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紅蓮の大地  作者: 大田牛二
第二章 五胡躍動

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苦県の戦い

 四月、漢趙の石勒せきろくの元にある報告がなされた。


「司馬越が死んだのか」


「ええ、そのようですね」


 参軍都尉・張賓ちょうひんは頷く。


「如何にするべきだ?」


 そう石勒が訪ねると張賓は毅然と、


「全力を持って司馬越を失った晋軍を叩きましょう」


 と、言った。司馬越は己の保身を含めて晋王朝の多くの人材を連れていた。その人材をここで、


(すり潰してしまうべきだ)


 それが張賓の考えであった。


 石勒は彼の言葉に頷くと軍の速さを優先し、軽騎を率いて太傅・司馬越の霊柩を追撃し、苦県寧平城で追いついた。


 これを受け、晋の太尉・王衍おうえん銭端ぜんたんに命じて迎え撃たせた。だが、石勒はこれを返り討ちにし、銭端を斬り殺した。


 この圧倒的強さを前に晋軍は石勒の軍に木っ端微塵に粉砕された。


「徹底的に潰すぞ」


 石勒は騎兵を放って晋兵を包囲し、矢を射させた。晋の将士・十余万人が互いに踏みつけあって山のように重なり、逃れられた者は一人もいなかった。


 石勒は王衍、襄陽王・司馬範しばはん、任城王・司馬済しばざい、武陵王・司馬澹しばせん、西河王・司馬喜しばき、梁王・司馬禧しばき、斉王・司馬超(sばちょう)(八王の乱で死んだ斉王・司馬冏の子)および吏部尚書・劉望りゅうぼう、廷尉・諸葛銓しょかつせん、豫州刺史・劉喬りゅうきょう、太傅長史・庾敳ゆがいらを捕えた。


 彼らを幕下に坐らせると石勒は、


「お前らに問いたいことがある。なぜ、晋はこんな様なんだ?」


 と、晋が衰退した理由を問いかけた。


 すると、王衍が進み出て、晋の禍敗の理由を詳しく陳述し始めた。


(わかりやすいな)


 王衍の言葉は石勒と言えどもわかりやすい内容で、なるほど王朝の高官の話術というのはこういうものを言うのかと石勒は思った。


 だが、衰退の理由はわかりやすいが、その衰退を招いた原因は自分には無いとしているのは気に入らない。しかも、自分には若い頃から仕官の希望がなく、世事にも関与しなかったと言い始めた。


 更には石勒に向かってこれを機に、尊号を称すように勧め始めた。


 それに対して石勒は言った。


「お前は少壮から朝廷に登り、その名は四海を覆い、重任に居たではないか。どうして宦情がなかったと言えるのか。天下を破壊したのは、お前ではなくて誰だというのだ」


(こんなやつに天下が運営されていたのか)


 石勒は怒りを抱きながら、左右の者に命じて王衍を抱え出させた。


 衆人は死を畏れ、多くが自分の責任ではないことを陳述し始めた。しかし襄陽王・司馬範だけは表情を儼然(厳粛な様子)とさせ、顧みて、


「今日の事について、何をまた議論するのだ」


 と、叱責した。


(ほう、男がいるではないか)


 石勒は孔萇こうちょうに言った。


「私は各地を巡ってきたが、このような人には会ったことがない。活かすべきではないか?」


 しかし孔萇はこう言った。


「彼は晋の王公ですので、最期まで我々に用いられることはないでしょう」


 石勒は頷きながらも、


「その通りだ。彼は決して鋒刃を加えてはならない」


 その後、諸王公や卿士は外に引き出され、一人一人順番に首を刎ねられ、その死者はおびただしい数に上った。王衍と司馬範はこの場で処刑せず、夜になってから人を派遣して壁を押し倒し、その下敷きにして圧殺した。


