第二話 一袋で金貨十枚もする小麦粉を使っていたらしい
オドマリア王国。
大陸でも屈指の貴族国家であり、人々の間には強烈な階級社会が形成されている。
この時代において貴族と市民の階級差は珍しくもなかったが、オドマリアのそれは特に酷かったと後世でも評されている。
貴族主義の極まったオドマリアにおいても、とりわけ強い影響力を持つのがセイレンディス公爵家。
王族を除けば最も強い権力を持つ家であり、当主であるオルトス・セイレンディスは、オドマリア王国における宰相を務めている。
そんなセイレンディス家の長女こそが、アイリス・セイレンディス。
セイレンディス家の後継として最有力視される彼女は、屋敷の一室でティーカップを傾けていた。
伸ばす黒髪はたおやかに。
手元の号外へと落とすミッドナイトブルーの視線は、光の届かない深海を思わせる。
「どこも西部戦線の話で持ち切りね」
視線を手元から窓の外へと移しつつ、アイリスは呟く。
窓から見える街並みは遠く、行き交う人々の姿までは見えない。
「ディアナ侯爵家が掲げる能力登用主義。その試金石となる戦場ですから、注目が集まっているのでしょう。西部戦線に投入された指揮官の多くは、平民出身とのことです」
低い声で答えたのは使用人の少女。
丸縁の眼鏡をかけており、雰囲気は暗く表情も冴えない。
どんよりと曇った雨雲のように、陰気な雰囲気を放つ少女だった。
「なんか、みんな大変って言ってますよね。結構ヤバいって聞きましたよ。俺は戦況とかよく分かんないっすけど」
明るく相槌を打ったのは使用人の少年。
赤毛を短髪にした少年は袖をまくっていて、表情も明るく活気に満ちている。
雲一つ無く晴れた青空のように、陽気な空気を纏った少年だった。
「平民だろうと能力の高い者は存在する。平民を指揮官に据えた編成で西部戦線に勝てば、平民の地位向上に繋がる。能力登用主義を推し進めて、この国の階級社会を変えていける……ディアナらしい理想論ね。戦争に慣れた貴族に指揮を執らせれば、ここまで苦戦することもなかったでしょうに。お父様も人が悪い。さっさと援軍でも何でも送ってやれば良いのよ」
能力登用主義を掲げるディアナ侯爵家は、平民出身の者でも積極的に取り立て、地位と裁量を与えて活躍させている。
今回の西部戦線はその集大成とも呼べるもの。
ここで平民が中心となって戦果を上げ、オドマリア王国の貴族主義に一石を投じようとしている。
しかし、西部戦線の戦況は芳しくないとの噂だ。
オドマリアの貴族主義とも密接に関わってくるだけに、西部戦線の行く末は社交界でも注目を集めている。
「ヨネ。明日、ディアナから来訪者があるって言ってたわね」
「はい。明日の二時に屋敷まで直々にいらっしゃると。アイリス様と直接お話がしたいそうです」
「その時は、貴方もノウドも武器を持って控えておいて。お父様ではなく私に直接だなんて、何か裏がありそうな話でしょ」
ディアナ侯爵家の申し出にきな臭いものを感じ取ったアイリスは、使用人二人に指示を出す。
こういった際に使用人兼ボディガードとして使えるように、ヨネとノウドには武術を修めさせている。
「それと、ヒュノはどこ? 大した仕事はさせないように言っているはずだけど」
「買い出し行ってます。ヒュノもやりたいって言ってたし、それくらいならさせても良いかなーと思って。すんません、アイリス様の許可も取らずに」
「……別に良いわ。見つけたら私の部屋に来るよう言っておいて」
「了解っす」
アイリスはそうとだけ告げて、使用人二人を部屋の外に出す。
ミッドナイトブルーの瞳は、愛も変わらず窓の外を見つめたまま。
目を凝らせども、買い出しへ行ったと使用人の姿は見つからない。
***
二年ほど前の話だ。
目の前にあるのは崖。
断崖絶壁の眼下には、冬の海が広がっていた。
風の強い日だった。轟々と吹き荒ぶ風は痛いほどで、遠くからは海鳴りの音が聞こえる。
崖の前に座り込んだ少年は、背中から真っ白な翼を生やしていた。
――――何をしているの? こんなところで
少年の背後に立った黒髪の令嬢が、平坦な音色で声をかける。
暖かくも冷たくも無い声に少年は振り返り、金色の瞳で令嬢を見上げた。
少年の金色と令嬢のミッドナイトブルーが交差する。
令嬢は微かに眉を上げた。
足下に座り込んでいたのは、目を奪われるような美少年。
白い肌、白い髪、白い翼。純白の美貌を湛えた少年は、あどけなさを残した顔立ちで令嬢を見上げている。
――――飛ぶ練習をしようと思って……
――――飛べないの? 鳥人なんでしょう?
――――……はい。いつかは飛べるようにならなきゃって、思ってるんですけど
飛べない鳥人。
だからといってどうという話でもない。
鳥人以外のほとんどの種族は空を飛べないし、この世界はそういった飛べない者達に合わせて作られている。
一生を鳥人の集落で過ごすならまだしも、この広い世界で生きていくなら、飛べなくても特に困るということはない。
それでも、少年は飛ぼうとした。
ただ、周りのみんなにできることが自分にだけできないという現実に耐えかねて。
――――にしたって、こんな崖でしなくても良いでしょ。落ちたら死ぬわよ。もっと安全な場所で練習すれば?
