骨肉はなぜこのように害しあっているのだ?」


 懐帝はこう答えた。


「漢趙が天に応じて命を受けようとしていたので、陛下のために自ら互いに駆除しあったのです。これは恐らく天意であって、人によって起こされた事ではありません。そもそも、私の家がもし武皇帝の業を奉じることができており、九族が親善だった場合、陛下はどうして得られたでしょうか?」


 昭武帝はこの回答に喜び、小劉貴人(劉殷(りゅういん)の孫の一人)を懐帝の妻にして、


「これは名公(声望がある貴族や高官)の孫である。汝は善く遇せよ」


 と、言った。


 代公・猗盧(いろ)が兵を派遣して晋陽へ侵攻させた。


 それにより三月、漢趙の兵が敗走した。


 卜珝(ぼくく)の兵が先に奔ったため、靳沖(きんちゅう)が自分の判断で卜珝を捕えて斬った。すると昭武帝は激怒し、使者を派遣させて符節を持って靳沖を斬首させた。


 そんな中、昭武帝は舅子(母の兄弟の子)に当たる輔漢将軍・張寔(ちょうしょく)の二人の娘・張徽光(ちょうびこう)と張麗光(ちょうれいこう)を娶って貴人にした。太后・張氏の意によるものである。


 その後、昭武帝は子の劉敷(りゅうしき)を渤海王に、劉驥(りゅうき)を済南王に、劉鸞(りゅうらん)を燕王に、劉鴻(りゅうこう)を楚王に、劉勱(りゅうくん)を斉王に、劉権(りゅうけん)を秦王に、劉操(りゅうそう)を魏王に、劉持(りゅうじ)を趙王に封じた。


 漢趙で魚蟹(魚や蟹。魚介類)の供給が止まったことがあったため、昭武帝がそれを理由に左都水使者・襄陵王・劉攄(りゅうきょ)を斬った。


 また、温明と徽光の二殿を造らせたのに完成しなかったため、将作大匠・望都公・靳陵(きんりょう)を斬った。


 昭武帝は汾水で漁を観て、夜暗くなっても帰らないことがあった。


 中軍大将軍・王彰(おうしょう)が昭武帝を諫めた。


「最近、陛下の為すことを観て、私は実に痛心疾首(痛心・頭痛)しています。今、愚民の漢に帰す心はまだ固まっておらず、晋を思う心がなお盛んで、劉琨(りゅうこん)が咫尺(近距離。劉琨の拠点・晋陽は、漢趙の都・平陽から遠くない場所にある)におり、刺客が縦横しています。帝王が軽率に外出したら、一夫でも敵うものです。陛下の改往修来(過去を改めて善行を修めること)を願います。そうすれば、万民の幸甚となりましょう」


 昭武帝は大いに怒って王彰を斬るように命じた。しかし王夫人(王彰の娘)が叩頭して命乞いをしたため、王彰は斬首を免れて幽囚された。


 太后・張氏は、昭武帝の刑罰が度を越えているため、三日間食事をしなかった。太弟・劉乂(りゅうがい)と単于・劉粲(りゅうさん)も棺を従えて直諫した。


 しかし昭武帝は激怒し、


「私は桀・紂だというのか。汝らは私が生きているのに哀哭しに来たのか」


 と、言った。


 太宰・劉延年(りゅうえんねん)、太保・劉殷(りゅういん)ら、公卿・列侯百余人も、皆、冠を脱いで涕泣し、こう言った。


「陛下は功が高くて徳が厚く、古から今まで、比べられる者はわずかしかいません。過去における堯・舜が、今日の陛下です。ところが、最近、わずかな不供(魚介類を供給できなかったことや宮殿を完成できなかったこと)によって、すぐに王公(劉攄と靳陵)を斬り、直言が意に逆らったため、すぐに王彰を捕らえました。これは私らが心中で理解できないことです。そのため、私らは互いに憂慮して、寝食も忘れるほどです」


 昭武帝が憤慨しつつも、


「私は大いに酔っていたのだ。本心ではない。汝らがこれを言わなかったら、私は過失を聞くことがなかっただろう」


 といい、それぞれに帛百匹を下賜し、侍中に符節を持たせて、王彰を赦す宣言をさせた。


「先帝は君を左右の手のように頼りとし、君は二代にわたって勲功を明らかにしてきた。どうしてそれを忘れられるだろうか。この度の過ちを、君が心中に留めないことを願う。君が心意を尽くして国を憂うることができるならば、それは私が望むことである。今、君を驃騎将軍・定襄郡公に進める。後に足りないことがあった時にも、しばしばそれを匡正してもらえれば幸いだ」


