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新庄やまがたものがたり  作者: 新庄知慧
9/23

9 温泉、ダイズ畑、空の亀裂・・・星空

9


岩場の陰にある扉。あれは出口か。そう祈った。


息をつめ、緊張の極限で、しゃがみこんだままの姿勢で、森の葉陰に身を隠しながら移動した。


岩場にもう一歩のところに道が通っていた。草むらの中から顔を少しだして観察。そして誰かやってこないか、耳をすませた。


「きゃははは」


突然、女性の笑い声。だだだっと目の前を裸体が駆け抜けた。

不用意に飛び出なくてよかった。


しばらく、じっと待機。


と、湯気がまたたなびき流れてきた。あたりは白い世界につつまれる。


今だ!


課長は、低い姿勢のまま、素早くダッシュした。道を飛び越え、反対側の草むらに飛び込んだ刹那、こけてしまった。


痛い!


どこか打ってしまった。膝か。鈍い痛み。涙が出そうになる。

しかし、どうやら、扉にまでたどり着いた。その扉を、そっと押してみる。

「やった!」


扉を開けたら、そこはただの岩・・・ということではなかった。扉の向こうには、手彫りのトンネルが続いていた。とにかく、どこかへ通じる通路があった。


あとは、運を天にまかせるしかないのだ。まさか、このわけのわからないトンネルの中に、裸体の温泉客がいるなんてことはないだろう。だから、このまま、この「女湯」の中に身を潜めているよりは、ましな選択というべきだろう。


課長は、のぼせてきた。湯に浸かったわけでもないが、熱い湯気、温泉の香り、女湯潜入の興奮と緊張で、のぼせてきた。

「とにかく、行かなくちゃ!」


自分で自分を励まし、トンネルの中へ入り、歩き出した。

・・・富樫さん、あんたを追いかけて、とんでもないことになったぜ。

少し落ち着き、課長は自嘲して・・・


はっはあ。


笑おうとしたが、湯気に咳き込んで、うまく笑えなかった。

笑いは自重して、課長はまた歩く。


出口は、意外に近かった。

トンネルの突き当たりに、また扉があった。

その扉に、課長はぴたりと身をはりつけて、外の様子をうかがった。外が、また女湯だとか、女性の更衣室だとかの事態はないか?

扉のノブに手をかけて、細く細く開けようとした。なかなか動かない。ノブを握った手に力をいれる。


ギギ・・・。


開いた。・・・しかし、開きすぎだ。その扉は、動き出すと、まるで軽かった。

扉の開いた外。そこは、だだっ広い緑の広場。大きな青い空。空の向こうに、山また山が見えた。


「これは・・・」


目の前の緑の広場。緑のふさふさしたひろがり。たくさんの植物が、整然と植えられていた。それは広場ではない。湯気に目がかすんで、よく見えなかったのだが、しばらくすると、それが、畑であることがわかった。


「・・・だいず畑だ」


視界の届く限りまで、ダイズが植えられていた。昼の暑い日ざしをうけて、ダイズ群落の表面は、ぎざぎざにあわ立っているように見えた。各植物の個体のてっぺんの葉が、太陽の熱線に刺激され、それに応え、まぶしい光をおいかけて、垂直に、雄雄しく屹立していたせいだった。


「・・・・」

白いタオルを腰にまいただけの、素っ裸の姿で、課長は、よろよろとダイズ畑の方へと歩み寄った。


「・・・ここか?ここが、あのダイズ畑のあった場所なんだろうか」

ダイズに近寄って、しゃがみこみ、直立する葉にそっと手を触れて、ダイズ個体の高さから、畑を見渡した。向こうに、夏の空気のなかにぼんやりゆらめくような、青い山の姿。


「そうだ。こんなふうに、山が見えたと思う。試験場の事務のおばさんが、あれが鳥海山、あれが、なんとか山、とか、解説してくれたよなあ」


課長は、思い出した。

オクシロメ諸君。

そうだ、このダイズたちは、品種・オクシロメ諸君だ。

この畑の中で、課長は24歳のころ、暑い暑い思いをしながら、日中、まる一日、観察・採集の生活をした。こんな風にダイズたちと日々濃厚なつきあいをしたのは、その試験場でも、課長をおいてほかにいなかった。課長の大学にも、そんな人はいなかった。


