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紅蓮の大地  作者: 大田牛二
第一章 八王の乱

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嵇紹

 成都での戦いに敗れた羅尚らしょうが逃走して江陽に至り、使者を派遣して朝廷に状況を報告した。


 朝廷は詔によって羅尚に巴東・巴郡・涪陵を暫時統領させ、この三郡から軍賦を供出させた。


 羅尚は別駕・李興りこうを派遣して鎮南将軍・劉弘りゅうこうを訪ねさせ、食糧を求めた。


 劉弘の綱紀(官府の事務を管理する者。属僚)は輸送路が険阻で遠いうえ、荊州自体も空乏だったので、零陵の米五千斛だけを羅尚に送ろうとした。


 しかし劉弘は、


「天下は一家であり、彼我に差異はない。私が今、彼に供給すれば、西顧の憂いが無くなる」


 と言って、三万斛を提供した。


 羅尚はこのおかげで立て直すことに成功した。


 李興は目の前で劉弘の度量に感服すると荊州に留まって劉弘の参軍になることを願った。しかし劉弘は手版を奪って帰らせた。


 手版は笏のことである。属僚が府公に恭敬の礼を為す時は手版を持っていた。李興から手版を奪って帰らせたというのは、劉弘が李興の礼を受け入れず、自分に仕えることを許さなかった、ということを表す。


 劉弘は更に治中・何松かしょうを派遣し、兵を統領して巴東に駐屯させ、羅尚の後援にした。


 当時、荊州にいる流民は十余万戸を数え、羈旅(他郷に長く住むこと)して貧乏だったため、多くが盗賊になっていた。


 しかし劉弘が大いに田地や穀物の種を与え、流民の中から賢才を抜擢し、資質に基いて任用したため、流民がやっと安定した。


「洛陽では長沙王が敗れ、死んだそうだね」


 劉弘は陶侃とうかんにそう言った。


「主導者はそのまま成都王になりました」


「そうだね」


 彼は複雑そうに頷く。成都王・司馬穎しばえいが主導者となったが、彼では朝廷の混乱を治めるのは難しいだろうと思っている。


(器量だけなら長沙王の方が……)


 しかしながらそれを明言するわけにはいかない。彼は負け、勝者となったのは司馬穎の方なのである。


「混乱は鎮まると思うかい?」


「いいえ、続くかと思います」


「そうだよね……」


 劉弘はため息をつく。


「益州も続くだろうしなあ……東方はどうだろうか?」


「東は順調のようです」


 陶侃は東方の今の状況を話し始めた。


 広陵度支・陳敏ちんびんは張昌の配下だった石冰せきひょうと数十合戦った。石冰の軍は陳敏の十倍もいたが、陳敏は攻撃して向かう所全てで戦勝していった。


 その後、陳敏は周玘しゅうきと連合して建康で石冰を攻め、ここで打ち破った。


 敗北した石冰は徐州で自分に応じていた封雲ほううんに投じた。


 しかし封雲の司馬・張統ちょうとうはもはや自分たちが勝てないと思い、石冰と封雲を斬って投降した。これによって揚・徐二州が平定された。


 周玘と賀循がじゅんはどちらも軍を解散させて家に還り、功賞について語らず、朝廷は陳敏を評価して広陵相に任命した。


「東はなんとか治まりそうだね……」


「ええ、しかしながら中央が鎮まらなければ、また同じことの繰り返しでしょう」


「その通りさ……」


 陶侃の言葉に劉弘は頷いた。


「だからこそ早く治まってもらいたいんだが……」


 彼の思いと裏腹に再び、中央では混乱が起きた。








 二月、丞相・司馬穎は上表して皇后・羊献容ようけんようを廃し、金墉城に幽閉した。また、皇太子・司馬覃しばたんを廃して再び清河王にした。


 司馬覃は司馬遐(恵帝の弟。司馬穎の兄)の子で、清河王であったが、司馬冏の上表によって皇太子に立てられていた人物である。


 その後、河間王・司馬顒しばぎょうが上表して丞相・成都王・司馬穎を太弟に立てるように請うた。


 西晋の恵帝・司馬衷しばちゅうが詔を発した。


「私は不徳によって鴻緒(先祖の大業)を継承し、今までで十五年になるが、禍乱が天を覆い、姦逆がしばしば起き、深宮に幽廃されて宗廟が断絶するに至った。成都王・穎は温仁恵和で、暴乱を平定することができた。よって穎を皇太弟・都督中外諸軍事とし、丞相は今まで通りとする」


 こうして司馬穎が皇太弟に立てられた。


 その後、恵帝は大赦を行い、鰥寡(配偶者を失った男女)・高年(高齢者)に帛三匹を下賜し、五日間の大酺(国を挙げての祝宴)を催した。


 乗輿・服御(皇帝の車や服、器物)を全て鄴(皇太弟・司馬穎の拠点)に遷し、司馬穎に関する制度は全て魏武帝(曹操)の故事に則ることにした。


 司馬顒を太宰・大都督・雍州牧に任命し、前太傅・劉寔りゅうしょくを太尉に任命した。しかし劉寔は老齢を理由に固辞して拝命しなかった。


 太弟となった司馬穎であったが、彼は以前よりも更に僭侈(過分な奢侈)が日に日にひどくなり、彼の寵臣が政事を行うようになったため、大いに衆望を失うようになっていった。


