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紅蓮の大地  作者: 大田牛二
第二章 五胡躍動

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洛陽陥落

 漢趙の昭武帝・劉聡(りゅうそう)は前軍大将軍・呼延晏(こえんあん)に二万七千を率いさせて、洛陽に侵攻させた。


 呼延晏が河南に至るまでに、晋軍は前後十二敗して死者が三万余人に上った。


 始安王・劉曜(りゅうよう)と王彌(おうび)、石勒(せいろく)もそれぞれ兵を率いて呼延晏に合流するため進軍を開始した。


 劉曜らが到着する前に、呼延晏が輜重を張方の故塁に留めて(張方の故塁は洛陽の西に七里の場所にある)先に洛陽に至った。


 そのまま呼延晏は平昌門(洛城南面の東から一番目の門)を攻め立てて数日で落とすと更に東陽門と諸府寺を焼いた。


 しかし六月、後継が到着しないため、呼延晏は俘掠(人や物を奪うこと)して一旦、去ることにした。西晋の懐帝・司馬熾(しばし)が東に走るために洛水で舟を準備していたが、呼延晏は全て焼いていった。


 晋の司空・荀藩(じゅんはん)と弟の光禄大夫・荀組(じゅんしょ)が轘轅に奔った。


 王彌が宣陽門(洛城南面の東から四番目の門。「謻門」とう)に至り、劉曜も西明門に至った。


 王彌と呼延晏が宣陽門を落とし、南宮に入って太極前殿に登った。兵を放って大いに略奪させ、宮人(宮女)や珍宝を全て収めた。


 懐帝は華林園門を出て長安に奔ろうとしたが、漢趙の兵が追撃して懐帝を捕え、端門に幽閉した。


 劉曜は西明門から入って武庫に駐屯し、そこで晋の太子・司馬詮(しばせん)と呉王・司馬晏(しばあん)、竟陵王・司馬楙(しばぼう)、右僕射・曹馥(そうふく)、尚書・閭丘沖(りょきゅうちゅう)、河南尹・劉黙(りゅうもく)らを殺した。士民の死者が三万余人に上った。


 劉曜は宮中を進んでいった。彼はそのまま恵帝の皇后・羊献容(ようけんよう)の部屋に突入した。


「ひぃ」


 羊献容は彼を見るや体を震わす。綠珠(りょくじゅ)に言われ、逃げることなく部屋に籠っていたが、こうして突入されてみれば、恐怖で体がこわばってしまう。


「ふむ」


 劉曜は彼女を見るや顎を撫でる。


「おい、女」


「は、はい」


「お前、美しいな。妻となれ」


 そう言うや彼は彼女を抱きかかえ、そのまま連れて行ってしまった。それを綠珠は黙ってみるばかりであった。


 劉曜は羊献容を妻とすると宣言し、彼女を保護した後、懐帝と六璽を平陽に遷した。


 石勒は兵を率いて轘轅を出て、許昌に駐屯した。その間、晋の光禄大夫・劉蕃(りゅうはん)と尚書・盧志(とし)は并州に奔り、劉琨(りゅうこん)を頼った。


 洛陽を陥落させた漢趙の昭武帝は大赦を行い、光興二年から嘉平元年に改元した。懐帝を特進・左光禄大夫とし、平阿公に封じた。


 また、侍中・庾珉(ゆこん)と王儁(おうしゅん)を光禄大夫にした。庾珉は庾敳の兄です。


 洛陽を攻略してから王彌が劉曜に説いた。


「洛陽は天下の中心であり、山河が四方を塞いでいて、城池・宮室も修築・造営の必要がありません。平陽から遷ってここを都にするように、主上にご進言なさっては如何でしょうか?」


 しかし劉曜は天下がまだ安定しておらず、洛陽は四面に敵を受ける地なので、守ることができないと考え、王彌の策を用いずに洛陽を焼いてしまった。


 王彌は罵って、


「屠各子には、帝王になろうという意思がないのか」


『屠各子』とは「屠各の子」「屠各の若僧」という言葉で、「屠各」は匈奴の部族名のことである。屠各は匈奴の中でも最も豪貴だったため、単于として諸種族を統率することが多かった。


