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イルカ  作者:
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11/11

11

 あまり眠れず、いつもより早めに起きた。そのままいつもより早めに家を出た。どうせ夜中に家にいてもできることなどない。ならば少しでも多く泳ぐべきだ。


 夜道は誰もいないから落ち着く。静かで、暗くて、俺の足音だけが響くのがいい。車が通ることもほとんど無くて、時折道路のど真ん中を歩いてみたりして、まるで俺以外の人間がいなくなったかのような非日常的な感覚を簡単に味わえる。風が吹いて、虫の鳴き声が聞こえて、たまにどこかの家の窓から明かりが漏れていて、別に世界は何も変わっていないって分かって、少し安心する。

 自分の姿を誰にも見られないってのは、たまらない解放感がある。自分を咎める何かが周囲に存在しないことが、人生においていかに重要であるのかを、夜中という時間が教えてくれる。楽しいことだけ考えて生き、疲れたら帰って寝ればいい。


 と、そんなことを考えていたら前方に車のライトが見えた。続いて大きなエンジン音。どうやらものすごい速度で走っている。

 あまり姿を見られたくないので近くの電柱の影に身を隠していると、猛スピードで白いセダンが走っていった。どこかで見覚えがあったような気がする車だったが、思い出せなかった。


 学校にたどり着くと、いつものように泳いだ。

 真っ暗闇の中に、慣れ親しんだ無音があった。端から端へ、往復を繰り返す。学校の窓から漏れるわずかな明かりと月光が、俺に道を示してくれる。

 五往復もすると水温に体が馴染み始める。指先まで自分を自由にして、俺はイルカのイメージ。浮き沈みのタイミングと全身の動きを合わせて、水中を突き進んでいく。


 世界が無音だ。たぶん、集中できている。聞こえてくるのは息継ぎの際の自分の呼吸音と、心臓の鼓動だけ。

 毎日少しずつ、速く泳げるようになっている気がする。自分の泳ぎに変化を感じる。ここ数日間で、俺はかなり自分の泳ぎに自信がついた。それはきっと、このプールで鳩村と一緒に泳ぐことができたからだろう。

 まもなく朝がやってこようとしているこの時間には、まだ彼女は眠っているのだろうか。それともすでに起きていて、勉強しているのか、走っているのか。どうなんだろうな、分からない。

 誰にでも人生のなかに行動の優先度があって、俺にとっては水泳が一番で、彼女にとっては水泳じゃない何かが一番で、それは本人以外の誰かが変えられるものじゃない。ただ、鳩村が俺の最優先が水泳であることを知ってくれていればいいなと思う。まだ初めてまともに言葉を交わしてからそれほど時間がたったわけじゃないが、俺の人生の中心にあるのが水泳だってことを、彼女には知っていてほしい。

 逆に、鳩村の人生の中心には何があるのだろうか? あとで聞いてみようか。

 俺と正反対な人間だから俺には到底予想がつかないだろうけど、きっと彼女にも何か大切なものがあるんだろうな。


 一息ついてゴーグルを外すと、空が少しずつ明るくなり始めていた。手足が重く、指先が痺れる感じがする。風が生ぬるく、俺は肩まで水中に浸かった。自分の呼吸で水面が揺れている。

 今日も泳いだな、俺は。それも、相当泳いだ。

 以前は朝が来るのが嫌で仕方がなかったが、今では朝が来ることを恐ろしいと感じない。むしろ、自分の人生をやり切っている気がして清々しい。

 帰って、一眠りして、また学校へ来よう。俺はプールから出て、タオルで濡れた体を拭いた。


 そのとき、ザッザッ、と小さな音が聞こえた。どうやら誰かが来たようだ。最初は鳩村がやってきたのかと思ったが、テスト週間中は休むと言ってたし、なにより彼女とは足音が違う。

 下手に動くと物音を立ててしまいそうだから、俺は息を殺してその場にしゃがんだ。


 いったい誰だろう。車の音はしなかったから、徒歩で来たはずだ。つまり、先生の誰かではない。

 散歩? こんな時間に誰かが来たことなんてないが、もしかしたら今日だけ、ということもありうる。


 予想は意味を成さなかった。結局のところ、足音の主が誰であろうと、俺は姿を見られないように祈るだけだった。

 そして、祈りにも意味はなかった。


 プールの鉄門の前で足音が止まると、その人は門の隙間からキョロキョロと何かを探して、俺の姿を見つけると数秒間ジッと睨み付けた。

 木津だった。鳩村の友人で、俺の苦手な女。

 俺も向こうも、会話を始める気はなかった。事実、木津は俺を睨んだ後すぐに大きな足音を立てて去っていった。

 足音が聞こえなくなるまで俺は息を潜め、そのまましばらく動けなかった。

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