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紅蓮の大地  作者: 大田牛二
第二章 五胡躍動

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長安陥落

 当時、海内が大いに乱れている中、江東だけがやや安定していた。そのため中原の士民で乱を避けた者の多くが南に向かって江を渡った。


 鎮東司馬・王導おうどうは琅邪王・司馬睿に説き、賢俊を受け入れて彼らと事を共にするように勧めた。司馬睿はこれに従い、掾属百余人を招聘した。当時の人々はこれを「百六掾」と呼んだ。


 前潁川太守・勃海の人・刁協ちょうきょうを軍諮祭酒に、前東海太守・王承おうしょうと広陵相・卞壼べんこんを従事中郎に、江寧令・諸葛恢しょかつかいと歴陽参軍・陳国の人・陳頵ちんいんを行参軍に、前太傅掾・庾亮ゆりょうを西曹掾にした。


 王承は王渾(晋の功臣)の弟の子、諸葛恢は諸葛靚の子(諸葛靚は魏末に挙兵した諸葛誕の子)、庾亮は庾袞の弟の子である。


 華歆の曾孫・華軼かいつは江州刺史になっていたが、朝廷の任命を受けていたにも関わらず、琅邪王・司馬睿に監督されていると思い、司馬睿の教令を受け入れないことが多々あった。


 郡県の多くが諫めたが、華軼は、


「私は詔書を見たいだけだ」


 と、言って聞き入れなかった。


 司馬睿は荀藩の檄文を受け取ってから、承制(皇帝の代わりに命令すること)によって官司を任命・配置し、長吏を交替していった。しかし華軼と豫州刺史・裴憲はいけんはこの命に従おうとしなかった。


 そこで司馬睿は、揚州刺史・王敦おうとん、歴陽内史・甘卓かんたくと揚烈将軍・廬江の人・周訪しゅうぼうを派遣し、兵を合わせて華軼を撃たせることにした。華軼は兵が敗れて安成に奔ったが、周訪が追撃して華軼とその五子を斬った


 裴憲は幽州に奔った。


 司馬睿はこの功績を元に甘卓を湘州刺史に、周訪を尋陽太守に任命し、また、揚武将軍・陶侃とうかんを武昌太守に任命した。









 七月、晋の王浚おうしゅんが壇を設けて告類(上天に報告する祭祀)を行い、皇太子を立てた。


 天下に布告し、中詔(宮中が直接発した詔)を受けたと称して、承制(皇帝の代わりに命令を出すこと)によって封拝(封爵・任官)し、百官を備え置き、征・鎮を列ねて配置し、荀藩を太尉に、琅邪王・司馬睿を大将軍にした。


 王浚は自ら尚書令を兼任し、裴憲とその壻に当たる棗嵩さくすうを尚書に、田徽でんびを兗州刺史に、李惲りこんを青州刺史に任命した。


 しかし王浚がこの時、誰を皇太子に立てたのかは不明である。


 漢趙の石勒せきろくは穀陽を侵し、晋の沛王・司馬滋しばびは戦に敗れて害に遇った。


 南陽王・司馬模しばこうはこれを受け、牙門・趙染ちょうせんに蒲坂を守備させた。当時は漢趙の昭武帝・劉聡りゅうそうが平陽にいて関中を窺っており、蒲坂はそれに対抗するための要衝に当たる。ところが、趙染は馮翊太守の職を求めたのに得られなかったため、怒って部衆を従え、漢趙に降ってしまった。


 昭武帝は趙染を平西将軍にした。


 八月、昭武帝が趙染と安西将軍・劉雅りゅうがを派遣し、騎兵二万を率いて長安の司馬模を攻撃させた。河内王・劉粲りゅうさんと始安王・劉曜りゅうようは大軍を率いて後に続いた。


 趙染は潼関で司馬模の兵を敗り、長駆して下邽に至った。


 涼州の将・北宮純ほくきゅうじゅんは長安が包囲される前に自分の兵を率いて長安を出るとそのまま漢趙に降った。


 漢趙の兵が長安を包囲した。


 司馬模は淳于定じゅうていを出陣させて包囲を突破しようとしたが、敗れた。


 包囲を受け、長安の倉庫が空虚になって士卒も離散したため、司馬模はついに漢趙に投降した。趙染は司馬模を河内王・劉粲に送った。


 九月、劉粲は司馬模を殺した。


 当時は関西を饑饉が襲い、白骨が野を覆っていた。士民で生存している者は百分の一二もいなかったという。


 昭武帝は劉曜を車騎大将軍・雍州牧に任命し、中山王に改封して長安を鎮守させた。また、王彌おうびを大将軍に任命して斉公に封じた。









 苟晞こうきは驕っており、法が苛酷であった。


 前遼西太守・閻亨えんていがしばしば苟晞を諫めたが、逆に殺されてしまった。因みに閻亨は閻纘の子である。


 この時、従事中郎・明預めいよは病を患っていたが、自ら轝に乗って諫めに行った。


 苟晞が怒って言った。


「私が閻亨を殺したのは、他人とは関係がないことだ。それなのに、病をおして轝に乗り、私を罵りに来たのか」


 明預はこう返した。


「あなた様が礼を用いて私を遇したので、私も礼を用いて尽力するのです。今、あなた様は私に対して怒りを抱いていますが、遠近が明公に対して怒りを抱いたら如何するのでしょうか。桀は天子でしたが、それでも驕暴によって亡びました。人臣ならなおさらです。あなた様がとりあえずはこの怒りを棄てて、私の言を考慮することを願います」


 しかし苟晞は従わなかった。そのため、衆心が苟晞から離れて怨むようになった。


 加えて疾疫や饑饉にも襲われており、もはや彼に従う者はほとんどいなかった。


 因みに明預の明氏は秦の大夫・孟明視の子孫で、平原の望姓(声望がある氏族))であるという。


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