洛陽陥落
漢趙の昭武帝・劉聡は前軍大将軍・呼延晏に二万七千を率いさせて、洛陽に侵攻させた。
呼延晏が河南に至るまでに、晋軍は前後十二敗して死者が三万余人に上った。
始安王・劉曜と王彌、石勒もそれぞれ兵を率いて呼延晏に合流するため進軍を開始した。
劉曜らが到着する前に、呼延晏が輜重を張方の故塁に留めて(張方の故塁は洛陽の西に七里の場所にある)先に洛陽に至った。
そのまま呼延晏は平昌門(洛城南面の東から一番目の門)を攻め立てて数日で落とすと更に東陽門と諸府寺を焼いた。
しかし六月、後継が到着しないため、呼延晏は俘掠(人や物を奪うこと)して一旦、去ることにした。西晋の懐帝・司馬熾が東に走るために洛水で舟を準備していたが、呼延晏は全て焼いていった。
晋の司空・荀藩と弟の光禄大夫・荀組が轘轅に奔った。
王彌が宣陽門(洛城南面の東から四番目の門。「謻門」とう)に至り、劉曜も西明門に至った。
王彌と呼延晏が宣陽門を落とし、南宮に入って太極前殿に登った。兵を放って大いに略奪させ、宮人(宮女)や珍宝を全て収めた。
懐帝は華林園門を出て長安に奔ろうとしたが、漢趙の兵が追撃して懐帝を捕え、端門に幽閉した。
劉曜は西明門から入って武庫に駐屯し、そこで晋の太子・司馬詮と呉王・司馬晏、竟陵王・司馬楙、右僕射・曹馥、尚書・閭丘沖、河南尹・劉黙らを殺した。士民の死者が三万余人に上った。
劉曜は宮中を進んでいった。彼はそのまま恵帝の皇后・羊献容の部屋に突入した。
「ひぃ」
羊献容は彼を見るや体を震わす。綠珠に言われ、逃げることなく部屋に籠っていたが、こうして突入されてみれば、恐怖で体がこわばってしまう。
「ふむ」
劉曜は彼女を見るや顎を撫でる。
「おい、女」
「は、はい」
「お前、美しいな。妻となれ」
そう言うや彼は彼女を抱きかかえ、そのまま連れて行ってしまった。それを綠珠は黙ってみるばかりであった。
劉曜は羊献容を妻とすると宣言し、彼女を保護した後、懐帝と六璽を平陽に遷した。
石勒は兵を率いて轘轅を出て、許昌に駐屯した。その間、晋の光禄大夫・劉蕃と尚書・盧志は并州に奔り、劉琨を頼った。
洛陽を陥落させた漢趙の昭武帝は大赦を行い、光興二年から嘉平元年に改元した。懐帝を特進・左光禄大夫とし、平阿公に封じた。
また、侍中・庾珉と王儁を光禄大夫にした。庾珉は庾敳の兄です。
洛陽を攻略してから王彌が劉曜に説いた。
「洛陽は天下の中心であり、山河が四方を塞いでいて、城池・宮室も修築・造営の必要がありません。平陽から遷ってここを都にするように、主上にご進言なさっては如何でしょうか?」
しかし劉曜は天下がまだ安定しておらず、洛陽は四面に敵を受ける地なので、守ることができないと考え、王彌の策を用いずに洛陽を焼いてしまった。
王彌は罵って、
「屠各子には、帝王になろうという意思がないのか」
『屠各子』とは「屠各の子」「屠各の若僧」という言葉で、「屠各」は匈奴の部族名のことである。屠各は匈奴の中でも最も豪貴だったため、単于として諸種族を統率することが多かった。
こうして王彌と劉曜に間隙が生まれるようになった。
王彌は兵を率いて東に向かい、項関に駐屯した。
前司隸校尉・劉暾が王彌に説いた。
「今は九州が糜沸(粥が沸騰するように混乱すること)しており、群雄が天下を争っています。将軍は漢趙において不世の功を建て、また、始安王との間で互いに和を失いました。将来、どうやって自分の身を安んじられるのですか。東に向かって本州を拠点とし(王彌は青州東莱の人)、ゆっくり天下の形勢を観察なさるべきです。そうすれば、うまくいけば四海を統一でき、うまくいかなくても割拠の業を失うことはありません。これこそが上策です」
王彌は心中で納得した。
晋の司徒・傅祗が河陰に行台(臨時の政府機関)を建てた。当時、司空・荀藩は陽城におり、河南尹・華薈は成皋にいた。汝陰太守・平陽の人・李矩が彼らのために家屋を建てたり、穀物を輸送して供給した。
華薈は華歆(後漢末から魏の名士・重臣)の曾孫である。
荀藩と弟の荀組、族子の中護軍・荀崧および華薈と弟の中領軍・華恆も密(地名)に行台を建てた。
四方の州鎮に檄文を伝え、琅邪王・司馬睿を推して盟主にした。
荀藩は承制(皇帝の代わりに命令を出すこと)によって荀崧を襄城太守に、李矩を滎陽太守に、前冠軍将軍・河南の人・褚翜を梁国内史にした。
揚威将軍・魏浚が洛北の石梁塢に駐屯していた。そのため劉琨は承制によって魏浚に河南尹の官位を授けた。
魏浚が荀藩を訪ねて軍事について策謀した。荀藩は李矩も招いて会合させた。
夜、李矩が赴こうとすると、李矩の官属が皆、こう言った。
「魏浚は信用できないので、夜に行くべきではありません」
しかし李矩は、
「忠臣とは心を同じにするものだ。何を疑うことがあるのか」
と言って出発し、共に交友して去った。
魏浚の族子・魏該が人を集めて一泉塢を拠点にした。荀藩は魏該を武威将軍にした。
太子・司馬詮の弟に当たる豫章王・司馬端は、東の倉垣に奔って苟晞を頼った。苟晞も群官を率いて司馬端を皇太子に奉じ、行台を設けた。
司馬端は承制によって苟晞を領太子太傅・都督中外諸軍・録尚書事に任命し、官属を備え置き、倉垣から梁国の蒙城に遷って駐守した。
撫軍将軍・秦王・司馬鄴(後の愍帝)は南の密に奔った。司馬鄴は呉孝王・司馬晏の子で(司馬晏は武帝の子)、荀藩の甥に当たり、この時十二歳であった。
荀藩等は司馬鄴を奉じて更に南の許昌に向かった。
前豫州刺史・天水の人・閻鼎が、密で西州の流民数千人を集めてから、郷里に還ろうとした。荀藩は、
「閻鼎は才があるので衆を擁している」
とみなして、豫州刺史に任用した。中書令・李絚、司徒左長史・彭城の人・劉疇、鎮軍長史・周顗、司馬・李述らを閻鼎の参佐にした。周顗は周浚の子である。




