司馬乂
304年
尚書令・楽広の娘は成都王・司馬穎の妃であった。
ある人が讒言してこれを太尉・司馬乂に告げたため、司馬乂は楽広に問うた。
楽広は表情を変えることなく、落ち着いてこう言った。
「私がどうして五人の男児と一人の女児を交換しようとするのでしょうか?」
娘一人のために裏切ることは無いということである。しかし司馬乂はなおも楽広を疑った。
そのため正月、楽広は憂いのため死んだ。
司馬乂はしばしば司馬穎と戦って破った。前後して六、七万人を斬獲した。
戦が続きながらも司馬乂は奉上の礼(皇帝に仕える礼)を欠かしたことがなく、城中の糧食が日に日に窮乏しても、士卒には離心はなかった。
それを見た張方はこのままでは洛陽の攻略は困難であると考えるようになった。戦況の長期化によって兵たちの士気も下がっていたのも問題であった。
「一度、長安に戻るべきか……」
兵の士気が戦場において大事なことを理解している張方は長安に還ることを考え始めた。
しかし状況は一変する。
東海王・司馬越(司馬泰の子)が、朝廷側が破れるのではないかと憂慮していた。張方によって水不足、食料不足に追い込まれているため、これ以上、戦が長引けば陥落するのは必至であると考えたのである。
「負けるにしても生き残ることこそが大事だ」
司馬越は秘かに殿中の諸将と共に行動を起こし、夜の間に司馬乂を捕えて別省(司馬乂の官府以外の官署か宮室)に送った。
翌朝、司馬越は西晋の恵帝・司馬衷このことを報告した。恵帝は詔を下して司馬乂の官を免じ、金墉城に置くとした。
司馬乂は上表して、
「陛下は温厚で親しみ深く、私に朝政を託してくださいました。私は忠誠と孝行を尽くし、こうして陛下と共に神明を知る事が出来ました。しかしながら他の諸侯王は讒言で惑わし、兵を率いて私を責め、朝臣には忠厚な者がおらず、みな自らの保身を考え、私を捕らえて役所に送り、宮中の奥深くに護送して監禁しました。私は命など惜しんでおりませんが、ただ晋が衰微するのを憂えております。宗室の枝は葉は尽く切り取られ、陛下もまた孤立してしまいましょう。もし私が死ねば恐らく国家は安定し、国家にとっては益となるでしょう。ただ恐れているのは悪人がこれを内心喜んで、陛下が位を降りる事態になる事です」
と述べた。
その後、大赦が行われ、太安三年から永安元年に改元した。
城門が開き、司馬越は張方軍を見た。そこには明らかに士気が下がった兵たちの姿があった。
(しまった……)
司馬越は冷や汗をかいた。自分の行動が自分の首を絞める結果になると思ったのである。
事実、殿中の将士は外の兵が盛んではない様子を見て後悔し始め、改めて司馬乂を奪い出して司馬穎に抵抗しようと謀るようになった。
司馬越はこれを懼れ、司馬乂を殺すことで衆心を絶とうとした。
それを黄門侍郎・潘滔が止めた。
「いけません。我々が司馬乂を殺さなくても自ずからこれを静める者がいます」
(そうだ。司馬乂が再び戦えるようになって困るのは成都王らだ)
納得した司馬越は人を派遣して秘かに張方にこの状況を告げた。
「ほう……」
撤退を考えていた張方であったが、このことを知るやすぐさま郅輔に三千の兵を与えて金墉城にいる司馬乂を奪い、営に連れ帰って焼き殺した。
炎に包まれた司馬乂は死ぬ直前まで、自らの無実を叫び続けて、死んだ。それを見た張方の軍士たちは誰もが司馬乂のために涙を流した。
こうして司馬乂は八王の乱で死んだ五人目の王となった。
八王の乱においての八人の王は誰もが酷評を受ける中、司馬乂は恵帝に対して礼節を失わずにいたことから国家に仕える忠臣であったという評価が与えられている。
朝廷の公卿らは皆、司馬穎を訪ねて謝罪した。
司馬穎は一度、京師に入ってから、再び鄴に戻って鎮守した。
その後、朝廷が詔によって成都王・司馬穎を丞相に任命し、東海王・司馬越に守尚書令を加えた。
司馬穎は従事中郎・成夔らを派遣し、五万の兵を率いて十二城門に駐屯させた。
因みに洛陽城は東に建春・東陽・清明の三門があり、南に開陽・津陽・平昌・宣陽の四門があり、西に広陽・西明・閶闔の三門があり、北に大夏・広莫の二門がある。これらを合わせて十二門である。
司馬穎は、殿中で以前から嫌っていた者を全て殺し、宿衛の兵もことごとく交替させ、上表して盧志を中書監に任命し、鄴に留めて丞相府の政務を代行させた。
河間王・司馬顒は鄭に駐軍して司馬穎軍の後援になっていたが、劉沈の兵が起きたと聞き、還って渭城を鎮守した。そこから督護・虞夔を派遣して好畤で劉沈を迎撃させた。
しかし虞夔の兵が敗れたため、司馬顒は懼れて退き、長安に入った。
長安に戻った司馬顒は急いで張方を呼び戻した。
張方は長引いた戦によって下がった士気を高めるために洛中で大略奪を行い、官私の奴婢一万余人を奪ってから西に向かった。
当時、軍中の食糧が欠乏していたため、人を殺して、牛馬の肉と混ぜて食べたという。
劉沈が渭水を渡って駐軍し、司馬顒と戦ったが、連敗した。
劉沈は安定太守・衙博と功曹・皇甫澹に精甲五千を率いて長安を襲わせた。衙博らが城門に入り、力戦して司馬顒の帳下に至った。
しかし劉沈の兵が来るのが遅れた。
馮翊太守・張輔が衙博らには後継が無いのを見て、兵を率いて横から攻撃し、衙博と皇甫澹を殺した。
劉沈の軍も破れ、余卒を集めて退いた。
そこに張方の軍が帰還し、将・敦偉を送って夜に劉沈を討たせた。劉沈の軍は驚いて潰滅し、劉沈は麾下と共に南に走ったが、敦偉が追撃して劉沈を獲た。
劉沈が司馬顒に言った。
「知己の恵は軽く(劉沈は司馬顒に留められて軍師になり、後に雍州刺史になった)、君臣の義は重いので、私には、天子の詔に違えて、強い方についてとりあえず生き永らえるようなことはできませんでした。投袂の日(行動を起こした日)に、必ず死ぬことになると予期していました。葅醢の戮(肉醤にする酷刑)も薺のように甘いものです」
最期の言葉は死んで肉塊になろうとも行動は評価されるべきものであったという意味である。
司馬顒は怒って劉沈を鞭で打ち、その後、腰斬に処した。
新平太守・江夏の人・張光がしばしば劉沈のために計を立てていたため、司馬顒が捕えて詰問すると、張光はこう言った。
「劉雍州が鄙計(私の愚計)を用いなかったから、今日の大王がいるのです」
司馬顒はこれを壮烈とみなし、張光を従えて歓宴してから、上表して右衛司馬に任命した。