 



 王彌が死んでから、漢趙の安北将軍・趙固(ちょうこ)と平北将軍・王桑(おうさん)は石勒(せきろく)に併呑されることを恐れ、兵を率いて平陽に帰ろうとした。しかし軍中で食糧が欠乏し、士卒が互いに食す有様になってしまった。


 そこで、䂭磽津から西に黄河を渡った。


 その頃、晋の并州刺史・劉琨は兄の子・劉演(りゅうえん)を魏郡太守にして鄴を鎮守させた。


 王桑は劉演に邀撃されることを恐れたため、長史・臨深(りんしん)を人質として劉琨に送った。劉琨は趙固を雍州刺史に、王桑を豫州刺史にした。


 晋の安定太守・賈疋(かひつ)らが長安を包囲して数カ月が経った。


 漢趙の中山王・劉曜(りゅうよう)は連戦して全て敗れたため、士女八万余口を略奪して平陽に奔った。


 秦王・司馬鄴(しばぎょう)は雍から長安に入った。


 五月、昭武帝は敗れて帰ってきた劉曜の位を落として龍驤大将軍・行大司馬にした。


 昭武帝は河内王・劉粲(りゅうさん)に三渚の傅祗(ふてい)を攻撃させ、右将軍・劉参(りゅうさん)に懐の郭黙(かくもく)を攻撃させた。


 因みに三渚という場所は何かと言うと、傅祗は盟津の小城に駐屯しており、盟津は河平侯祠に二渚があり、また、淘渚があったため、「三渚」と呼ばれていた。


 ちょうど傅祗が病死したため、城が陥落した。


 劉粲は傅祗の子や孫と士民二万余戸を併せて平陽に遷した。


 六月、昭武帝は貴嬪・劉英(りゅうえい)を皇后に立てようとしたが、張太后が貴人・張徽光を立てるように欲したため、昭武帝はやむなくこれに同意した。


 劉英は暫くして死んだ。


 続けて漢趙の大昌公・劉殷が死んだ。


 劉殷は相になってから、皇帝の尊厳を犯してまで強く意見に逆らうことはなかったが、事象に基いて意見を進め、甚だ多くの益をもたらした。


 昭武帝が群臣と政事を議しても、劉殷はいつも賛成も反対もしなかったが、群臣が退出してから、劉殷だけが留まり、昭武帝のために道理を詳しく述べて、事宜を討議した。それに対して、昭武帝は従わないことはなかったという。


 劉殷は常に子や孫を戒めてこう言っていた。


「主君に仕えたら幾諫(婉曲に諫めること)に務めるべきだ。凡人でもその過失を面前で叱責してはならないのだから、天子に対してならなおさらである。幾諫の功(功績)は犯顔(尊厳を犯すこと。強い諫言)と異ならないが、主君の過失を明らかにしないので、その点で犯顔よりも優れている」


 劉殷は官が侍中・太保・録尚書に及び、「剣履上殿(剣を帯びて履物を履いたまま上殿できること)」「入朝不趨(入朝の際、小走りになる必要がないこと)」「乗輿入殿(輿に乗って入殿できること)」の特権を下賜された。


 しかし劉殷は公卿の間にいる時、常に温順かつ慎重で、謙虚であった。そのため、驕慢暴虐の国にいてもその富貴を保って美名を失うことなく、長寿を全うすることができたと後世で評価された。


 昭武帝は河間王・劉易(りゅうえき)を車騎将軍に、彭城王・劉翼(りゅうよく)を衛将軍に任命し、並んで兵を管理して宿営させた。


 また、高平王・劉悝(りゅうかい)を征南将軍にして離石を鎮守させ、済南王・劉驥を征西将軍にして、西平城を築いて住ませた。


 魏王・劉操(りゅうそう)を征東将軍にして蒲子を鎮守させた。


 趙固と王桑は懐から漢趙に使者を送り、自分達を迎え入れるように求めた。


 昭武帝は鎮遠将軍・梁伏疵(りょうふくし)を派遣し、兵を率いて二人を迎えさせることにした。しかし梁伏疵が至る前に、長史・臨深と将軍・牟穆(いんぼく)が兵一万を率いて趙固らに叛し、劉演に帰順した。


 趙固は何とか梁伏疵に合流し、彼に従って西に向かった。王桑は自分の兵を率いて東の青州に奔ったが、趙固が兵を派遣し、追撃させて曲梁で殺した。


 王桑の将・張鳳(ちょうおう)は余衆を率いて劉演に帰順した。


 昭武帝は趙固を荊州刺史・領河南太守に任命し、洛陽を鎮守させることにした。


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