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紅蓮の大地  作者: 大田牛二
第一章 八王の乱

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徙戎論

 

 298年


 かつて張魯が漢中に居た時、賨人・李氏が巴西宕渠から漢中に遷って帰附した。


 李氏とは廩君(太古における巴人の首領)の後裔で、代々巴中に住んでいた。秦が天下を統一してから黔中郡を置かれた際、秦はその地の賦を少なくして彼らを優遇した。また、巴人は「賦」を「賨」といったため、「賨人」とよばれるようになった。


 そのため彼らの中心人物であった李氏は賨人を束ねる存在と扱われたのであった。


 魏の武帝・曹操が漢中を占領すると、李氏は五百余家を率いて帰順し、将軍に任命された。李氏は略陽北土に遷って巴氐と号した。


 その李氏の孫に当たる李特りとく李庠りよう李流りりょうは皆、才能・勇武があり、騎射を善くし、性格が任侠だったため、州党の多くが帰附した。


 斉万年せいばんねんが反乱を起こし、関中で飢饉が続くとようになると、略陽、天水ら六郡の民が流亡・移住し、漢川に入って穀物を求める者が数万家に上った。


 道路に疾病・窮乏の者がいると、李特兄弟は常に彼らを保護・救済したため、衆心を得るようになっていった。


 流民は漢中に至ってから上書して、巴・蜀に身を寄せて食糧を得る許可を求めた。しかし朝議はこれを拒否し、侍御史・李苾りひつに符節を持たせて流民を慰労させ、同時に流民を監察して剣閣に入らせないようにした。


 ところが李苾は漢中に入ると流民の賄賂を得たため、こう上表した。


「流民十万余口は、漢中一郡で救済できるものではありません。蜀には倉庫の蓄えがあり、人々も富裕なので、流民に巴蜀で食を求めさせるべきです」


 朝廷はこの意見に従った。こうして流民が梁州や益州に散布し、移住を禁止できなくなった。


 李特ら兄弟も益州へと向かい、剣閣に至った。そこで李特は嘆息するとこう言った。


「劉禅はこのような地があったにも関わらず、人に対して面縛(手を後ろに縛ること。投降の姿勢)した。なんという愚才だったのか」


 これを聞いた者は李特をただの人物ではないと思うようになり、益々慕うようになっていった。


 この李特ら李氏こそが後に成漢を作ることになる。







 趙王・司馬倫しばりんと梁王・司馬肜しばとうは前後して関中を鎮守したが、どちらも雍容驕貴で、軍事においては久しく功績がなかった。


「雍容」とは細かいことを気にせず、威儀だけがあること、「驕貴」は顕貴を笠にきて驕慢なことである。


 どちらか一つでもあれば、上手くできないのにどちらもあってはそれは治まらないと言わざるおえない。


 これでは関中は治まらないと考え、張華ちょうか陳準ちんじゅんが、冷静かつ剛毅で文武の才能がある人物として孟観もうかんを推薦した。


 孟観に斉万年の討伐を命じると、孟観は身をもって矢石に当たり、十数回大戦して全て敵を破ってみせた。


 そして翌年の299年の正月、孟観は中亭で氐衆(氐軍)を大破し、斉万年を捕らえこれを殺害することに成功した。


 これによって関中の混乱は終わったと考えるものが多い中、太子洗馬・陳留の人・江統こうとうは、今後も同じように戎・狄が中華を混乱させることになると判断し、早くその根源を絶つべきだと考えた。


 そして『徙戎論(戎を移す論)』を著述して朝廷に警告した。


「夷・蛮・戎・狄はその地が辺遠の地にあり、禹が九土を平定してから、西戎が帰順しましたが、その気性は貪婪で、凶暴で勇猛かつ不仁です。四夷の中でも戎・狄が甚だしく、弱くなったら中原に畏服しますが、強くなったら中原を侵叛します。彼らが強い時は、漢の高祖でも白登山で包囲され、漢の文帝でも覇上に駐軍しなければなりませんでした。しかし弱くなると、漢の元帝・成帝の衰退した世においても単于が入朝しました。これらは既成の証拠です。そのため、有道の君が夷・狄を管理する時は、ただ彼らに対して備えを設け、防御には常道があり、彼らがたとえ叩頭して礼物を納めても、辺城は固守を緩めず、彼らが強暴になって寇を為しても、兵甲は遠征を加えず、境内が安寧を獲て国境が侵されないことを望んだだけでした」