 こうして王彌と劉曜に間隙が生まれるようになった。


 王彌は兵を率いて東に向かい、項関に駐屯した。


 前司隸校尉・劉暾(りゅうとん)が王彌に説いた。


「今は九州が糜沸(粥が沸騰するように混乱すること)しており、群雄が天下を争っています。将軍は漢趙において不世の功を建て、また、始安王との間で互いに和を失いました。将来、どうやって自分の身を安んじられるのですか。東に向かって本州を拠点とし(王彌は青州東莱の人)、ゆっくり天下の形勢を観察なさるべきです。そうすれば、うまくいけば四海を統一でき、うまくいかなくても割拠の業を失うことはありません。これこそが上策です」


 王彌は心中で納得した。


 晋の司徒・傅祗(ふてい)が河陰に行台(臨時の政府機関)を建てた。当時、司空・荀藩は陽城におり、河南尹・華薈(かそう)は成皋にいた。汝陰太守・平陽の人・李矩(りく)が彼らのために家屋を建てたり、穀物を輸送して供給した。


 華薈は華歆(後漢末から魏の名士・重臣)の曾孫である。


 荀藩と弟の荀組、族子の中護軍・荀崧(じゅんしょう)および華薈と弟の中領軍・華恆(かこう)も密(地名)に行台を建てた。


 四方の州鎮に檄文を伝え、琅邪王・司馬睿(しばえい)を推して盟主にした。


 荀藩は承制(皇帝の代わりに命令を出すこと)によって荀崧を襄城太守に、李矩を滎陽太守に、前冠軍将軍・河南の人・褚翜(ちょしょう)を梁国内史にした。


 揚威将軍・魏浚(ぎしゅん)が洛北の石梁塢に駐屯していた。そのため劉琨は承制によって魏浚に河南尹の官位を授けた。


 魏浚が荀藩を訪ねて軍事について策謀した。荀藩は李矩も招いて会合させた。


 夜、李矩が赴こうとすると、李矩の官属が皆、こう言った。


「魏浚は信用できないので、夜に行くべきではありません」


 しかし李矩は、


「忠臣とは心を同じにするものだ。何を疑うことがあるのか」


 と言って出発し、共に交友して去った。


 魏浚の族子・魏該(ぎがい)が人を集めて一泉塢を拠点にした。荀藩は魏該を武威将軍にした。


 太子・司馬詮の弟に当たる豫章王・司馬端(しばたん)は、東の倉垣に奔って苟晞(こうき)を頼った。苟晞も群官を率いて司馬端を皇太子に奉じ、行台を設けた。


 司馬端は承制によって苟晞を領太子太傅・都督中外諸軍・録尚書事に任命し、官属を備え置き、倉垣から梁国の蒙城に遷って駐守した。


 撫軍将軍・秦王・司馬鄴(しばぎょう)(後の愍帝)は南の密に奔った。司馬鄴は呉孝王・司馬晏の子で(司馬晏は武帝の子)、荀藩の甥に当たり、この時十二歳であった。


 荀藩等は司馬鄴を奉じて更に南の許昌に向かった。


 前豫州刺史・天水の人・閻鼎(びんてい)が、密で西州の流民数千人を集めてから、郷里に還ろうとした。荀藩は、


「閻鼎は才があるので衆を擁している」


 とみなして、豫州刺史に任用した。中書令・李絚(りひつ)、司徒左長史・彭城の人・劉疇(りゅうちょう)、鎮軍長史・周顗(しゅうがい)、司馬・李述(りじゅつ)らを閻鼎の参佐にした。周顗は周浚の子である。

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― 新着の感想 ―
[一言] 石勒は劉淵と違い漢文を読めなかったので中華文化圏の歴史等は口伝で学びながらも歴史上の人物の行動や考えを自分ならどうするかと常に考えながら学んで成長したとのことですが、この後の動きはどのあたり…
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