記憶がよみがえる。

その頃、新庄では、水田から畑に転換された場所で、10アールあたり600キロ内外の多収穫事例が継続的に報告されていた。その多収穫の秘密を解明するというのが課長の研究テーマだった。


その秘密の主なもののひとつが、この、葉の活発な運動。太陽が天頂に来る頃、ほとんど垂直に立つ葉。こういうスタイルになると、太陽光は、ダイズ群落の中まで、よく降り注ぎ、光合成は活発に行われ、多収穫へとつながっていく。


どれくらい有利な光合成を行っているか知るために、まず、畑において、どのくらいの太陽光線が差し込んでいるのか、無数のポイントを選んで、測定した。群落照度計という、原始的な器具。先端に光センサーのついた1メートルぐらいの銀の棒が測定器に接続されたもの。これを使って、畝間にしゃがみこみ、階層別、個体別に無数のポイントで測定していった。


真夏の盆地の畑の植物群落の中というのは、想像を絶する灼熱の場所なのだ。

畑なんて、ふつう、人は外からしか眺めない。あの畑群落の中に、そんな灼熱地獄があるなんて、思いもよらぬことだろう。


あの夏の熱い日々、ひねもす、そんな灼熱群落の中で働いていた。

それでも、ウイークデーは試験場の人が手伝ってくれることもあった。しかし、そういうわけだったか忘れたが、日曜日が測定日、というパターンが多かった。測定者は、課長ひとりだった。暑い夏の日曜の日々、一人で、灼熱の太陽光度測定の日々を送っていた。


研究の成果はあった。

夏が終わり、秋になり、結果を論文にまとめた。札幌で同様の測定を行ったのと比較してみたら、差は歴然だった。グラフにしてみると、光度をあらわすグラフの勾配は全く異なり、新庄のダイズはきわめて有利に光合成を行っていた。その新庄のダイズの草型、栽培時の個体の姿を模式的な学術イラストにして論文に収録した。その論文は、学会誌に掲載された。


つい何週間か前、あれから22年もして、課長は、本屋でダイズ研究の本を偶然に手にした。その本に、課長の書いたあのグラフ、イラストが掲載されていたのだ。


課長は驚いた。


課長は、大学の頃を思い出して、何年かに一度、本屋の農学書のコーナーで、立ち読みすることがあったが、自分の大学の研究者が、何か出版していないか、何か成果を掲載していないか眺めていたが、なかなか見つからなかった。


それが、あろうことか、自分の書いた作品を発見してしまった。おおいに驚き、感激し、しかし一方で、過去の思い出にすがっているような自分を恥じて、その本は書棚にしまった。


課長は今、あのときのように、ダイズ群落の中の畝間にしゃがみこんでいた。

暑い。ひどく暑い。あのときみたいに。暑くて死にそうだ。

課長は、朦朧としてきた。


・・・そうだ、よくやったよ、君。あの夏、この試験場に派遣されて、ひとりで、孤独で。


そして、実は、あのときは、卒業の年だったのだが、就職試験に失敗した知らせを、この試験場で知ったのだった。絶望した。そして、失恋もしていたのだ。失恋でも絶望していた。そして暑くて苦しくて、実は、精神的にも、肉体的にも、ひどい、最悪の夏だったのだ。


ますます、課長は、朦朧とする。


ふと、目を少し上にあげた。課長は虚ろに笑った。


なんだ、あれは・・・。ついに俺も気が狂ったか・・・?


正面の空に大きな亀裂が走っていた。空に、虹に匹敵するような大きさの、巨大な稲妻に似た亀裂が走っていた。そのひび割れの間に、漆黒の闇。闇に無数の星が光っていた。空が割れて、夜の宇宙が顔をのぞかせていた。課長は目を閉じ、そこにうずくまった・・・。


つづく

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