表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
紅蓮の大地  作者: 大田牛二
第二章 五胡躍動

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

65/226

右侯

 312年


 漢趙の鎮北将軍・靳沖きんちゅうと平北将軍・卜珝ぼくくが并州を侵し、晋陽を包囲した。


 その頃、漢趙の昭武帝・劉聡りゅうそうは、皇后・呼延氏が死んだこともあり、司空・王育おういくと尚書令・任顗じんがいの娘を左・右昭儀に、中軍大将軍・王彰おうしょう、中書監・范隆はんりょう、左僕射・馬景ばけいの娘を全て夫人に、右僕射・朱紀しゅきの娘を貴妃にし、皆に金印紫綬を授けた。


 昭武帝は太保・劉殷りゅういんの娘も娶ろうとしたが、太弟・劉乂りゅうがいは同姓であることを理由に強く諫めた。


 昭武帝が太宰・劉延年りゅうえんねんと太傅・劉景りゅうけいに意見を求めると、二人はこう言った。


「太保は自ら劉康公の後代だと言っており、陛下とは源が異なっております。これを納れて、何の害がありましょうか」


 劉康公とは春秋時代の周の卿士で、劉(地名)を食采にしたため、それが氏になった。劉聡は匈奴の後代で、漢帝の甥という立場から劉氏を名乗っているので、劉康公の劉氏とは起源が異なるということである。


 この意見を聞いて悦んだ昭武帝は、劉殷の二人の娘である劉英りゅうえい劉娥りゅうがいを左・右貴嬪とし、位を昭儀の上にした。


 また、劉殷の孫娘四人も納れて全て貴人とし、位を貴妃の下にした。


 この後、六劉(左・右貴嬪と四人の貴人)の寵が後宮を傾け、昭武帝はほとんど外に出なくなり、諸事は中黄門が奏決(皇帝に上奏して裁決を請うこと)するようになった。

 そ

 それでも昭武帝は戦には積極的で、太原を侵した。


 故鎮南府の牙門将・胡亢ここうが竟陵で兵を集めて荊州で略奪を為し、自ら楚公を号した。


 胡亢は司馬歆の南蛮司馬だった新野の人・杜曾とそうを竟陵太守にした。


 杜曾は勇が三軍に冠し、甲冑を身につけたまま水中で泳ぐこともできるという猛将として有名な人物である。








 その頃、漢趙の石勒せきろくは葛陂に営塁を築くと、農務を監督・奨励して舟を建造し、建業を攻撃しようとしていた。


 琅邪王・司馬睿しばえいは江南の衆を寿春に大集結させ、鎮東長史・紀瞻きせんを揚威将軍に任命して、諸軍を都督して石勒を討たせることにした。


 ちょうど大雨が降り、三カ月にわたって止まなかった。石勒の軍中では飢疫のため死者が太半に上ってった。しかも晋軍がすぐに至ると聞いたため、石勒は将佐を集めて会議を開き、どうするべきかを図った。


 右長史・刁膺ちょうようが、まずは司馬睿に帰順の意を示し、河朔の掃討を持って、贖罪することを求め、司馬睿の軍が退くのを待ってから、改めてゆっくり策を図るように請うた。


 それを聞いた石勒は愀然長嘯した。「愀然」は憂愁の様子、「長嘯」は長く声を発することである。長い溜息をついたという想像してもらえば、良いかもしれない。


 中堅将軍・夔安きょうあんが、高地に移って水を避けるように請うと、石勒は、


「将軍はなぜ怯んでいるのか?」


 と、言った。これに孔萇こうちょうら三十余将が、それぞれ兵を率いて、道を分けて夜のうちに寿春を攻め、呉将の頭を斬り、その城を占拠し、その食糧を食べ、軍を立て直した後、年内に丹陽を破って江南を定めることを請うた。


 石勒は笑って、


「これは勇将の計である」


 と言い、鎧馬一匹を下賜した。そこから石勒は無言になった。


(将軍は何を聞こうとしているのか?)


 既に消極的な意見も、積極的な意見も出ている。これ以上の意見を求めてもどうするのか。そう諸将が思っている中、張賓ちょうひんが進み出た。


 石勒が彼を顧みて問うた。


「お前の意は如何だ?」


 張賓は言った。


「将軍は京師を攻略し、天子を捕え、王公を殺害し、妃嬪・公主を凌辱されました。将軍の髪を抜いても、将軍の罪を数え尽くすには足らないでしょう。どうしてまた臣下として晋朝を奉じることができるでしょうか。去年、既に王彌を殺害してから、ここに来るべきではありませんでした」


 王彌は漢趙の将として東方を守っていたが、石勒が殺した。もし本来、建業を攻め込むことを考えていたのであれば、王彌が生きている間に後援になってもらった上で攻め込むべきであった。彼の言いたいことは王彌を殺害しなければよかったと言った話ではなく、石勒の戦略方針が一定ではなく、向こう見ず過ぎるということである。


「今、天が大雨を数百里にわたって降らせたのは、ここに留まるべきではないと将軍に示しているのです。鄴は三台の堅固な守りがあります」


 鄴城の西北に三台があり、中央は銅台で、高さが十丈あり、後に石虎が二丈を増やすため十二丈の高さになる。南には金雀台があり、高さは八丈、北には冰井台があり、高さは同じく八丈であった。


「西は平陽(漢趙の都)に接し、山河が四方を塞いでいるので、将軍は北に遷ってこれを占拠することで、河北を支配なさるべきです。河北が既に定まったら、天下には将軍の右に出る者がいなくなります。晋は寿春を守っていますが、将軍が攻めて来ることを畏れているだけで、自ら攻撃に転じる勇気はありません。我々が去ったと彼らが聞いたら、自分を保全できたことに大喜びすることでしょう。我々の後を追って襲い、我々の不利を為すような余裕がどこにありましょうか。将軍は輜重を北道から先発させ、将軍自ら大兵を率いて寿春に向かうべきです。輜重が遠くまで進んでから、大兵がゆっくり還れば、進退の地がないことを憂いる必要はありません」


 石勒は袖をまくって髭を鼓動させるや、


「張君の計が是である」


 と言った。その後、刁膺を譴責した。


「お前は輔佐となったのだから、共に大功を成すべきである。どうして急いで私に投降を勧めるのだ。お前の策の内容は死に値する。しかしかねてからお前が臆病であることを知っているので、特別に寛恕することにしよう」


 石勒は刁膺を免じて将軍とし、張賓を右長史に抜擢した。張賓は「右侯」と号され、石勒は彼を生涯尊重し過ぎることになる。


 石勒は兵を率いて葛陂を発した。石虎せきこを派遣し、騎兵二千を率いて寿春に向かわせた。


 その石虎軍が晋の輸送船に遭遇したため、将士が争って奪おうとしたが、紀瞻に敗れた。


 紀瞻は百里にわたって奔走する石虎の兵を追い、前進して石勒の本営に至った。しかし石勒は陣を構えて待機していた。紀瞻は敢えて攻撃することができず、退いて寿春に還った。




評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