第二話:地底の檻
東欧の鉱山地帯。
ハイドロキシアパタイトの結晶格子が告げたその地名を聞いたとき、槇原の脳裏には、西条署の管轄内にある「ある広大な廃墟」の映像が浮かんでいた。
かつて高度経済成長期に栄え、今は完全に放置された臨海部の化学コンビナート跡地。
そこは表向きは立ち入り禁止の私有地だが、近年、国際的な密輸ルートの経由地として、組織犯罪対策課のブラックリストにも密かに載っている場所だった。
「旧ソ連圏の鉱山と同じレベルのカドミウム、か」
槇原はそう呟くと、手帳に鉛筆の芯を強く押し当てた。
「合致する場所が、一箇所だけある。
あのコンビナートの地下には、昭和の時代に作られた巨大な産業廃棄物の不法投棄場がそのまま残されているはずだ。
土壌汚染のレベルは、日本の基準を遥かに超えている」
暦は顕微鏡の対物レンズを切り替えながら、感情の起伏を取り払った声で応じた。
「人間は社会のルールで動きますが、元素は物理法則でのみ動きます。
被害者の大腿骨に蓄積されたカドミウムの濃度は、単にその場所に数日滞在した程度のものではありません。
少なくとも数年間、その汚染された地下環境で、陽の光を浴びずに強制労働を強いられていた」
「つまり、奴はあの地下に監禁されていたわけだな」
「ええ」
暦はレンズから目を離し、漆黒のクマに縁取られた瞳を槇原に向けた。
「さらに興味深いデータがあります。
ハイドロキシアパタイトの中に、微量の『フッ素』が不自然な層を形成して取り込まれている。
これは、特定の時期に高濃度のフッ化水素、あるいはそれを伴う工業用洗剤を大量に吸い込んでいた証拠です」
「洗剤?」
「電子部品の洗浄、あるいは、特殊な貴金属の精錬プロセス。
あのコンビナート跡地で、密かに何が行われていたか、警察の耳には届いていないのですか?」
槇原は奥歯のイチゴ飴を、今度は割らないように慎重に転がした。
胸の奥から、どす黒い怒りが込み上げてくる。
組織犯罪対策課の連中が「ただのチンピラの内ゲバ」として片付けようとしたのは、単なる怠惰ではない。
これ以上深く掘り下げれば、国際的な犯罪シンジケートと、それを黙認している国内の巨大な権力の影に突き当たってしまうからだ。
「上層部は、この骨を早く無縁仏として処理したがっている」
槇原の言葉は、冷たい鉄格子のように部屋の空気を閉ざした。
「だが、俺の奥歯がそうはさせねえと言ってる。
この飴玉の甘みが消える前に、その地獄の蓋をこじ開けてやる」
暦はそんな刑事の正義感には、全く関心を示さなかった。
彼を突き動かしているのは、ただ一つ。
1000度の炎で焼かれながらも、なお自らの歴史を主張し続ける骨への、絶対的な敬意だけである。
「槇原さん、私は骨のメッセンジャーに過ぎません。
しかし、この骨が私にこれだけのデータを提示した以上、それを無視することは私の信仰が許さない」
暦はそう言うと、白衣のポケットからカロリーメイトの袋を乱暴に引き裂いた。
チョコレートの香りが、薬品臭い法医学教室に微かに広がる。
「被害者の肋骨の断端を確認しました。
焼ける前に、鋭利な刃物による防衛創――つまり、抵抗した跡があります。
彼は自ら死を選んだのではない。
檻から逃れようとし、力尽き、証拠隠滅のためにガソリンを浴びせられた」
「殺された、か」
「骨の結晶は、彼が死ぬその瞬間まで、必死に生きようと代謝を続けていたことを示しています。
生物としての最後の抵抗が、このハイドロキシアパタイトの歪みに刻まれているのです」
槇原はコートのポケットに手を突っ込み、西条署の重い扉を思い浮かべた。
ここから先は、警察官としての身分を賭けた単独行動になる。
生者の都合で塗り潰されようとしている真実を、このボーン・オタクの顕微鏡だけが照らし出している。
「暦、その分析データをすべて書面にまとめろ。
組対の奴らの顔面に叩きつけてやる」
「書面なら、既にシステムにアップロードしてあります」
暦はカロリーメイトを口に放り込み、無表情にキーボードを叩いた。
「私は生者の涙には一滴の価値も認めませんが、骨が残した数字は絶対です。
彼らがこれを改ざんしようとすれば、その瞬間に科学への背信となる」
モニターには、ハイドロキシアパタイトの三次元結晶モデルが、冷徹な青い光を放ちながら回転していた。
それは、見えない檻の中で息絶えた男の、最後の、そして唯一の遺言状であった。




