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紅蓮の大地  作者: 大田牛二
第一章 八王の乱

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太子廃位

 広城君・郭槐かくかいは、賈南風かなんふうに子がいないため、常に太子・司馬遹しばいつを慈愛するように勧めていた。また、賈謐かひつが驕慢で、しばしば太子に対して無礼だったため、広城君はいつも厳しく譴責していた。


 彼女は嫉妬深さで有名だが、外戚の感性としてはまともである。


 広城君は韓寿かんじゅ(賈南風の妹・賈午かごの夫)の娘を太子妃にしたいと思っており、太子・司馬遹も韓氏と婚姻関係を結んで自分の地位を固めたいと思っていた。しかし韓寿の妻・賈午と賈南風はどちらも同意せず、司馬遹のために王衍おうえんの少女(下の娘)を迎えることにした。


 司馬遹は王衍の長女が美しいと聞いていたが、賈南風が賈謐のために王衍の長女を賈謐に嫁がせたため、心中を穏やかにすることができず、多くの不満を口にするようになった。


 やがて、広城君が病を患うようになっていった。


 臨終の際、広城君は賈南風の手をとって、太子に対して心を尽くすように命じ、その言葉はとても懇切で理を尽くしていた。


 また、広城君は、


趙粲ちょうさんと賈午は必ず汝の家の事を乱すことになるので、私の死後、再び入宮を許可してはなりません。私の言を深く覚えておきなさい」


 と言い残した。しかしながら賈南風はこれに従わず、逆に趙粲や賈午と共に太子を害す方法を謀るようになっていった。



 





 さて、西晋の太子・司馬遹は、幼い頃は西晋の武帝に愛されるほどの美名があったが、成長すると学問を好まなくなり、ただ左右の者と遊び戯れるようになっていた。


 賈南風はそれに漬け込み、宦官らを使って奢侈で凶悪になるように誘導をかけるようになった。そのため、名誉がしだいに減り、驕慢がますます明らかになり、朝見を廃して遊逸をほしいままにするようになっていった。


 やがて彼は宮中に市を作り、人に屠酤(家畜を殺したり酒を売ること)させるようになった。その際、太子は自らの手で重量を量った。その際の軽重に誤差がなかったのだからその方面の才能は確かにあったのだろう。


 こういった遊びを好んだ背景は彼の母が元々屠家の娘だったためである。子供の趣味嗜好は環境によるとはこのことである。


 太子宮の月俸は銭・五十万であったが、司馬遹は常にその月棒の二か月分をあらかじめ受け取っていた。それにも関わらず、まだ不足していたという。


 それを補おうとしたのか。西園で葵菜(野菜の一種)、藍子(藍の種)、鶏、麪(麺、麺粉)等の物を売らせてその利を収めた。それでも不足していたのだから彼に商売の才能はなかったのだろう。


 また、太子は陰陽家の小術を好んだため多くの禁忌を犯すようになった。


 これらの事を諫めるため、洗馬・江統こうとうが上書して五事を述べた。


「一、微苦(小さな病)があったとしても、病をおして朝侍するべきです。二、勤めて保傅に会い、善道について尋ねるべきです。三、画室の功(宮室を彫刻や絵画で飾る作業)は減らすか省くべきであり、後園にある彫刻等の様々な物品は全て撤去するべきです。四、西園で葵や藍といった物を売るのは国体を損ない、名声を貶めることになります。五、壁を修築したり瓦を直したりする時、小忌に拘泥する必要はありません」


 しかし司馬遹は従わなかった。


 中舍人・杜錫としゃくは司馬遹がその地位を安んじることができなくなるのではないかと恐れ、いつも彼に対して忠諫を尽くし、徳業を修めて美名を保ち、言辞を懇切にするように勧めた。


 しかし司馬遹はこれを患いとし、杜錫がいつも坐る氈(毛皮の敷物)の中に針を置いた。


 何も知らない杜錫が坐ったところ、針によって傷つき、血が流れた。


 後日、司馬遹が彼に、


「何があったのか」


 と、尋ねたところ、杜錫は、


「酔っておりましたので判りません」


 と答えた。司馬遹は杜錫を問い詰めて、


「あなたは人を責めて喜ぶくせに、どうして自分から過ちをなすのだ」


 と言った。性格が悪すぎる。


 因みにこのひどい目にあわされている杜錫は杜預の息子である。


 







