第三十五話 可能性
オドマリア王国は格差社会だ。
貴族にはとても使い切れない富と贅沢が与えられ、平民にはとても耐えられない貧しさと飢えが与えられる。
国民のほとんどが全てを与えられた貴族と全てを奪われた平民で構成される中、俺は世にも珍しい普通という身分だった。
両親は平民ながらも商人として大成し、俺は大抵の平民よりも楽な暮らしができた。
ただ、それがトプシティ商会みたいな金で爵位を買えるレベルの成功かと言われるとそうでもなく、大抵の貴族よりかは貧しい暮らしをしていた。
平民にしては富めるが、貴族にしては貧する。
そんな普通の暮らしが俺は気に入っていたし、できる限りこの暮らしを守りたいと思っていた。
六つ上の兄貴が若くして商才を開花させていたから、自分で両親の後を継ごうとは思わなかった。
剣術学院に通わせてもらったのも、商売以外の道を見つけたいと思ったからだ。
身一つで食っていく戦闘職も、馬鹿な俺には合っていると思った。
騎士を目指すのか、気ままに冒険者をやるのか。特に決めてはいなかったけれど、腕っぷしを磨いて両親と兄貴に自慢してやろうと思っていた。
傭兵になって兄貴が経営する商会の護衛を専属する、なんて未来も想像した。
幸せだったと思う。
当時は何とも思わなかったけれど、俺はずっと幸せだったんだ。
失ってから気付くなんて、本当に馬鹿げた話だ。
大きな商談の前だった。
家族みんなで馬車に乗って、商談先の屋敷まで向かった。
俺は商談に参加する予定ではなかったけれど、折角だからと言って兄貴が連れて行ってくれた。
それで馬車酔いなんてしたんだから、本当に迷惑をかけたと思う。
山道にも関わらず馬車を止めてもらって、俺は草むらに隠れて吐いた。
思い切り吐いて、少しスッキリして、振り返ると————
————え?
馬車が吹っ飛んでいた。
どこからか降ってきた水の塊に馬車は吹っ飛ばされて、馬車は崖を転がり落ちていった。
意味が分からなかった。
大質量の水塊に体当たりされた馬車はひしゃげ、崖から転落しながら崩壊する。
バラバラになって砕ける馬車と共に、中にいたみんなも崖から落ちていった。
父さんも、母さんも、兄貴も、崖の下へと消えていった。
あまりにも一瞬の出来事だったから、俺は何が起こったのかも分からず、ただ茫然と立ち尽くしていた。
崖に落ちる時に、父さんがどんな顔をしていたのか。
母さんが何を言おうとしていたのか。
兄貴はどんな気持ちだったのか。
何も分からないまま、全部砕けて落ちていった。
後日、父さんと母さんと兄貴の死体が発見された。
ほとんど時期を同じくして、とある貴族の事故死を新聞で知った。
能力登用主義を掲げていた男爵が、俺達が馬車で通ったのと同じ山道で事故死していた。
その男爵はセイレンディス家にとって政敵とも言える存在だったらしい。
加えて、俺が事故当日に見た大質量の水。
考えられる可能性は一つ。
俺達家族は巻き込まれたのだ。
アイリス・セイレンディスが政敵を抹殺する際に放った魔術。その流れ弾がたまたま通りかかった俺達の馬車を直撃した。
貴族の政治戦争に巻き込まれて、俺は一夜にして家族を失った。
その時はショックを受けた。
たくさん泣いた。
父さんにも、母さんにも、兄貴にも、もう二度と会えない。
独りぼっちの屋敷で過ごす日々に、心が壊れてしまいそうだった。
剣術学院も退学になり、両親と兄の遺産を食い潰すように、自堕落な生活を送るばかり。
そんな矢先に出会ったのがヨネだった。
狭く汚い路地の片隅で、傘も差さずに雨に打たれる彼女の姿に、あの時の俺は何を感じたのだったか。
同情か、あるいは仲間意識。
見るからにボロボロで、錆びだらけの剣だけを握りしめる彼女の姿に、俺は自分を投影していたのかもしれない。
何もかも失って、全部が全部ダメになって、落ちる所まで落ちた後。
自分の心のみすぼらしさを、ヨネの見た目のみすぼらしさに重ねていた。
だから、何となく傘を差し出して。
家に泊めて。
一緒に暮らすようになった。
ヨネはまともな教育も受けていないらしく、最初は読み書きも計算もできなかった。
俺はそんなヨネに勉強を教えて、俺はヨネに剣の練習相手になってもらった。
ヨネの剣技は独学で培った完全な我流。
だというのに、純粋な剣の腕だけで言えば、剣術学院の中でも優秀だった俺を遥かに凌駕していた。
ヨネに練習相手になってもらってから、俺は自分の剣技がめきめきと上達しているのを感じた。
強い相手と打ち合える機会は、こんなにも人を成長させるのかと感動した。
それでちょっと自信がついて、俺とヨネは冒険者ギルドに登録して、日銭を稼ぐようになった。
冒険者として依頼をこなしたり、賞金首を狩ったりして暮らす日々。
俺もヨネも剣は人並み以上に使えたから、贅沢さえしなければどうにか食っていけた。
何もかも失った心の穴を埋めるように、ヨネと二人で過ごしていた穏やかな日常。
喪失の痛みをぼんやりと誤魔化すように、ゆっくりと薄らいでいくように。
失ったものを取り戻せないけれど、心に空いた穴は消えないけれど、それでも少しずつ。
自分の心を誤魔化して、どうにかこうにかやっていく。
なんて、考えていたのだ。
あの日、彼女が目の前に現れるまでは。
————随分、腕が立つのね
声をかけられたのはヨネだった。
俺達は懸賞金のかかった犯罪者を追っていて、ちょうど捕まえたところだった。
抵抗する犯罪者をヨネが剣一本で捻じ伏せて、戦闘不能に追い込んだ直後。
その現場に居合わせた女が、ヨネに声をかけた。
————ボディガードの仕事に興味はある?
