エルシュペー伯トーレス
元レインラント帝国陸軍小将、現レインラント共和国市民軍中将
……君か。最近、我が軍をあちこち出入りしているというジャーナリスト殿は。
どこの馬の骨とも知れぬ平民が、軍の機密に容易に接触できる状況を認めるとは、まったく、この国の軍隊はどうなってしまったのかね?
まあ、いい。
私も軍人だ。勝利のために、利用できるものは、すべて利用する。
調べてみたところ、君は良い武器になりそうだ。だから、利用させてもらう。
君も同じなのだろう? 君は不遜にも、私を含めたこの軍すべてを――あるいはもっと多くのものを――自分のために利用できると考えている。実に鼻持ちならぬ増上慢だ。
(よどみなく語る彼と私の前に、蠱惑的な乳白色のカップが並べられ、美しい琥珀色をした茶が注がれた。
軍の遠征にも使われるのであろうそのお茶からは独特の香りが立ち上がったが、決して悪い匂いではなかった。
彼は背後の棚からブランデーのボトルを手に取ると、自分の器に一滴、私の器に一滴、静かに垂らした。ヴージェ産最高級ブランデーの香気がふわりとあたりを包み、燻したオークを感じさせるお茶の香りと入り混じって、えもいえぬ至福の空間を作り上げる)
どうするかね? 私が先に一口飲むか? それとも、君が飲むか?
私が先に飲めば、君は毒殺を恐れずに済む。だがもし私が倒れれば、その理由がなんであれ、君は要人暗殺の現行犯で死刑台に直行だ。
君が先に飲めば、君は毒殺されるリスクを負うが、もし君が倒れれば、私は無辜のジャーナリストを暗殺した極悪人として名を馳せるリスクを負う。
(私は表情を崩さぬように注意して、静かにカップを持ち上げた。
「では、共和国に、乾杯」。
中将は軽く笑うと、自分のカップを持ち上げ、「共和国に」と唱和した。
二人でほぼ同時にカップに口をつけ、ほぼ同時にカップを下ろす)
「素晴らしいお茶です。
この取材を始めてから、分不相応なお茶をいろいろ頂いてきましたが、間違いなく最高のお茶と申し上げられます」
(特に媚びへつらう気はなかったが、最高のものを最高と賞賛しないほど、根性曲がりではないつもりだ)
ほう。この味が、分かるか。
どうやら君は、十把一絡げの元平民というわけでは、なさそうだな。
だがこれはまだ、最高ではない。私はそこまで茶に凝るほうでもないしな。
ただ、そうだな、フィッツ伯はあまりお茶を好まれぬし、バルマー卿は味音痴と称してこの手の娯楽から距離を置いている。元反乱軍の連中は、話にならん。君がレインラントにおいてまっとうな文化の一端に触れ得なかったのも、仕方ないところではあろう。
(私は、言わんとしたいことは理解しているというサインを見せつつも、つとめて平静を保った。
この程度の揺さぶりで動揺していては、勝負にならない)
――ふむ。
なるほど、あのお歴々が、君を駒にしようとしているのも、もっともだな。
君は傲慢で、自信過剰で、自意識過剰な、実に未熟極まる人間だ。
なおかつ、意志堅固で、とてつもなく野心的だ。
気に入った。気に入ったよ。
私は利口で英明な文明人より、勇敢で野蛮な野心家を好む。
なぜなら、知恵があるだけの人間は、弱いからだ。
知恵に重きを置き過ぎる人間は、己が何らかの暴力を浴びたとき、まず最初に、考えようとする――「自分はなぜ攻撃されたのか?」「攻撃を回避する方法はないのか?」「有効な反撃手段は何か?」。
戦場において、それらはただの、迷いでしかない。
戦場における真実は、2つだけだ。
1つ、殴られる前に殴り殺すこと。
2つ、殴られたら間髪入れずに殴り返すこと。
この絶対の掟は、鉛弾と鋼鉄がしのぎを削る泥濘の大地においても、ベルベットとレースに包まれた王宮においても、変わらない。戦場あるところ、普遍の真実なのだよ。
君は――ずいぶんと取り澄ますのがお上手だが――我々の側の人間だ。
君からは、消しようのない、匂いがする。
こんな茶と酒の匂いでは到底覆い隠せない、血と泥と排泄物が入り混じった、戦場の匂いがする。
(私は静かに、しかしはっきりと、首を横に振った)
「大変に嬉しいお言葉ですが、それは買いかぶりです。
私は軍の教育を受けたこともなければ、戦場に立ったことすらありません。
なにしろ私が生まれてからこのかた、レインラント・ヴージェ・ファールン三国は、まったくの平和だったのですから」
(私の反論を聞いた彼は、大声で笑った)
この最悪の罵倒を嬉しく感じる人間が、何を言っても無駄だ。
それに、実戦を知る、知らんなど、大した差ではない。
童貞だから、処女だから、子孫を作れぬというわけではあるまい?