 強ければ反抗し、弱ければ従うという彼らに対して我々は常に備えをしてきたのである。


「周室が秩序を失うと、諸侯が好き勝手に征伐を行い、国境が固まらず、利害によって心を異ならせるようになったため、戎・狄がその隙に乗じて、中原に入ることができました(戎、山戎、狄、長狄の侵入を指す)。しかも、中原諸侯のある者は招誘安撫することで自らそれを用いたため、その時から四夷が互いに侵しあって中国と雑居するようになりました。後に秦の始皇帝が天下を併せると、兵威が周辺に達し、胡を追い払って越を走らせたので、その時になって、中国には四夷がいなくなりました。ところが漢の建武(光武帝の年号)の間に馬援が隴西太守を兼任して、叛羌を討ち、その余種を関中に遷して馮翊・河東の空地に住ませました。その結果、数年の後に族類が増加し、彼らは一方では自分達の肥強を恃みとし、同時に漢人の侵犯を苦とするようになりました。そのため永初の元(漢の安帝)に群羌が叛乱し、将守を全滅させ、城邑を破って皆殺しにし、鄧騭が敗北して、侵犯が河内に及び、十年の間で夷・夏(異民族と漢人)が共に衰退し、疲弊しました。任尚と馬賢はなんとか彼らに克てただけです。この時から、餘燼(残った火種)が尽きなくなり、彼らは少しでも機会があったら侵叛を繰り返し、中世(少し前の時代)の寇においては、羌族の侵犯が最大になりました」


 秦の始皇帝の頃に追い出した者たちを住まわせたために異民族による混乱が起き始めたのである。


「魏が興きたばかりの時は、蜀と分裂しており、疆埸の戎は、双方に附きました。魏の武帝(曹操)は武都氐を秦川に遷し、戎・狄を弱くして国を強くすることで、蜀を防御しようと欲しましたが、思うにこれは権宜の計(時勢に応じた計)であり、万世の利ではありません。今の者はこれを継承して、既にその弊害を受けています」


 魏の時にやった行為は緊急性があったためであり、それを継続するべきではなかった。


「そもそも関中は土地が肥沃で物が豊かなので、帝王が住む場所です。戎・狄がその土地に居るべきだとは、聞いたことがありません。我々と同族でなかったら、必ず心が異なるからです。ところが、彼らの衰退に乗じて関中に遷し、士庶に慣れ合わせ、その軽弱を侮り、彼らの怨恨の気に骨髄を毒させました。そのため彼らは蕃育衆盛(子孫が増えて強盛になること)に至って、坐して侵叛の心を生んだのです。貪婪強暴な性格をもって憤怒の情を抱き、隙を待って利に乗じ、横逆(常規を破ること。凶暴で道理がないこと)を為しています。しかも封域の内に住んでいるために、障塞の隔てがなく、備えがない人を襲って散野の積(置き去りにされた穀物や財物)を収めているため、禍を為して蔓延させることができ、その暴害は測り知ることができません。これは必然の勢、已験の事(既に実証されている事)です。今やるべきことは、兵威が盛んにさせ、備えを廃していないうちに、馮翊・北地・新平・安定界内の諸羌を遷して先零・罕幵・析支の地に置き、扶風・始平・京兆の氐を出して隴右に還らせ、陰平・武都の界内に置き、道中で必要な食糧を与えて自分で目的地に到達できるようにし、それぞれを本族に帰附させてその旧土に返し、属国と撫夷にその地で安定させるべきです。戎と漢人が雑居せず、それぞれ自分の場所を得られれば、たとえ中華を乱そうとする心があり、風塵の警(戦争や騒乱の警報)があったとしても、中国と絶遠して山河で隔離されています。もし寇暴があっても、危害は大きくありません」


