衰退する王朝
散騎常侍・賈謐は東宮(太子宮)で講義を行っていたが、太子・司馬遹に対して驕慢であった。
成都王・司馬穎がそれを見て叱責すると、賈謐は怒って賈南風に告げた。
その結果、司馬穎は朝廷から出されて平北将軍に任命され、鄴を鎮守することになった。
それにより、征西大将軍・梁王・司馬肜が朝廷に召されて大将軍・録尚書事になり、司馬肜の代わりに、北中郎将・河間王・司馬顒(司馬孚の孫)が鎮西将軍になり、関中を鎮守した。
かつて西晋の武帝・司馬炎は石函の制(石の箱に入れて保存する制度)を作り、至親ではない者(皇帝との間に直接の親族関係がない者)は関中を鎮守してはならないと決めていた。
しかし司馬顒は財を軽んじて士を愛したため、朝廷が賢才とみなして関中の鎮守に用いた。
賈南風の淫虐が日に日に甚だしくなり、太医令・程據らと私通する有様であった。
また、道上の年少の者を竹箱に載せて入宮させ、それが漏洩することを恐れたため、往々にして殺していった。
これにより賈模は禍が自分に及ぶことを恐れて甚だ憂うようになっていった。すると裴頠が賈模および張華と共に、賈南風を廃して改めて謝淑妃(太子の実母)を立てることを議すようになった。
裴頠が賈南風の廃位を建議したが、二人はこう言った。
「陛下自身には廃位の意思がないのに、我々がこれを専行して、もし陛下が同意しなかったら、どうするのだ。しかも諸王がまさに強くなっており、その諸王にはそれぞれの朋党があるので、恐らく一旦にして禍が起きれば、この身が死んで国を危うくさせるだけで、社稷にとっては益が無いだろう」
裴頠は頷きつつも言った。
「誠にあなた方の言の通りです。しかし宮中がその暗昏淫虐を放任しているため、いずれにしても、すぐに乱が起きることになりましょう」
もう速いか遅いかの違いだけである。それであるならば、速い方が良いではないか。しかし張華が言った。
「汝ら二人は中宮においてどちらも親戚なので(賈后の母・郭槐は裴頠の従母(母の姉妹))、もしかすれば、発言が信用されるかもしれない。しばしば禍福の戒めを述べるべきだ。道から大きく外れることが無いことを願う。そのようになれば天下はまだ乱に至ることがなく、我々も悠々と遊んで天寿を全うすることができる」
消極的な意見であるものの、裴頠と賈模は彼の意見に頷いた。
裴頠は朝から夜まで従母にあたる広城君を説得し、広城君から賈南風に対して、太子と親しくして厚く遇すように戒諭させた。
賈模もしばしば賈南風のために禍福について述べた。
しかし賈南風は諫言を聴くことができず、逆に賈模が自分を誹謗していると思って疎遠にするようになった。賈模は志を得られず、憂憤して死んでしまった。
このことに流石の賈南風は不安になったのか、八月、尚書・裴頠を尚書僕射に任命した。
裴頠は賈氏の親属でしたが、かねてから声望が高く、四海の者は皆、裴頠が権勢の位に就けないことを恐れていた。
暫くして、裴頠は詔によって門宮内の諸事を専任することになった。
裴頠は上表して強く辞退し、こう言った。
「賈模が亡くなったばかりなのに、私がこれに代わってしまえば、外戚の声望を高揚して、私情に偏った挙用を明らかにすることになり、聖朝の負担となってしまいます」
しかし裴頠の意見は聴き入れられなかった。
ある人が裴頠にこう言った。
「あなたは発言することができるのだから、中宮に対して言を尽くすべきであり、もし発言しても従わないようなら、遠くに離れて去るべきだ。もし両方ともやらなかったら、たとえ十表(多数の上書)があっても、禍から逃れるのは難しいだろう」
この言葉を聞き、裴頠はしばらく感慨にふけたが、結局従うことができなかった。
西晋の恵帝・司馬衷は為人が痴呆で、かつて華林園で蝦蟆の鳴き声を聞いた時、左右の者にこう問うたことがあった。
「こうして鳴いているのは、公事のためだろうか、私事のためだろうか?」
ある者が、
「公有の地にいる蛙は公事のために鳴いています。私有地にいる蛙は私事のために鳴いています」
と、答えた。恵帝はそれに納得したという。
当時は天下が飢饉に襲われており、百姓が餓死していた。それを聞いた恵帝は、
「民が飢えているのならば、なぜ肉の粥を食べないのだろうか?」
と言った。後に西洋で似たようなことを言った人物がいたが、その人物の言葉は後に評価が改められたが、彼の言葉に対しては評価は改められていない。
ともかく恵帝がこのようだったため、権勢は群下にあり、政令が多くの家門から出るようになった。権勢と地位がある家が互いに推薦しあい、交易のようになった。
なかでも賈氏と郭氏が放縦専横しあい、賄賂が公に行われていた。
そこで、南陽の人・魯褒が『銭神論』を著して当時の状況を誹った。
「銭が体を為す様子は、乾坤の象があり、人々は兄のように親しくして、字(名号)を『孔方(方形の孔)』とよんでいる。徳がないのに尊く、権勢がないのに熱く、金門(富貴な家)に並び、宮廷に入り、危難を安全に変え、死者を活きかえらせ、富貴を卑賎に変え、生者を殺すことができる。だから怨恨による争いは銭がなければ勝てず、才能が認められないこと、世に用いられないことは銭がなければ抜かれず、怨讎は銭がなければ解決できず、美しい声望は銭がなければ発することができない。洛中の朱衣や当塗の士(晋制では諸王が朱衣を着た。「当塗の士」は権勢の道にいる人のこと)は我が家の兄を愛して皆止むことがなく、私の手をとっていつまでも抱いている。およそ今の人にとっては銭のことがあるだけだ」
