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姓名不明

元レインラント帝国軍伝書使(クーリエ)

(目が覚めると、知らない部屋に寝かされていた。

 パッと見は安宿といった雰囲気だが、部屋のあちこちに「見えないところにカネがかかっています」という風情があって、おそらくは私ではとても手が出ないクラスの宿なのだろう、などと、とりとめもない思いが脳内を巡っていた。

 そうするうち、左手がズキズキと痛み始めた。すぐに、まるで左手に心臓があるかのような感覚に襲われる。全身にじっとりと、脂汗が浮かび始めた。呼吸が浅くなり、無意識のうちに「痛い」と声が漏れる。

 ――と、その声を聞きつけたのか、部屋の扉が開き、一人の男が姿を現した。尋問室から私を救い出してくれた伝書使(クーリエ)だ)


 痛むようだな。

 痛み止めの薬があるが、使うか?

 効果のほどは、保証する。濫用すると廃人になりかねんが。


(私は慌てて首を横に振った。

 伝書使(クーリエ)が使う痛み止めとは、どんなに良く言っても麻薬の一種だろう)


 私としては、さっさと薬を使ってしまうことを勧める。

 苦痛は、体力を消耗させる。体が弱れば、関係ない病気を拾うこともある。

 念のために連絡しておくが、左手の傷の処置は、ドクターに済ませてもらっている。もしかしたら、指が数本、上手く動かなくなる可能性はあるそうだ。だが手首から先を切断するようなことには、ならないだろうという見立てだった。

 どうやらあなたは、なかなか運が良いようだな。


(運が良いというのは、いささか不愉快な評価だ。

 ――というのがそのまま表情に出たのか、男は小さく笑う)


 気分を害したようなら、失礼。

 それで、痛み止めはどうする?

 使わなくて良いのか?


(私は目を閉じて、もう一度はっきりと、痛み止めの使用を拒否する)


 そうか。

 では私は、隣の部屋で監視を続ける。

 この部屋は複数人の伝書使(クーリエ)によって警備されているから、安心して眠るといい。

 何か問題があったら、遠慮なく声をかけてくれ。


(いたって事務的な通達は、これはこれで、安心できるものだった。

 私は部屋を出ていこうとする彼の背中に、声をかける)


「できれば、水を一杯、もらえますか?」


(彼は鷹揚に頷くと、後ろ手にドアを閉めた。

 それから数分後、焼けつくような痛みに苦しむ私の枕元に、水が入ったコップを持った彼が姿を現した――彼がいつドアを開けて入ってきたのか、私には分からなかった。

 彼は私の額に手をかざす。無骨な手はやけにひんやりしていて、私は思わず安堵の息を吐く)


 水を持ってきたが……やはりあなたには、痛み止めが必要なようだ。

 ドクターからも、発熱が見られるようなら痛み止めを使えと命令を受けている。あなたの意志は尊重したいところだが、ドクターからの指示を優先させてもらう。


(彼は懐から小さなビンを取り出すと、その蓋を開けた。

 口をしっかり閉じて抵抗することも考えたが、伝書使(クーリエ)相手にその手の抵抗は無意味だと思い直し、おとなしく口を開く。

 なんとも言葉にし難い、甘苦い液体が、喉の奥へと落ちていった。一言で言うと、不味い。激マズだ)


 ローダナムだ。シロップを強めに混ぜてあるから、飲みやすいはずだ。

 もしかすると吐き気がするかもしれないが、異常ではない。

 吐き気を催すかどうかは、五分五分といったところだ。

 それから、レディにこんなことを聞くのもどうかと思うが、普段から便秘の傾向はあるか?


(とんでもないことを真顔で聞かれたが、その真顔に押されるように、正直に回答する)


 そうか。嘔吐感と異なり、便秘は確実に発生する。

 逆に言えば、ローダナムは下痢止めとしても使えるということだが。

 ともあれ、便秘になるのも異常ではないので、気にしなくていい。

 幻覚を見ることもあるというから、一応、容態が落ち着くまでは横で監視していよう。突然暴れだすようなことはないから、そこは心配しなくてもいいが。


(たとえ暴れだしたとしても、彼ならば私を一瞬で制圧するだろう。

 しかしこのローダナムとかいう薬、あんなに不味かったわりに、まだ効果が出てきた感じがしないのだが……)


 鎮痛効果がはっきりと現れるまで、人によって若干の差がある。

 普通なら15分もあれば、痛みを感じなくなるはずだ。


(私は、ならばその15分間、あなたに質問をしてもいいか、と尋ねた。

 なにしろ伝書使(クーリエ)が、目の前にいるのだ。こんなチャンスを逃すようでは、記者失格と言う他ない。

 彼ははっきりと苦笑すると、ベッドサイドの椅子に腰掛けた)


 それは、時間の無駄だ。

 私はそもそも、あなたとの必要のない会話を禁じられている。それに、あなたが聞きたいことはほぼすべて、伝書使(クーリエ)の規定による機密に属する。

 だが――気晴らしが必要なら、私の質問に答えてもらおう。

 それでも十分、時間を潰せると思うが?