 彼らを関中にいるからこそ、混乱が起きた際、被害が大きくなってしまうのである。


「この意見に対して反対する者がこう言いました。「氐寇(恐らく斉万年)を平定したばかりで、そのうえ、関中は飢饉・疫病に襲われているので、百姓は愁苦して、皆、安寧を望んでいます。それなのに、疲弊した人々を使って、自猜の寇(我々が勝手に寇賊だと疑っている異民族。または猜疑心を抱いている寇賊)を遷しても、恐らく、気勢が尽きて力が屈し、事業が完成することなく、前害がまだ止んでいないのに、後変が突然また起きることになります」と、私は答えてこう言いました。「あなたは、今の群氐はまだ残った財物を持っているのに、悪を悔いて善に戻り、我々の徳恵に懐いたので、服従しに来たと思っているのでしょうか。それとも、勢が窮して道が尽き、智も力も共に行き詰まり、我々の兵誅(用兵・誅殺)を懼れたから、ここに至ったと思っているのですか。その答えは、余力がなくなり、勢が窮して道が尽きたからです。そうであるならば、我々はその命の長短を制すことができ、その進退は我々によって決めることができるはずです。自分の業を楽しんでいる者は事を変えず、自分の住居に安んじている者は遷ろうとする志がありません。しかし人が自ら疑って危惧を抱き、畏怖して逼迫した時ならば、それに乗じて、兵威によって制し、彼らを各方面で逆らえないようにすることができます。今ならば、彼らが死亡流散して、遠くに離れてまだ集まらず、氐・羌が叛して関中の人々に憎まれるようになっているので、それに乗じて、遥か遠い地に遷して、彼らの心が関中の土地を懐かしまないようにさせることができます。聖賢が事を謀る時とは、まだ発生していないうちに行動し、まだ乱れていないうちに治めるので、道は明らかになっていないのに平らになり、徳は顕かになっていないのに成就するのです。聖賢に次ぐ者は、禍を転じて福とし、失敗を元に功を成し、困難に当たっても必ず完成させ、境遇に利がなくても通すことができます。今、あなたはかつての措置がもたらした弊害に遭いながら、制度を改めてやり直すことを図らず、頻繁に道を変える勤苦を愛しながら転覆した車の軌道を遵守しようとされていますが、それはなぜでしょうか。そもそも関中の人口は百余万おり、およその多寡を計れば、戎狄が半数を占め、彼らを住ませるにも遷すにも、必ず食糧が必要になります。もしそれが窮乏して穀物が続かなくなったら、そのために関中の穀を傾けて彼らの生計を全うさせる必要があり、彼らを野垂れ死にさせなければ、彼らも侵掠(侵犯・略奪)の害を為さないでしょう」


 氐・羌が窮乏したら必ず集まって侵掠するため、晋がその害を止めるには、穀物を傾けて支給する必要があった。


「今、我々がこれを遷し、食を伝えて至らせ(経由する郡県で順に食糧を与えるという意味)、その種族に帰附させ、彼らに自分で自分を養わせれば、関中の人はその半穀(関中の半分の食糧。戎狄が消費していた食糧)を得ることができます。これは、去る者を官の食糧によって救済し、居留する者に穀物を蓄えた倉を残し、関中の緊張を緩め、盗賊の源を去らせ、日々の損害や出費を除き、長年の益を建てることです。もし蹔挙の小労(暫時の小さな労力)を憚って永逸の弘策(永遠に安逸を得られる長期の策)を忘れ、日月の煩苦を惜しんで累世の寇敵を残すようならば、それはいわゆる大業を創建してそれを後世に伝え、謀を子孫に及ぼすことができる者ではありません」


「并州の胡は、本来、実は匈奴の凶悪な賊でしたが、建安(漢の献帝の年号)の間に、右賢王・去卑に呼廚泉を誘わせて人質とし、その部落が六郡に散居することを許しました。咸熙(魏の元帝の年号)の際には、一部では強すぎるため、分けて三帥とし、泰始(晋の武帝の年号)の初めには、更に増やして四率にしました。しかし、当時は劉猛が内叛して外虜と連結し、最近では郝散の変が穀遠で起きました。今、五部の衆は戸が数万に及び、人口の多さは西戎を越えており、その性格は驍勇で、氐・羌の倍以上も弓馬に習熟しています。もしも予期できない戦乱の憂いがあれば、并州領域は心を寒くすることになるでしょう」


「正始(魏の少帝・曹芳の年号)の間に毌丘倹が句驪を討ち、その余種を滎陽に遷しました。遷したばかりの時は戸数が百数しかありませんでしたが、子孫が増加して今は千を数えています。数世の後には必ず繁栄に至るでしょう。今の世は百姓が職を失って、あるいは逃亡離反している者もいます。犬や馬は肥えて充たされたら噛み合うようになります。ましてや、夷・狄においては変を為さずにいられるでしょうか。今、静かにしているのはただ自身の微弱を顧みており、その勢力が達していないだけです」


「国を為す者とは、人が少ないことを憂いとするのではなく、安定していないことを憂いとするものです。四海の広さと士民の富をもってして、なぜ夷虜を内に置いた後でなければ満足できないのでしょうか。彼らは皆、教導して送り出し、本域に還すべきです。彼らの羈旅懐土の思(客居して故郷を懐かしむ心)を慰め、我が華夏纖介の憂(中華における微小な嫌隙による憂い)を解き、中国に恵みを与えて四方を安定させ(『詩経‧大雅‧民労』の一句)、徳を永世に施すこと、これこそが良計です」


 しかしながら朝廷はこの意見を用いることができなかった。




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― 新着の感想 ―
[一言] >劉禅はこのような地があったにも関わらず、人に対して面縛(手を後ろに縛ること。投降の姿勢)した。なんという愚才だったのか」 確かに李特は降伏はしないですけど、地の利を生かし切って闘ったともい…
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