「乾坤」は「天地」のことで、「乾坤の象」は「天地の形」のこと。天地の形は「天圜地方(天は円形、地は方形)」と言われており、貨幣も円形で四角い孔があるため、「天地」に喩えられることがあった。
当時の朝臣は過失を厳しく追及することによって優劣を比較することに務め、いつも疑議があるたびに、群下がそれぞれ自分の意見を立てたため、刑法が一つではなくなり、獄訟が増加していった。
そこで裴頠が上表した。
「先王は刑と賞が釣り合っており、軽重の基準が統一されていたので、下の意見を聴けば一定の規律があり、群吏が業に安んじていました。ところが去る元康四年(294年)、大風のために宗廟の門闕の屋根瓦が数枚傾落しただけで、太常・荀㝢(じゅんぐう)を罷免しました。事は軽いのに譴責が重く、通常の法典に違えていました。五年(295年)二月に大風が吹くと、蘭台の主者(『資治通鑑』胡三省注によると、蘭台の主者は御史台の主管で、令史等を指す)は前事に懲りて懼れを抱いたため、阿棟の間(屋根の曲がった場所や端の部分)で欠陥を探し求め、瓦が少し歪んだ場所を十五カ所得ました。その結果、太常を禁囚し、再び刑獄が興ることになったのです。今年の八月、墓陵の上で、荊の木の太さが七寸二分ある一枝が伐られていました。そのため司徒や太常の官員が道路を奔走しており、これが小さな事だと知っていても、弾劾が測りがたいため、不安になって駆けまわり、それぞれ競って罪から免れようとしています。そして、今に至っても太常の禁止はまだ解かれていません。刑書の文とは限界があるものですが、過失や違反の原因は一定ではありません。だからこそ臨時議処の制(処置について臨時に討議する制度)があり、誠に全てを常法に則らせることはできないのです。これらの事に至っては、全て度が過ぎており、姦吏が刑罰の軽重を勝手に決められるようになることを恐れます」
裴頠が上表した後も法を曲げて議論することや軽重を無視して処罰することは止まなかった。
三公尚書・劉頌も上書した。
「近世以来、法が徐々に多種になり、令が甚だしく統一を欠くようになりました。そのため官吏は遵守すべき法令を知らず、下の者は犯してはならない禁令を知らず、姦悪不実な者がそれを利用して欲求を満足させ、上にいる者は下の者を取りまとめるのが難しくなり、事が同じなのに評価が異なり、裁判が不公平になっています。君臣の職責とは、それぞれに担当すべきことがあります。法を必ず遵守させたいと思うから、法を管理する者に法典を守らせるのです。法理の内容に限界があるのですから、大臣に問題を解決させるのです。事にはその時によって相応しいことがあるから、人主が臨機応変に判決するのです。主者が法典を守るのは、張釋之が犯蹕の平を執った件のようなものです」
張釋之は前漢の人物で、前漢の文帝の時代、法を持って公平な裁きを行ったことで称賛された人物である。
「大臣が問題を解決させるのは、公孫弘が郭解の獄を断った件のようなものです」
大俠・郭解を公孫弘が断罪して族滅させたことである。
「人主が臨機黄変に判決するというのは、漢の高祖が丁公の行為を罰した件のようなものです」
項羽の部下だった丁公がかつて劉邦を助けたが、天下を統一してから劉邦は丁公を処刑したことである。
「天下の万事において、この類ではないものは、自分の意見を出して妄りに議論してはならず、全て律令によって処理されるべきです。そのようにした後ならば、下において法が信用され、人々は聴いたことに対して惑うことなく、官吏は姦悪を容認せず、正しい政治が行われていると言うことができます」
これを受け、恵帝が詔を発した。
「郎や令史(『尚書郎および尚書と蘭台の令史)が今後、法の決まりから出て案件に意見する時は、案件そのものと一緒に報告せよ」
しかし詔の後も改革はできなかった。
劉頌は吏部尚書に遷り、九班の制(九級に分けた官員の試験制度)を建てた。職位に就いた百官が昇格を希望するようにさせたいと思い、能力の有無を試験して賞罰を明らかにしようとしたのである。
しかし賈氏と郭氏が権勢を用いており、仕仕官した者(その中でも賈氏や郭氏に仕えている者)が速やかな昇格を欲したため、結局、実行されなかった。
裴頠が平陽の人・韋忠を張華に推薦したため、張華が韋忠を招聘したが、韋忠は病を理由に断った。
ある人がその理由を問うと、韋忠はこう答えた。
「張茂先(茂先は張華の字)は表面を飾っているが中身がなく、裴逸民(逸民は裴頠の字)は貪欲で厭きることがなく、彼らは典礼を棄てて賊后(乱を為している賈南風)に附いている。これが大丈夫の為すことだろうか。逸民にはいつも私に託そうとする心があるため、私は常に彼が深淵に溺れてその余波が私に及ぶことを恐れている。裳裾をめくり、水を渡って彼に近づくことなどできるはずがない」
関内侯・敦煌の人・索靖はやがて天下が乱れると知り、洛陽宮門の銅駝(魏の明帝が長安から洛陽に移した駱駝の像)を指さして、嘆いてこう言った。
「廃墟の中で汝に会うことになるだろう」




