第三話 使用人の少年を手籠めにしていたらしい
「ヒュノ」
ベッドの上で彼の名前を呼ぶ。
彼から答えが返って来るより早く、私は彼の首筋に噛みついた。
甘い、ような気がする。
「アイリス様、少し……痛いです……」
「痛くしてるのよ」
首筋から口を離して、私は彼を見下ろす。
ベッドの上、私に押し倒されたヒュノは、仰向けに寝転がっている。
第二ボタンまで外された服。鎖骨と胸元が僅かに覗く。
背中から伸びる二枚の白い羽が、ベッドの上に広がっている。
綺麗な金色の瞳が、不思議そうに私を見上げていた。
理性のネジが一つ緩む。
「ヒュノ、こっちに」
「……はい」
私は彼の背に腕を回し、そのまま引き寄せる。
仰向けの彼を抱き起こし、私はベッドの背もたれに背中をつけた。
私よりも少し小さい体を抱きしめて、強く胸へと引き寄せる。
強く、強く、抱きしめる。
このまま力を込め続ければ、ヒュノの体が壊れてしまうのではないかと錯覚するほどに。
「ヒュノ」
ゆっくりと不安が溶けていく感じがする。
こうして、ヒュノの体に触れている時だけ、私は心から安心できているような気がする。
いつも後ろから追ってくる暗闇が、今だけは足を止めてくれる。
私の敗北を待つ観衆が今だけは目を閉じて、私の悲鳴を待つ聴衆が今だけは耳を塞いで。
ここには、私とヒュノしかいないと思わせてくれる。
「ヒュノ」
そうして、私は再び彼の首筋に歯を立てた。
やっぱり、甘い気がする。
***
ヒュノ・ファルカの一日はベッドの上から始まる。
それが自室のベッドかアイリスのベッドかは、昨夜のアイリスの気分次第ではあるのだが。
ベッドから出たヒュノは使用人共用の更衣室に向かい、朝の身支度を整える。
身支度といっても、着替えて寝癖を直す程度。その程度で十分様になってしまうのだから、元の素材というのは恐ろしい。
ヒュノが更衣室から廊下に出ると、一足先に起きて支度を済ませたらしいノウドとヨネに出くわした。
「よっ、ヒュノ。今日はちっと遅かったな」
「……もう少し早く起きたら?」
気さくに声をかけるノウドと不愛想に目を背けながら言うヨネ。
朝の挨拶だけでも、二人の正反対な性格がよく現れている。
「ごめん。ちょっと遅くなっちゃって」
「良いって良いって。昨日もアイリス様に呼び出されてたんだろ? 寝坊ってほどでもねーしさ」
「……別に、責めてるわけじゃないけど」
合流した三人は並んで廊下を歩いていく。
アイリスの暮らす屋敷にはかなりの使用人がいるが、彼ら三人の主な仕事はアイリスの身の回りの世話と身辺警護。
朝は比較的仕事が少ない。
そもそも、三人とも正式な使用人というよりは、アイリスが拾ってきた護衛としての側面が強い。
ヒュノに至っては護衛ではなく、愛玩動物に近いかもしれないが。
「つかよ、ヒュノ。聞いたか? 今日ディアナ侯爵家の人が来るって話」
「ディアナ家って、セイレンディス家とは仲が悪かったはずじゃ……」
「そーそー。それがアイリス様に会いたいんだとよ。なんか変だよなー。アイリス様も武器持って待機しとけって言ってさ。結構ピリついてんだよ」
ディアナ侯爵家からの来訪者。
貴族同士での面会は珍しいことではないが、セイレンディスとディアナとなれば話は変わってくる。
セイレンディス家がオドマリア王国らしい貴族主義の家であるのに対し、ディアナ家は能力登用主義を掲げた平民思想の家。
水と油とまではいかずとも、派閥としては対極に位置している。
しかも、アイリス・セイレンディスは貴族主義の権化のような令嬢だ。
アイリス本人が警戒を強めるのも頷ける。
「確かに……アイリス様、ストレス溜まってそうだったかも」