狼になれるのは狼だけだし、猿はどこまで行っても猿だ。
そして獅子が強いのは獅子だからであり、獅子は生まれながらにして獅子なのだ。違うかね?
(私は曖昧に頷いておくことにした。
彼の発言は、市民の平等を謳った共和国憲章に対し、真っ向から喧嘩を売っている。中将閣下くらいの地位があれば治安警察も踏み込めないが、私にとっては話は別だ)
ふん――まあ、いい。
これくらいなら、茶とブランデーの配合を逆にしておくべきだったな。
そうしておけば君も、迂闊な発言を「酒のせい」にできた。
まったく、レインラント共和国の市民はすべからく平等であると吹いている連中が、不適切な発言をする私のことは見て見ぬふりをして、「同志市民」の片言隻句をあげつらっては尋問室に連行するというのは、なんともお寒い風景だよ。
君もそう思わないかね? まるで先帝陛下が統治されていた頃のようだ、と?
(私は、表情も体も、完全に凍りつかせていた。
噂には聞いていたが、エルシュペー伯の豪胆さには、肝が冷える。
彼は共和国政府に喧嘩を売った勢いのまま、旧帝国時代の統治にも喧嘩を売ったのだ。ほんの少しでも頷こうものなら、共和国政府も、旧帝国派貴族も、一気に敵に回すことになる。
彼を紹介してくれたフィッツ伯が「エルシュペー伯は騎兵ではなく、遮眼帯をつけた軍馬そのもの」と語り、ショーシュ少将が「中将閣下の突撃は数学的に完璧ですが、閣下が毎回生還するというのは数学的に非常識です」と評した意味を、私は骨身にしみて理解しようとしていた)
いや、肯定も、否定も、結構。
君を困らせるのが、私の本意ではないのでね。
今のは、ただの独り言だ。聞き流して頂いて、大いに結構。
――で、私に何を聞きたい?
いや待て、このままではつまらん結果にしかならん。
何より、茶が冷めてしまった。まずは、このカップを空けてしまおう。
改めて、共和国に!
(彼はそう言うと、カップの茶をぐいと飲み干した。
勢い私も、それに付き合って、自分のカップを空にする。
しかるに予想通り、中将閣下は再び背後の戸棚を開けると、空になったカップに酒をなみなみと注いだ。匂いからして、わかる。先ほどのブランデーとは真逆の、野蛮で下品な酒だ。
2つのカップに酒を注ぎ終わった彼は、ニヤリと笑うと、再び「共和国の更なる発展のために」と宣言し、カップを手にとった。
こうなっては、後には引けない。私も「共和国の未来のために」と唱和し、カップの中身を一口、喉の奥へと流し込んだ。
途端にカッと熱い液体が体を灼き、口と鼻から蒸気が漏れたような気がした。
想像以上に、強い酒だ)
この酒は、我々が生還を期せぬ突撃に向かう前に、皆で飲む酒だ。
私ですら酒精が強すぎると感じる酒だが、もう二度と酒は飲めぬと思えば、これくらいが丁度いい。
たくさんの勇猛な部下たちが、この酒を最後に、戦場に散っていったよ。
皆、素晴らしい戦士だった。
誰一人として、臆病者はいなかった。
絵にも歌にも残らぬ死だが、私は決して彼らの最期を忘れん。
(たった一口だったのに、軽く耳鳴りがする。
理性の抑揚が上手く効かなくなっているのを、感じた。
落ち着かねばと思う反面、彼が語る勇猛な騎兵たちの歓声と雄叫びが耳元で木霊しているようで、私はつい、前のめりな質問をしていた)
――ああ。そうだな……寂しさは、ある。
時折、自分はなぜ生き残ってしまったのかと、悔しさを感じることも、ある。
この国は、もうすぐまた、戦争をするだろう。
だが私はもう、20年前のようには、戦えない。
最前線で突撃するなど立場的に許されないし、何より体がついてこない。
それにおそらく、次の戦争では、騎兵の出番はない。
ショーシュ少将は、敵としても味方としても実にいけすかん小僧だが、忌まわしいことに、天才だ。こと戦争に関してあの小僧が言うことは、ほぼ間違いなく、現実になる。
そのショーシュの小僧が、次の戦争では、騎兵は限定的な役割しか果たし得ない、と言う。
それを聞いたバルマー卿は激怒していたが、あれも賢い男だ。内心で、小僧と同じ結論に達していたに違いない。バルマー卿は、小僧の見解に怒ったのではなく、戦争が避けようもなく「そうなってしまうこと」に、怒ったのだ。
まったく。長生きは、するものではない。
もし帰れるならあの戦場にもう一度帰って、華々しく戦い、そこで死にたいものだ。
(――アルコールのせいか、ふと、何かがつながった気がした。
深く考えもせず、私はその疑問を口にする)
伝書使か。それはまた、難しいところだな。
伝書使を蔑視していた愚か者どもは、「彼らはただ、行って帰ることの、達人でしかない」と冷笑していた。
無論、これはまったく的はずれな批判だ。
伝書使が向かう場所は、しばしば、死地中の死地だ。行くと腹を括るだけでも、余人になし得ることではない。
私ですら、あんな命令を受けるようなことがあれば、全力をもって抗議するだろう。死を恐れず戦うことと、確実な死に飛び込むことは、自ずから異なる行いだ。
彼らはそういう死地に平然と飛び込み、そして高確率で帰ってくる。「行って、帰る」ことには違いないが、子供の使いとはまるで話が違う。
だが、どうかな。立場上、彼らとは何度も言葉を交わしたし、彼らに命令することも多かったが、彼らは決して、戦場を家とするような者達では、なかった。
そしてそれは、彼らに関して言えば、まったく正しい。
彼らの任務において最も重要なのは、「帰ってくる」ことだ。だから命令する側としても、平穏な日常への帰還を強烈に志向するような人間でないと、些か不安を感じざるを得ない。
私や部下たちのように、最高の戦場において、最も苛烈に戦い、その武勇を仲間の目に刻んで死ぬことを夢みるような――そんな人間に重要な密書を託すのは、君だって嫌だろう?