 司馬遹は性格が剛情だったため、賈謐が皇后を恃みにして驕慢横柄になっていると知り、容認できなくなった。


 賈謐は当時、侍中を勤めていた。そんな彼が東宮に至っても司馬遹は賈謐を無視し、後庭で遊び戯れることもあった。


 詹事・裴権はいけんが司馬遹を諫めた。


「賈謐は皇后が親昵(親しみ近づけること)しているので、一旦にして陥れられたら事が危うくなりますぞ」


 しかし司馬遹は従わなかった。まるで子供である。精神性が育ってない証拠である。


 さて、賈謐は自分をないがしろにする司馬遹を讒言して賈南風にこう言った。


「太子が多く私財を蓄えて小人と結んでいるのは、我々賈氏を図ろうとしているからです。もしも陛下が崩御され、彼が大位に居るようになれば、楊氏の故事に則って我々を誅し、皇后を廃して金墉に送るのも、掌を返すように容易なことです。早くこれを図り、改めて従順な者を立てるべきです。そうすれば自らを安んじることができましょう」


 賈南風はこの言葉を採用し、太子の短所を宣揚して遠近に伝えた。


 また、自分が妊娠したと偽って藁物(分娩用の草蓆)や産具を宮内に入れ、韓寿の子・韓慰祖かんそうじょを迎え入れて養い、太子に代えようとした。


 当時の調停は皆、賈南風に司馬遹を害そうとする意図があると知っていたため、中護軍・趙俊ちょうしゅんが司馬遹に対して賈后を廃すように請うたが、司馬遹は拒否した。


 左衛率・東平の人・劉卞りゅうべんが賈南風の謀について張華ちょうかに問うたが、張華は、


「聞いたことがない」


 と答えるのみであった。これに劉卞が言った。


「私は須昌の小吏でしたが、あなたの援助と抜擢を受けて今日に至りました。士が知己に感じて言を尽くしたのに、あなたは私に対して逆に猜疑を抱いているのですか?」


「もしもそのような事があったとして、君はどうするつもりだ?」


 張華が問うと、劉卞はこう答えた。


「東宮には俊乂(優秀な人材)が林のようにおり(当時、東宮の官属だった江統、潘滔はんとう王敦おうとんらを指す)、四率(上述)の精兵は万人を数えます。あなたは阿衡(夏王朝の名臣・伊尹。宰相)の任にいるので、もしあなたの命令を得られるならば、皇太子が朝会に乗じて尚書の政務を総監し、そうなれば、賈后を金墉城に廃すのも、二人の黄門の力があれば充分です」


 しかし張華はこう言った。


「今は天子が健在であり、太子は人の子である。そのうえ、私も阿衡の命(伊尹が受けたような大任)を受けていない。突然、太子と共にそのような事を行うのは、君父を無視することであり、不孝を天下に示すことになってしまう。そもそも、権戚が朝を満たしており、我々だけが権力を握っているのではないのに、必ず成功できるというのか」


 賈南風は常に親党の者を使って微服(平服。おしのび)で外の様子を探り聴いていたため、劉卞の言も多くが聞かれることになった。そこで劉卞を雍州刺史に遷した。


 劉卞は自分の発言が漏れたと知り、薬を飲んで死んだ。


 この件について、胡三省はこう述べている。


「賈后は凶暴だったので、もし張華が劉卞の言を聞きながら報告しなければ、張華は賈后の手によって死んだはずだ。思うに、劉卞の言は実は張華が漏らしたのだろう」


 