ヒュノも昨夜のアイリスを思い出して頷く。
度々アイリスの自室へと呼び出されているヒュノだが、昨晩の彼女はやけに理性のタガが外れているようだった。
「オルトス様も能力登用主義には理解を示してる。ウィゼルトンとの同盟もあるし、ディアナとセイレンディスがいつまでも敵同士ってわけでもない。アイリス様は少し警戒し過ぎだと思う」
ヨネの推察も筋は通っている。
オドマリア王国最大の同盟国は、三大国家の一つにも数えられるウィゼルトン公国だ。
魔術大国であるウィゼルトンでは、オドマリアとは違い魔術が市民階級にも開放されている。
オドマリアでは未だに貴族が魔術を独占しているが、魔術を市民にも開放すべきだという運動が国内外で広がっているのだ。
セイレンディス家とて、貴族主義に固執しなくても良い。
ディアナ家との距離が近まったとしても、不思議は無いだろうというのがヨネの言だ。
「アイリス様は怖がりだから……」
ヒュノは簡単な答えを返す。
国同士のパワーバランスを踏まえて推察したヨネとは裏腹に、ヒュノの答えはシンプルにアイリスの性格に言及したもの。
「怖がり? アイリス様が?」
「そうは見えないけど……」
ヒュノの言葉にヨネとノウドは首を傾げる。
アイリス・セイレンディスといえば、悪辣で傍若無人を絵に描いたような貴族。
悪い意味で貴族主義の頂点に近しい場所にいる彼女が、何かを恐れるというのは想像しにくかった。
「ええっ、違うかな……?」
否定的な二人の態度に、ヒュノも自信を無くす。
それはヒュノだけが理解しているアイリスの一面であったのかもしれない。
ある意味で、ヒュノは最もアイリスに近い場所にいる人物なのだから。
他愛も無い雑談をしながらも、三人は廊下を歩いていく。
セイレンディス家の屋敷は広い。
これが本邸ではなく、アイリス個人に与えられた別邸だというのが信じられないほどだ。
屋敷が広ければ廊下も長い。
三人は長い廊下をゆっくりと歩いていく。
「なあ、ヒュノ」
ふと、ノウドが足を止めた。
赤毛の少年は真っすぐな瞳で白い鳥人を見つめている。
「お前、その……大丈夫か? いつも呼び出されてるけど、アイリス様に酷いことされてないか? いや、酷いことっつーか、寝室に呼び出されてんだから、そりゃ、アレなんだろうけど……」
ノウドは不器用な言葉を紡ぐ。
拙い語彙を振り絞って、下手くそな台詞を並べ立てて、どうにか言の葉を紡いでいく。
「なんか、辛いこととかあったら言えよ。俺じゃ何もできねーかもだけど……力になりたいって気持ちだけはあるからさ」
アイリスの残虐性と悪辣さは誰もが知る所だ。
歯向かってきた者は、誰であろうと徹底的に追い詰めて叩きのめす。
欲しいと決めたものは何が何でも手に入れ、自らの手中に収める。
高慢で我儘で悪辣で、しかし、それが罷り通るほどに優れた才能と地位を持っている。
そんな彼女に連日寝室へ連れ込まれるヒュノを、ノウドが心配したのはある意味当然とも言える。
「ありがとう。でも、大丈夫だよ。……アイリス様ってみんなが思うほど酷い人じゃないから」
そんなノウドにヒュノは笑って返答する。
それが主人を立てた建前なのか、ヒュノの偽らない本心なのか。
傍目には判別がつかない。
だが、アイリスの人となりを知る者ならば、前者の可能性を高く見積もるだろう。
ノウドもその例に漏れない。
「そっか。あんま一人で抱えんなよ。俺で良けりゃいつでも相談乗るから」
白い翼を畳んだ少年に、ノウドはそう返すことしかできなかった。
ノウドの下手な作り笑いに、ヒュノは気付いただろうか。
ノウド・ユーベルト(18)
ヨネ・アンダーク(18)
使用人コンビ。陰キャと陽キャです。