――――ダメなんです、安全な場所じゃ。……地面があるから歩いてしまう。僕だって落ちたら死ぬような所に身を投げれば飛べるはず。僕にだって、飛べるはずだから……
高い高い崖。
令嬢と少年は海を眺めている。
押し寄せる波が崖を打ち据え、大きな飛沫となってまた海に還っていく。
その荒波に落ちてしまえば、少年の体など簡単に砕けてしまうのだろう。
その美貌も命も、海に呑まれて消えてしまう。
――――良いんじゃない? 飛べなくても
ふと、令嬢が言った。
ミッドナイトブルーの瞳で海を眺めたまま、足下の少年に声をかける。
その声は優しさに満ちていたわけでなく、慈愛を孕んでいたわけでもなく、ただ気紛れに糸を一本垂らすように投げ落とされる。
――――こんなにも綺麗なんだもの。どこかへ逃げていくための翼なんて無い方が良いわ
それは、貴族らしい支配欲。
あるいは、何かを重ねていたのかもしれない。
翼を持ちながら飛べない少年に、雛鳥のような弱き者に、何か理想のようなものを見出して、重ねていたのだろうか。
――――崖から身投げして死ぬくらいなら、私に雇われておきなさい。ちょうど顔の良い使用人がほしいと思っていたの。寂れた鳥人の集落よりは良い暮らしができると約束するわ
偶然集落を訪れた令嬢が、偶然起こした気紛れ。
折り重なった偶然が、少年と令嬢の出会いを紡ぐ。
――――貴方、名前は?
崖の上、令嬢が尋ねる。
――――ヒュノ……ファルカです
――――そう
少年の答えを聞いても、令嬢はにこりともせず踵を返した。
優雅な足取りで地面を歩き、崖から離れていく。
――――早く行くわよ、ヒュノ。家族に別れの挨拶をする時間くらいはあげるわ
黒髪をたなびかせて、令嬢は歩いていく。
その背中を少年は金色の瞳で見つめている。
まるで、何かに魅入られたかのように。
――――はい……
やがて少年も立って歩き出した。
寒く冷たい海には背を向けて、白い翼を畳んだまま。
彼女の背を追うように歩き出したのだ。
***
獣人と呼ばれる種族がいる。
獣の特徴が表出した種族であり、その種類は多岐に渡る。
猫の耳が生えた者、馬の蹄を持つ者、蛇の瞳孔を持つ者。
鳥の翼を持つ者は、獣人の中でもさらに鳥人というカテゴリーに区分される。
大通りを歩く少年の背にも、白い翼が生えていた。
「すいません、小麦粉が欲しいんですけど……」
少年は露店の店主に声をかける。
「チッ、獣人かよ……」
中年の店主は少年の翼を見るなり顔を顰め、ぶっきらぼうに言い捨てた。
「これ、値段は――――」
「金貨十枚」
「えっ、いや、そんな……」
「金貨十枚。払えねぇなら他当たりな。テメェなんかに売る馬鹿がいるかは知らねぇけどな」
「…………」
明らかに法外な値段をふっかける店主に、少年は言葉を失って黙り込む。
かつて、獣人は人間として扱われていなかった。
今でこそ獣人差別は問題視されているが、人々の間に差別意識は根強く残っている。
特にオドマリア王国は貴族主義も相まって、国民の差別意識改善が進まない国であった。
言葉を失う少年。
金貨十枚などという大金は出せるはずもなく、少年は諦めて去ろうとする。
「これで良いかしら」
その時、店主の前に十枚のコインが落とされた。
無造作に放られた十枚の硬貨は、その金色を煌めかせながら露店に転がる。
驚いた少年は振り返って、背後の令嬢を見上げた。
「アイリス様……」
なびく黒髪とミッドナイトブルーの瞳。
アイリス・セイレンディスが、店主の前に十枚の金貨を落としていた。
「買い出しにこんな店は含まれていないでしょ、ヒュノ。こんな所で何をしているの?」
「えっと……パンケーキ、作ろうと思ったんです。アイリス様の好物だと聞いたので……」
アイリスに訊かれ、ヒュノは言葉を詰まらせながら答える。
アイリスを喜ばせようと、隠れてパンケーキを作ろうとしていたヒュノだったが、意外な所で計画が露見してしまった。
「ヒュノ、貴方は何もしなくて良い。変なことはもう考えないで。……小麦粉、もらってくわよ。金貨十枚もするんだから、相当良い品なんでしょうね」
「いや、その、金貨十枚というのは――――」
「貴方が言った値段でしょう。それとも、タダにしてくれるとでも言うの?」
「い、いえっ……」
「そう。それじゃあ、もらってくわね」
アイリスは小麦粉の入った袋をいくつか抱え、ヒュノを連れて歩いていく。
右腕には小麦粉を、左手は真っ白な使用人の側に、けれどその手を握ることはなく。
大通りをゆっくりと歩いていく。
ヒュノ・ファルカ(17)
本作の主人公の一人。超絶美少年です。