 十二月、司馬遹の長子・司馬虨しばはんが病を患った。そのため司馬遹が司馬虨のために王爵を求めたが、同意されなかった。


 司馬虨の病が篤くなっていくと司馬遹は陰陽術に凝っていた祈祷して福を求めた。


 それを聞いた賈南風は偽って西晋の恵帝・司馬衷しばちゅうが発病したと称し、司馬遹を召して入朝させた。


 彼が到着すると、賈南風は会わずに別室へ連れて行かせ、婢女・陳舞ちんぶを派遣して、帝命によって司馬遹に三升の酒を下賜し、全て飲ませた。


 司馬遹は三升も飲むことはできないと言って辞退したが、陳舞は太子に強制して、


「それは不孝ではありませんか。天(臣子は君父を天とみなした)が汝に酒を賜ったのに飲まないとは、酒の中に悪い物が入っているというのですか」


 と言った。


 司馬遹はやむなく強引に全て飲み干し、大酔いした。


 すると賈南風は黄門侍郎・潘岳はんがくに書草(草稿。下書き)を準備させ、小婢・承福しょうふくに命じて紙・筆および草稿を持たせ、司馬遹の泥酔に乗じて、恵帝の命と称して書草の内容を書き写させた。書草にはこう書かれていた。


「陛下は自ら決着をつけるべきである。自分で決着をつけないのならば、私が入って決着をつけさせよう。皇后も速やかに自ら決着をつけるべきである。自分で決着をつけないのならば、私の手で決着をつけてみせよう。併せて謝妃(太子の実母)と約束し、日時を決めて内外の両側から発しよう。疑って躊躇することで、後患をもたらしてはならない。三辰(日月星)の下で茹毛飲血し(「盟誓」を行うという意味)、皇天は私が患害を掃除して、道文を王に立て、蒋氏を皇后にすることを許した。願いがかなったら、三牲(牛・羊・豚)によって北君(北帝)を祀ろう」


 ここで出た「道文」は司馬虨の字。「蒋氏」は司馬虨の母・蒋保林で、「保林」は東宮の女官の称号である。


 太子は酩酊して意識がはっきりしていなかったため、書草に従って書き写した。文字の半分は形になっていなかったが、賈南風が補って完成させ、恵帝に提出した。


 恵帝が式乾殿に臨み、公卿を招いて入らせてから、黄門令・董猛とうもうに太子の書および青紙詔を示させて、こう宣言した。


「遹の書がこのようであるので、今、死を賜る」


 全ての諸公王(宗室の諸王で朝廷の公(上公・三公)になった者)にこれを示したが、誰も発言する者はいなかった。そんな中、張華がこう言った。


「これは国の大禍です。古以来、常に正嫡の廃位が原因で喪乱をもたらしてきました。しかも国家が天下を有してまだ日が浅いので、陛下が詳察することを願います」


 裴頠はいぎもまずは文書を伝えた者を調査するべきだと考え、また、太子の手書きの文書と比較することを請い、そうしなければ虚偽の恐れがあると主張した。


 すると賈南風は太子が啓事(報告・陳述)した十余枚の紙を提出した。衆人が比べて視たが、やはり敢えて「違う」と言う者はいなかった。誰もが彼女を恐れたのである。


 更に賈南風は董猛に長広公主(長広公主は武帝の娘で、甄徳しんとくの妻)の言葉を偽らせ、恵帝に、


「事は速やかに決するべきなのに、群臣の意見がそれぞれ同じではありません。詔に従わない者は、軍法によって処理するべきです」


 と伝えさせた。


 議論は日が西に傾くまで続いたが、結論が出なかった。


 賈南風は張華らが意見を堅持しているのを見て、事態に変化が生まれることを懼れ、司馬遹を免じて庶人とするように上表した。この臨機応変さは流石である。


 恵帝は詔を発してこれに同意した。


 こうして尚書・和郁わいくらが派遣され、符節を持って東宮を訪ねた。皇太子・司馬遹が廃されて庶人になった。


 司馬遹は服を改めて宮を出て、拝礼して詔を受領し、歩いて承華門を出てから、粗末な牛車に乗った。

 

 東武公・司馬澹しばせんが兵仗(武器を持った兵士)を率いて太子および妃の王氏、三子の司馬虨、司馬臧しばぞう司馬尚しばしょうを送り、共に金墉城に幽閉した。


 王衍は自ら上表して娘の離婚を願い、許可された。太子妃の王氏は慟哭して家に帰っていった。


 太子の母に当たる謝淑媛および司馬虨の母に当たる保林・蒋俊は殺された。




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― 新着の感想 ―
[一言] 賈南風の暴虐のひとつとされていますが、司馬 遹も大概なんですよね。
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