(なるほど、それも一つの手だ。

 そして私にしてみると、質問されるというのは、質問するのと同じくらい、価値がある。期せずしてクラマー少将がやらかしたように、問いは、答えと同じくらいには、雄弁なのだから)


 では、あなたに聞いておきたかったことを、聞くとしよう。

 あなたはクラマー少将の尋問を、もう少し賢く切り抜けることもできたはずだ。

 だのになぜ、何度も彼を挑発するような真似をしたのか?


(私は少し目をつぶって、答えをまとめる)


「理由は2つあります。

 最大の理由は、自力で脱出できる可能性が見えていたこと。

 もう1つの理由は、クラマー少将は興奮していましたから、もしかすると私の調査に関係する情報を、無意識のうちに漏らす可能性があると思ったこと。

 これは想像ですが、あの現場を監視していたオチェナーシェク老は、随分と楽しまれていたのではないですか?」


(彼は苦笑して、無言のまま頭を振ったが、それはあまりにも雄弁な「イエス」の答えだった)


 なるほど、あなたは実際、自力であの場から抜け出すことに成功していた。

 そのせいで私は、かなり本気で走るハメになったが、それはともかく見事なお手並みだったと思う。

 それで、あなたは2番めの目的は、果たせたのか?


「――まだ、何とも。

 ですが、気になる発言があったのは、事実です」


 ほう? それが何かを、聞かせてもらうことは?


「さすがにそれは、無理です。

 それに、あの部屋での会話は、すべて把握されていたのでしょう?

 気になるようでしたら、ご自分で調べられるべきです。

 とはいえ、オチェナーシェク老は当然お気づきでしょうし、それどころか、もっと深いところで関わっておいでなのでしょうけれど」


(彼は小さくため息をつくと、何度も頷いた)


 ……私は、所詮、一介の伝書使(クーリエ)にすぎない。

 いや、正確ではないな――元伝書使(クーリエ)だ。

 我々の任務は、あらゆる困難を排して命令を伝達し、そして帰ってくること。

 それが、我々の本質だ。


 もちろん、暗殺や偵察も、任務として発生することは、あった。

 とりわけ、私は偵察が得意でね。無論、皇帝陛下から直接命令を拝領するような連中とは、腕前に雲泥の差があったが……。


(彼の言葉は、不思議な迷走を見せていた。

 私は息を潜めて、彼の思いがどこに向かうかを、見定めようとする)


 つまり、私は――政治というやつが、理解できない。

 理解したいとも、思わない。


 我々は、命令通りに旅をして、そして、帰る。

 それが我々の誇りであり、存在意義だ――いや、誇りにして存在意義、だった。


 確かに任務は過酷だったけれど、そこに謎は、なかった。

 自分が何のために、何をしているのか、悩むことなど、なかった。


 世界は、どこまでも、シンプルだった。


(極めて重要な証言が得られ始めたというのに、私の思考は鈍りはじめていた。

 気がつけば、左手の痛みは消え去っている)


 戦争が終わって、伝書使(クーリエ)は解体され、何もかもが変わった。

 もはや私は、誰のために、なぜ生きているのか、分からない。


 ――いや、分からないで済ませては、いけない。

 それは、理解しているつもりだ。

 敵の姿も、友軍の位置も知らないままでは、戦場は歩けないのだから。


 今の我々は……今の私は、自分自身で、立たねばならない。

 まさにあなたが、自力でなんとかすべきだと、考えたように。


 政治を理解できず、また理解したくなかったとしても、理解するしかない。

 そして政治という戦場においてもまた、征きて、帰らねばならない。


 だが、果たして……


(急激に、眠気とも陶酔ともつかない感覚が、全身を支配していく。

 彼の言葉ひとつひとつが、私を夢の世界へと導いていくようだ)


 伝書使(クーリエ)が、どうしても今の我々のような形でなくてはならない理由は、ない。

 遠距離に情報を届けたいなら、伝書鳩でも、狼煙でもいい。

 腕木通信は伝書使(クーリエ)より早く情報を伝えるし、エレキとかいう力で情報を伝達する技術が開発されつつあるともいう。

 伝書使(クーリエ)伝書使(クーリエ)として成り立ってきたのは、政治的な戦いの、一つの結果でしかないのだ。


 遠からず、伝書使(クーリエ)は、完全に滅ぶだろう。

 もしかしたら、伝書使(クーリエ)という人間たちが存在したという事実すら、歴史の中に消えてしまうかもしれない。

 それが、戦いに敗れるということだから。


 だからこそ――だからこそ、思う。

 伝書使(クーリエ)の思いを伝えてくれる伝書使(クーリエ)は、どこかにいるのだろうか、と……。


(そこまで語った彼は、私が眠ったのを確認して、席を立った。「眠ったのを確認された」ことをなぜ私が把握しているのか、そこは何とも説明が難しいが。

 翌朝、目が覚めると、私は自分の部屋の、自分のベッドの上にいた。

 何もかもが夢のように思えたが、テーブルの上に置かれた数本の「ローダナム」と左手に巻かれた包帯、そして未だに続く疼痛が、あれが夢ではなかったことを、執拗に訴えていた)


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