13 迷宮温泉ホテルでボウルルームへ
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課長は部屋に戻り、横になった。一眠りしようと思ったが、眠れず、ただ横になっていた。
昨日からのことを思い出し、22年前のことを思い出し、時間が過ぎていった。
・・・ここはいったいどこの温泉だ?温泉の中に、試験場のダイズ畑があった。あれは、昔いた試験場の畑にそっくりだった。試験場が、ここに移転していたのか?
・・・しかし、そんな馬鹿な。・・・美絵さんは、ここの景色は、見るたびに変わっているといってたな。そんなことってあるのか?彼女が、むしろおかしいんじゃないか?何かの幻覚にとりつかれてたんじゃないのか?ウーン、しかし、いい女だった・・・
むくりと起き上がり、風呂へとでかけようとした。しかし、また道に迷うのではないかという嫌な予感がして、やめた。
また横になる。仰向けに横たわる。
天井を眺め、だだっ広い部屋のなかに一人、課長はまんじりともせず、ただ、目をあけていた。
贅沢で無為な時間の消費。
やがて暗くなってくる。
起き上がった。窓の外を見ると、薄暗い山と空。夕暮れの空には、星がひとつふたつと、輝き始めている。
明日は土曜日だから、一泊しても大丈夫。今夜は、ゆっくりしよう。一人の変な旅だが、考え
てみると、課長の人生じたいが、結局、一人の変な旅だったかもしれないと思った。
22年前からの一人旅。
畠山美絵の顔が思い浮かび、惜しいことをしたな、どこの部屋に泊まってるのかな、と思い、そんなことを思ってる自分をせせら笑ってみたりした。
・・・もう何時間たったかな。
何もしないのに、平気で時間をやり過ごしている。しかしこれでいいのだ。そう思えるほど、課長は、たっぷりと、ゆったりとした気持ちで、時間を浪費していた。
何も焦ることはないのだ。いまさら焦ることは、何もないのだ。考え方を変えてみよう。全く変えるのだ。
ここに今、自分は、こうしている。この自分は、いったい誰?絵村くん、君はいったい誰で、どこから来て、どこへ行く?
自問自答していると、自分というものが、自分からはなれて、だだっぴろい部屋の中を、ゆらゆら浮かんでさまよいだす気分になった。
「誰だ?あんた、誰だい?・・・ボクは、ボクは・・・」
幼稚園児のころ、こんなことを考え、変な気分になった。自分が自分でなくなって、人間でない自分が、人間の自分を、外から観賞している・・・そんな気分になった。そのまま観賞を続けていたら、いったいどうなってしまうんだか、とても不安になって、怖くなって、考えるのを無理にやめた覚えがある。
「あのときの気分と同じみたい・・・!」
しかし、今回は、課長は、もう中年だし、不安も恐怖にも不感症になって、自身による自身の観賞を続行した。
気が遠くなってゆく。果てしなく、気が遠くなってゆく。
「瞑想ってのは、こういうことかしら?」
そして、課長は、ゆっくりと目を閉じた。
・・・時間が、流れていくぞい。
課長は感じ入り、腕組みした。人生の今を、体と心にしみこませているみたいだった。
と、部屋のチャイムが鳴った。
ピンポン!
「ひょっとして!」
美絵さん?まさか・・・。
とたんに、課長を畠山美絵の妄想が襲った。
逃した魚は美しいのだ。彼女の美しい顔、瞳、さらさら流れる髪、白い細いうなじ、すんなり伸びた腕や脚、長く細い指、その指がそえられた、適度に豊かな胸、その谷間・・・。それらの映像が、パチパチと課長の脳裏に現れ、悩ましい魅力を発散し、課長は、少し興奮してしまったのだ。
「どうぞ!」
課長は、呼び鈴の鳴った部屋の入り口に向かって叫んだ。
「・・・お邪魔します。ごめんください・・・」
女性の声。しかし、それは美絵ではなかった。くぐもったような、別の女性の声だった。
「どうぞ、お入りください」
課長は入り口のほうをのぞきこむ。
入ってきたのは、仲居だった。
「失礼します。・・・電気、もうつけたほうがよろしいんじゃないですか?」
気味わるそうに、彼女は言った。確かに、薄暗がりの中に、ひとり座っている課長の姿は、気味わるかった。
「そうですね」
「そうでしょう?」
言いながら、彼女は電灯のスイッチを入れた。部屋が明るくなる。仲居もはっきり見える。ぽっちゃり太った和服にエプロン姿の中年女性だ。
「お食事、もうできてますから」
入り口に立ったまま、彼女は言った。
「もうそんな時間ですか」
「はい。お食事の場所はご存知ですか」
「いいえ」
「東別館3階の大広間。ボウルルーム椿です」
「椿・・・ボウルルーム・・・東別館・・・。どこなんですかね、そこ」
「このお部屋を出て、右の奥のエレベータで4階にいって渡り廊下歩いて三つ目の部屋の横の階段下りてたら新館を通り抜けたすぐ横の廊下を2階本館の手前の売店の突き当たりのエレベータで3階に行ってすぐ東です」
「・・・・」
「ちょっと難しいですか」
「すごく難しいです」
「廊下に案内板があるから、すぐにわかりますよ」
「そうですか?」
課長は非常に不安になった。また女湯に迷い込んでしまいそうな気がした。
「連れてってくれませんか」
「そんな。すぐにわかりますよ」
「それじゃもう一度説明してくれませんか。メモしますから」
「椿の造花がいっぱいの花瓶が目印です。すぐにわかります」
「はい。で、お願いします。もう一度説明を・・・」
ズボンのポケットから手帳を取り出しながら課長は懇願した。しかし彼女は、
「ボウルルーム椿です。すぐにわかりますって」
そう言いながら、意味ありげな、一種好色そうな笑みを浮かべて、なぜか愉快そうに、入り口の襖戸をぴしゃりと閉めてしまった。部屋の外から、けらけらいう笑い声が聞こえた。
「そんな・・・」
馬鹿にしてるのか?
仲居の、理解しがたい応答に課長は戸惑った。
課長が廊下に出てみると、仲居はもうそこにいなかった。足の速い奴だと思った。それとも、煙のように消えてしまったのだろうか?
意を決して、課長は部屋を出発した。「食事の時間」と聞いて、急に空腹を覚え、部屋の中にまんじりとしている気分ではなくなってしまったのだ。
廊下を歩き出してほどなく、案内板を発見した。
メモ帳に、その案内板の図を模写した。かなり複雑である。仲居の言った説明は、ほとんど覚えていなかったが、案内板とは、微妙に異なっている気がした。
「椿。ボウルルーム・・・」
確かにそれらしき大きな部屋はあった。
メモに写した最北ニューグランドホテルの地図をたよりに、課長は歩を進めた。
「廊下。エレベータ。階段。三つ目だか四つ目だかの・・・。売店。東?」
仲居の言った言葉の切れ端を呪文のようにつぶやきながら、何度か道を間違えながら、行ったり、戻ったりしながらも、課長は歩き続けた。
そしてついに、到着した。
つづく・・・