(失礼を承知で、私は強く頷いていた。
危険なレベルまで、酔いが回っている)
ハハハ、だいぶ調子が上がってきたな?
だが一人だけ、そういうレベルを超越した伝書使がいた。
君がご執心だとかいう、例の女伝書使だよ。
(ハッとして、集中しなくてはと思ったが、アルコールが邪魔をする。
朦朧とする思考をつなぎあわせながら、私は必死で彼の言葉を追った)
飲み給え。
そのほうが、頭がシャッキリする――そうだ。いい飲みっぷりだな。
あの女伝書使を何度か使って思い知ったのは、彼女は犬そのものだ、ということだった。
私は猟犬を何匹か飼っているのだが、あいつらと一緒だよ。
たまの休日、ボールを片手に連中と庭に出て、遠くにボールを投げてやると、連中は大喜びで走って行って、口にボールを咥えて、帰ってくる。私はそのボールを受け取ると、また遠くに投げる。連中は嬉しそうに吠えながら、走って、拾って、帰ってくる。その、繰り返し。
彼女はまさに、それだった。
陣幕で待機しているときは、この世が終わるのを待つかのような暗い顔をしているのに、任務を与えられると人が変わったように明るくなって、あっという間に出て行ってしまう。
そして、どんな困難な任務であっても、まるで遊びに行ったかのようにあっさり果たして、帰ってきて――その途端、ボール遊びはこれまでだと叱られた犬のように意気消沈して、自分の天幕に戻っていく。
危うさは、感じた。強く。こいつはいつか、煙のように消えてしまうんじゃないか。そんな危うさが、あの女伝書使には、あった。
そして戦争末期、先帝陛下から直接の任務を受けた彼女は、ついに帰らなかった。
実はね、先の戦争末期、誰の目にも戦争が終わるのが明らかな現状において彼女を使うのは危険だと、先帝陛下には何度も上奏していたのだよ。
彼女だって、もうすぐボール遊びが終わってしまうのは、分かっていたはずだ。
このままでは、悲惨で苦痛に満ちた平和なる日々に、絡め取られてしまう。ならばいっそ、己が最も幸福を感じるこの「我が家」で、人生の最期を迎えたい――彼女がそう考えたとしても、不思議はない。
だから私は、先帝陛下の隠し財産にしても、彼女の生存説にしても、あまり真面目に相手をする必要はないと考えている。
前者については、先帝陛下も、彼女から危うさは感じておられたはずだ。いつ蒸発するかわからない人間に、大金を委ねるとは考えにくい。
後者については、もし彼女が生きているなら、もうとっくに姿を現しているはずだ。
この国の内部で起きている政争は、もはや戦争と呼んでも構わない状況だ。それに、本物の戦争が近いことだって、彼女のような人間なら敏感に察知しているだろう。なにせうちの犬どもは、私がボールを持って近づいてくる足音を聞いただけで、小屋から飛び出してくるからな。
それに、だ。
彼女なら、次の戦争がどれほど汚い戦争になろうが、そんなことは意に介すまい。
彼女にとって、平和な日々は、最悪の戦争よりもなお、苦痛に満ちた毎日なのだろうからな。
(彼はなおも何かを喋っていたが、私の記憶はこのあたりで途切れている――が、少なくともこの後、トータルでカップに3杯ほど飲んだのは、なんとなく覚えている。
どうやらその日は、彼のオフィスの床で眠ってしまったようだった。翌朝私は、激しく痛む頭を抱えつつ、机に突っ伏して熟睡している中将閣下を揺り起こして、予定退出時間を大幅に過ぎた取材許可書にサインをもらうという難事業に挑むことになった)




