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「泳ぐときに意識するのは、いかに水の抵抗を受けないかってこと。だから腕を思い切り回すとか、脚をバタバタするとか、力任せになるんじゃなくて、全身から手足の先っぽまできちんとフォームが整っているかを意識する方がいいよ」
「でもさ、オリンピックの水泳選手はムキムキじゃん。あれって筋肉付けて出力上げた方がいいってことじゃない?」
「たくさん泳いでれば必要な筋肉はつくんだよ。それに男子はムキムキかもしれないけど、女子はムキムキじゃないだろ」
「たしかに康介はムキムキじゃないね」
「俺はまだ成長途中なの」
土曜はいつもより少し遅れて練習を開始した。しばらく泳いでいると鳩村がやってきたので、一緒に泳いだ。適宜休憩を取りながら、泳ぎ方を教えたり、疲れたら雑談したりして、明るくなるまで泳いだ。
「ねえ、康介はさ、泳ぐのが好きなの?」
「え? ……うん」
そろそろ帰ろうかなと思い始めたころだった。一休みしているときに鳩村が口を開いた。たぶん、鳩村も何気なく聞いたんだと思う。
「じゃあさ、水泳部に入らないの?」
「もう入らないよ」
「どうして? 水泳部に入ったら、たくさん泳げるじゃん」
「それはそうかもしれないけどさ」
ふたりとも泳ぎつかれて目を合わさずに会話をしていたのに、気が付けば俺は鳩村の顔をじっと見つめていた。それに気付いた鳩村は一瞬目を見開いて、それから目線をそらした。
「鮫がいる水槽で泳ぎたいと思う魚はいないだろ」
「水泳部には鮫がいるの?」
「……いないけど」
「ふうん」
鳩村は何かを察したのか、それ以上何も言わなかった。それは俺にとってありがたい配慮だった。聞かれてもあまり言いたくないことだったから。
数秒後、鳩村が顔をあげてこちらを見た。表情はどこか哀し気で、しかし品があり、俺は彼女になにか気の利いたことを言わなければいけないという気持ちになった。一生懸命考えたが俺の貧弱な語彙では何も出て来ず、とりあえず場を繋ぐために思いついたことを喋った。
「ちなみに、魚もいないよ」
「じゃあ何がいるの?」
「……カッパ」
鳩村は目を丸くして、それから声を出してしばらく笑った。少し考えて、鳩村がなぜカッパで笑ったか分かって、俺もなんだかおかしくなってニヤニヤした。
「カッパってさ、顧問のさ、な、夏川先生のこと? よ、良くないよ、そういうの。人の見た目とかさ、ふふふ」
「見た目じゃないよ。俺は泳ぎのこと言ってんの」
「絶対ウソ! ウソだよそんなの」
「キュウリ好きだよあの人」
「アハハ、なんで知ってんだよそんなこと!」
「見た目が好きそうだから」
「見た目じゃん!」
しばらくふたりで笑った。笑わそうとしていたわけではなかったが、鳩村が笑うと俺はなんだか嬉しくて、不思議な気分だった。こういう気持ちになったのは初めてだった。
もう少し話そうと思って、去年のことを思い出した。俺が水泳部にいたころ、夏川先生の泳ぎを見たことがある。夏川先生は学生時代に自由形の選手だったらしく、クロールの技術は見事だった。そのかわり平泳ぎは苦手のようで、あまり上手では無かった。
「あんまり平泳ぎは上手くなかったな」
「そうなんだ。じゃあ康介のほうが速いの?」
「分からない。でも多分今なら、俺の方が速いと思う」
「すごいじゃん。じゃあ康介もカッパだね」
俺がカッパかと言われると、違和感があった。俺の泳ぎのイメージはカッパではない。カッパの泳ぎを見たことが無いからイメージが出来ないというのもあるが、俺の泳ぎの原点はイルカである。
そして、鳩村に俺がカッパと思われるのはなんとなく嫌だった。
「いや、俺はカッパじゃないな……」
「見た目が?」
「いや、んー、感覚というか。泳ぐときのイメージって言うか」
「どういうイメージなの?」
聞かれて俺の頭は反射的に、何も考えずに答えを出した。まさに即答だった。
「俺はイルカ」
言ってから、ハッとなった。俺は何を話しているんだ。伝わるはずのないことを言ってしまった。
イルカのイメージ。俺がずっと抱いていた憧れ。誰にも言ったこと無かったのに。
急に、鳩村の方を見るのが怖くなって俺は俯いた。笑顔が無くなっていたらどうしようと思った。血の気が引いて、全身が冷たくなって、そのまま凍ってしまうような気がした。
水面には強張った俺の顔が映っている。
「イルカ?」
鳩村は俺に確かめるように聞いた。声色から感情を探ることは出来なかった。
今どんな顔をしているんだろう。気になったが顔を上げられなかった。せっかくさっきまでうまく会話できていたのに。
胸がだんだんと苦しくなった。まっすぐな視線を感じる。きっとまだ悪意や他意はないけれど、これから軽蔑に変わっていくことを想像するのが怖かった。
だってイルカに憧れている人間なんか俺以外にいるはずもないから。
人間は普遍的な価値観を全ての人間に適用し、そこから外れている人間を見下したり軽蔑したりする。誰だって、俺だってそうだ。俺は自分自身を軽蔑している。その自覚がある。
俺は普遍から外れている。理解している。だからひとりで泳いでいたのに。
嬉しくなってしまったんだろうか。それとも期待しているのか? 理解してもらえるとでも? なんて馬鹿なんだ。せっかく、せっかく――
後悔が押し寄せた。鳩村が思っていたよりもずっと優しいってことは話してみて分かった。でも、俺の価値観を受け入れるかどうかはまた別の話なんだ。
急に朝日が鬱陶しく感じた。闇の中に消えてしまいたいと思った。
俺は何も言わずにできるだけ深く潜った。それでも光が目に入るから、目を瞑って泳いだ。できるだけ静かに鳩村から遠ざかるために、プールの底を這うように進んだ。水中はいつも無音で、誰にでも平等な気がする。
息が苦しくなって顔を出すと、いつのまにか対岸だった。頭から水面に滴る水滴がポチャと音を立てるのがどうしようもなく腹立たしかった。いつもは気にならないのに、俺の周りに出来た波すらも目障りだった。
深呼吸を4回したあと、耐えきれず振り向いた。鳩村が25m先からこちらを見て笑顔で手を振っていた。俺はまた何も言えなくなって、俯いて深呼吸しながら、そのまま馬鹿みたいに突っ立っていた。
「康介!」
鳩村が俺を呼んだ。その瞬間、手足が熱くなったのを感じた。
俺は壁を蹴っていた。全身がまっすぐに伸びている。指先まで繊細なフォームが俺の身体を前に進める。意識じゃなくて、本能が叫んでいる。行け! 泳げ!
これ以上ないほど全力で泳いでいるのに、じれったかった。どうしてもっと速く泳げないんだろう。どうしてもっと早く――
考えているうちに鳩村のもとにたどり着いた。ゴーグルを外し顔を上げると、鳩村が目を細くしてニコニコ笑っている。
「ホントだね、イルカみたいだね」
その言葉で俺は全く参ってしまって、情けない表情を隠すためにその場で潜った。でも鳩村が呼ぶ声はハッキリ聞こえた。これから鳩村が俺を呼ぶ声を聞き間違えることはないだろうという気がした。