 それを見た司空・東海王・司馬越しばえつは右衛将軍・陳眕ちんひんおよび長沙の故将(長沙王・司馬乂の旧将)・上官巳じょうかんしらと共に、司馬穎討伐を謀った。


 七月、陳眕が兵を率いて雲龍門に入り、詔によって三公・百僚を殿中に召して、陳眕はこれを機に兵を整えて戒厳すると司馬穎の討伐のため挙兵した。


 洛陽にいた石超せきちょう(司馬穎の将)は対応しきれず、鄴に奔った。


 その後、大赦が行われ皇后・羊献容と太子・司馬覃の地位を恢復した。


 司馬越はそのまま恵帝を奉じて北征し、大都督に任命された。


 司徒・王戎おうじゅう、高密王・司馬略しばりゃく、平昌公・司馬模しばばく、呉王・司馬晏しばあん、豫章王・司馬熾しばし、襄陽王・司馬範しばはん、右僕射・荀藩じゅんはんらも同行した。


 朝廷が前侍中・嵇紹けいしょうを召して行在(皇帝がいる場所)に赴かせた。


 嵇紹は司馬乂によって使持節・平西将軍に任命されていたが司馬乂が死んでから、罷免されて庶人に落とされていた。今回、北征の際、朝廷が改めて嵇紹を召して官位を元に戻された。


 侍中・秦準しんじゅんが嵇紹に問うた。


「今行ったら安危が測り難い。汝には良馬があるか?」


 すると嵇紹は色を正してこう言った。


「臣下とは、乗輿(皇帝)を護衛して、そのために命を懸けるものである。佳馬が何の役に立つのか」


 司馬越が檄文を発して四方の兵を招いた。檄に応じて赴いた者が雲集して安陽に至り、その軍は十余万に上った。


 鄴中はこの情報を聞いて震恐した。


 司馬穎が群僚を集めて計を問うと、東安王・司馬繇しばよう(司馬伷の子)がこう言った。


「天子が親征したので、甲冑を脱いで白衣を着て、出迎えて罪を請うべきです」


 司馬穎はこの意見に従わず、石超を派遣し、五万の衆を率いて抗戦させた。


 折衝将軍・喬智明きょうちめいが司馬穎に進言して恵帝を迎え入れるように勧めたが、司馬穎は怒ってこう言った。


「汝は事理をわきまえていることで名が知られており、身を投じて私に仕えたではないか。今、陛下が小人の群れに逼迫されているのに、汝はなぜ私に手を束ねて刑に就かせようと欲するのか」


 陳眕の二人の弟・陳匡ちんきょう陳規ちんきが鄴から行在(皇帝がいる場所)に赴き、


「鄴中の者は皆、既に離散しました」


 と告げた。そのため朝廷軍はほとんど備えを設けなかった。


 そこに石超の軍が突然至り、朝廷軍は蕩陰で敗戦した。


 矢が乗輿に及び、恵帝は頬を負傷して、三本の矢が中った。百官・侍御は皆、離散したが、嵇紹だけは朝服を着て、馬を下りて輦に登り、身をもって恵帝を護衛した。


 司馬穎の兵士が嵇紹を引き出して車轅(馬車を牽く左右の棒)の間で斬りつけた。


 恵帝が、


「彼は忠臣である。殺してはならない」


 と、言ったが、兵は、


「太弟の令を奉じており、ただ陛下一人を犯さないだけです」


 と答えて嵇紹を殺した。血が恵帝の衣服にかかった。その弾みで、恵帝は草の中に落ちて六璽を失った。そこに兵が彼を抱き寄せ、石超の元に案内した。


 石超は恵帝を奉じて自分の営を行幸させた。恵帝の餓えが甚だしかったため、石超が水を進めて、左右の者が秋桃(季節はずれの桃)を献上した。


 石超は弟の石熙せききを派遣し、恵帝を奉じて鄴に向かわせた。


 司馬穎が群官を率いて道の左で迎謁すると、恵帝は輿から下りて涕泣した。


 その夜、恵帝は司馬穎の軍を行幸した。


 司馬穎の府には九錫の儀があり、陳留王(魏末帝・曹奐の跡を継いだ者)も貂蟬(「貂蝉」は顕官の冠につける飾のこと。恐らくここでは「貂蝉冠」を意味する)・文衣(華美な衣服)・鶡尾(「鶡」は鳥の一種で、武官の冠に鶡の尾をつけた。恐らくここでは「鶡冠」を意味する)を送った。


 翌日、法駕(天子の車)を準備して鄴に行幸した。この時、豫章王・司馬熾、司徒・王戎、僕射・荀藩だけが従っていた。恵帝が鄴に入り、大赦して永安元年から建武元年に改元した。


 左右の者が恵帝の衣服を洗おうとしたが、恵帝は、


「嵇侍中の血である。洗ってはならない」


 と言って許さなかった。


 胡三省は、


「誰が恵帝を愚昧だとみなしたのだ」


 と述べている。恵帝は暗君として知られているが、後世に作られた部分も多いという指摘である。


 または、嵇紹の死に様によって恵帝の暗君の汚名を薄めて見せたとも言えるかもしれない。



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― 新着の感想 ―
[一言] そういえば司馬光は恵帝は暗愚をよそおってたのではないかとかいてますね。
[一言] 死に方みるかぎりでは、嵇紹は誰にでもおもねったわけではなく誰が実権を握ろうとその後ろの恵帝のみを観続けていた人物なのかもしれませんね、忠義伝の筆頭に記載されてるにふさわしいと言っていいのかな…
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