 王衍は死の直前に、


「ああ、我らは古人に及ばない。もし、虚無の清談にうつつを抜かさず、力を合わせて国家のために尽くしていたのであれば、今日のような事態に陥りはしなかったであろう」


 と、慟哭した。綺麗なことを言っているように見えるが最後まで自分の責任としなかっただけである。


 石勒は司馬越の棺を割って死体を引きずり出すと、


「天下を乱したのはこの人だ。私は天下のために報いたと言っていいだろう。よって、その骨を焚いて(焼いて)天地に告げるとしよう」


 と、言って死体を焼いた。


「こんなやつらに天下を与えているぐらいなら、俺にくれよ」


 石勒は煙が天に昇っていくのを見ながらそう呟いた。


 司馬越の寵臣であった何倫かりんらは洧倉(洧水の邸閣(食糧倉庫)。洧水は俗に「汶水」と呼ばれていたため、「洧倉」は「汶倉」ともいう)に至って石勒に遭遇し、敗戦した。東海王の世子および宗室四十八王が全て石勒によって殺された。


 何倫は下邳に奔り、李惲りこんは広宗に奔った。


 司馬越の妃であった裴妃は逃亡中、人にさらわれて売られたが、久しくして渡江することができた。


 元々、琅邪王・司馬睿(しばえい9に建業を鎮守させたのは裴妃の意だったため、司馬睿はこれを感謝し、厚く安撫・慰問を加えて自分の子・司馬沖しばちゅうに司馬越の後を継がせた。


 漢趙の趙固ちょうこ王桑おうそうが徐州刺史・裴盾はいじゅんを攻めて殺した中、杜弢とげんが長沙を攻めた。


 五月、湘州刺史・荀眺じゅんとうが城を棄てて広州に奔ったが、杜弢が追撃して捕えた。


 その後、杜弢は南に向かって零陵・桂陽を破り、東に向かって武昌を掠め、太守や県吏で殺された者は甚だ多数いた。


 晋が太子太傅・傅祗ふていを司徒に、尚書令・荀藩じゅんはんを司空に任命し、司空・王浚おうしゅんに大司馬・侍中・大都督・督幽冀諸軍事を加え、征西大将軍・南陽王・司馬模しばこうを太尉・大都督に、張軌ちょうきを車騎大将軍に、安東将軍・琅邪王・司馬睿を鎮東大将軍・兼督揚江湘交広五州諸軍事にした。


 以前、太傅・司馬越は、南陽王・司馬模では関中を平定できないと考え、上表して司馬模を召還し、司空に任命しようとした。しかし将軍・淳于定じゅううていが司馬模に説いて召還に応じないように勧めたため、司馬模はこれに従っていた。


 司馬模は上表して世子・司馬保しばほを平西中郎将とし、上邽を鎮守させた。


 ところが秦州刺史・裴苞はいほうが司馬保を拒んだため、司馬模は帳下都尉・陳安ちんあんに裴苞を攻撃させた。裴苞は安定に奔り、太守・賈疋かていが裴苞を受け入れた。


 東海王・司馬越は洛陽を出る時、河南尹・潘滔はんとうに洛陽を居守させていた。


 当時、大将軍・苟晞こうきが上表して倉垣に遷都するように請い、従事中郎・劉会りゅうかいに船数十艘と宿衛五百人を率いさせ、穀物千斛を携行して西晋の懐帝・司馬熾しばしを迎え入れようとした。


 懐帝はこれに従おうとしたが、公卿が躊躇し、左右の者も洛陽の財産を貪恋したため、結局、実行しなかった。


 五月に至って、洛陽が甚だしい饑困に陥り、人々が互いに食し、百官で流亡した者が十分の八、九に上った。


 そこで懐帝が公卿を召して会議し、ついに出発しようとしたが、警衛が備わっていないため、懐帝は手を打って嘆息し、


「なぜ車輿すらもないのだ」


 と言った。


 懐帝は司徒・傅祗を出して河陰に向かわせ、水行の備えとするために船舶を直して整えさせた。


 朝士数十人が懐帝を先導し、懐帝は歩いて西掖門を出て、銅駝街に至ったが、そこで盗賊に襲われて前に進めなくなったため、皇宮に還った。


 度支校尉・東郡の人・魏浚ぎしゅんが流民数百家を率いて河陰の峡石を守っており、この時、強奪して得た麦を懐帝に献上した。懐帝は魏浚を揚威将軍・平陽太守に任命し、度支校尉はそのままとした。



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― 新着の感想 ―
[一言] 保身ばかり考えていたと後世にまで伝わってしまった王衍らしさが…当世には匹敵するものはいない、古人の中から探すべきとまでいわれたことあったのにもったいない。
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