黒髪を長く伸ばした女だった。
高級そうな服に身を包み、その長身を以てヨネを見下ろしている。
ミッドナイトブルーの双眸が、深海のように暗かったのを覚えている。
アイリス・セイレンディス。
偶然にも居合わせた公爵令嬢が、ヨネの剣技に興味を持ったらしかった。
————ノウドも一緒なら……
復讐心とか憎悪とか、全く無かったわけじゃない。
でも、本当にアイリス・セイレンディスを殺してやろうなんて考えたことはなかった。
そんなことは絶対に不可能だからだ。
純粋な戦闘能力は言うに及ばず、身分も立場も違い過ぎる。
ちょっと剣を使えるだけの平民が、オドマリア王国最強の魔術師に仇討ちなんてできるはずがない。
できないから、やらない。
できるかもしれない、なんて考えさえ頭によぎらなかった。
アイリス・セイレンディスなんて、俺には雲の上の存在で、災害みたいなものだったのだ。
でも、そいつの護衛として身内に入り込むことができれば?
アイリス・セイレンディスを守る立場として、最も近い場所に立つことができれば?
護衛として長い時間をかけて信頼を勝ち取ることができれば?
いつか、この貴族の寝首を掻けるんじゃないか?
————俺で良ければ、是非
あの時、確かに思ってしまった。
できるかもしれない。
殺せるかもしれない。
そう感じた時には既に、俺はもうどうしようもないほど復讐心に呑まれていた。
復讐できるかもしれないという可能性に、俺は魅せられてしまったのだ。
***
エンチャント・トライキャスター。
世にも珍しい三重属性魔術付与。
赤、青、白に明滅を繰り返す雷の刃は、炎と氷と雷の魔術を剣に重ねて付与した結果。
絶えず温度を変化させる雷は、摂氏百度以上の高温とマイナス百度近い低音をランダムで変動する。
熱し、冷やし、熱し、冷やしを繰り返す雷。
物質は熱により膨張し、冷によって収縮する。
温度の急上昇と急低下を短時間の内に繰り返せば、膨張と収縮の力によって物質は内側から割れる。
それは高密度に圧縮された水も例外ではない。
ノウド・ユーべルトがアイリス暗殺のために編み出した、防御無視の雷撃である。
咄嗟にヒュノが庇いに動かなければ、その刃はアイリスの心臓を抉ったに違いない。
明滅する剣がヒュノの腹に突き刺さる。
目の前で刺される鳥人の姿に、目を丸くしたのはアイリスだった。
「ヒュノ……?」
呆然と立ち尽くすアイリスの眼下。
ノウドはヒュノから剣を引き抜き、二度目の斬撃を放つ。
横側に回り込むようなステップから、アイリスの首を落すように放たれた一閃。
立ち尽くして動けないアイリスの首に、明滅する雷の刃が迫る。
間一髪でノウドの剣を弾いたのは、横合いから飛び込んできたヨネの剣閃だった。
「邪魔すんなよ、ヨネ」
割り込んだヨネを前にして、ノウドは苛立たしげに言い放つ。
僅かにくすんだ赤毛の髪。
その奥に見える双眸には、焼けるような殺意を宿したまま。
「ヒュノ? ヒュノ、ヒュノ、ヒュノ……ねえ、返事をして。お願い。貴方まで失ったら、私はもう————」
ヨネの背後、アイリスはヒュノを抱えたまま、その横顔に呼びかけ続けていた。
ヒュノは先の一撃で腹を貫かれ、ぐったりとして倒れている。
アイリスが抱えて支えなければ、そのまま仰向けに倒れてしまうだろう。
貫くと同時に焼かれた傷口から流れる血は少量。
人肉の焼ける不快な臭いが、部屋の中に充満していた。
「アイリス様」
憔悴しきった顔のアイリスに、声をかけたのはヨネだった。
剣を構えてノウドと向き合ったまま、声だけで雇い主に呼びかける。
「一階に医務室があります。そこでヒュノの手当てを」
ノウドの復讐。
ヒュノの負傷。
アイリスの憔悴。
混迷を極めた状況において、ヨネは不思議なほど冷静だった。
自分が何をするべきか、ヨネはほとんど確信を持って剣を構える。
「ノウドは私がどうにかします」
剣を構えるヨネに対し、ノウドは軽々に距離を詰めない。
ヨネの剣技がどれだけの脅威か、一番知っているのはノウドだからだ。
アイリスは一瞬だけ使用人の背を見上げて、そのままヒュノを抱いて走り去った。
部屋の扉を蹴破るように飛び出して、一階へと階段を駆け下りていく。
「ヨネ。お前のことは友達だと思ってたんだけどな」
「私も友達だと思ってるよ、ノウドのこと」
丸縁の眼鏡を通して、ヨネはノウドを直視する。
明滅する剣を構えながら、その瞳に殺意を灯すノウド。
雷の温度変化によって小さな気流が起こり、赤毛が巻き上がって揺れていた。
「だから、私が止めなきゃ」
小さな部屋の中、二人の使用人が対峙する。
共に重ねた年月を示すように、二人の剣は対称的に構えられる。
ノウド・ユーべルトの復讐心。
ヨネ・アンダークの友愛。
互いの本音をかけた戦いが、幕を開けようとしていた。




