第222話 帰郷・報答①
おしゃれコーデバトルのハッシュタグを投稿してから数日。
廃校の建設ができるまで有給休暇をもらった。
夜見ライナこと夜見治――まあつまり私は、髪を魔法で黒く染めた青年時代の姿で、九州の最南端、鹿児島の漁師町を訪れていた。
ここが夜見治の故郷だ。
「懐かしいなぁ……」
遠井上家の運転手さんにリムジンのドアを開けてもらい、
山頂から麓の漁港に向かって伸びる、古寂れたコンクリの道路に足をつける。
近くの曲がり角ミラーにはスーツ姿の美青年。自分だ。
上から見下ろした故郷は、磯臭さと田舎特有の昭和の匂いに溢れていた。
ああ、少年時代を思い出すさざ波の音も聞こえる。
ダント氏は迷う様子もなくここにたどり着いた私を、不思議そうな顔で見つめた。
「夜見さん、幼少期の記憶がなかったんじゃないモル?」
「私も嘘の一つや二つくらい付きますよ」
「超人のように見えてた夜見さんが普通の人間だと思えるようになったモル」
「あはは、今日は夜見治ですからね。人間モードです」
などといつも通りの冗談を交える。
今日の用事は両親に会うこと。
そして、心残りを解決する。
母親には恨みを。
父親には恩を返す。
夜見家はもともと東京生まれだったが、
母親が変な宗教にハマったせいでそこにいられなくなり、
父は会社をやめ、
何度も引っ越しを重ね、
最終的に母方の遠い親戚のつてで、この漁港の漁師になったのだ。
それでも父親が母を見捨てられなかったのは、
彼が情に厚い男だからであり、
いつか元に戻ってくれる、パッと飽きて辞めると信じているから。
惚れた弱みだし、父が普通に優秀で、わりとどこでもやっていけるバイタリティを持った人間だったせいでもある。
しかしこの世には残酷なほど恐ろしい。
漁師への転職を進めてくれた遠い親戚こそ、母を宗教にはめた人間だった。
優しくて甘い父親を、
都合の良い労働力として利用するために東京から田舎に引き込んだのだ。
私は今日、その悪意の縁を完全に断ち切りにきた。
「じゃあダントさんここで」
ダント氏に車に戻るよう指差しジェスチャーをする。
彼はこてんと首を傾げた。
「何でモル?」
「いや、ダントさんとはビジパ、
ビジネスのみの関係ですし、ここからは完全に私情になりますので――」
「僕も最後までちゃんと見届けるモル。夜見さんの相棒だと証明したいモル」
「そ、そうですか? じゃあ、まあ、危ないと感じたら逃げてくださいね」
「分かったモル」
「行きますよ」
肩にモルモットを乗せ、思い出どおりの坂道を下り、
中腹にある一軒の小さな家――実家に来た夜見はインターホンを押した。
少しするとやけに派手な服を着込み、毛先が傷んだ金髪染めの老婆、
実母の夜見春子が出てきた。
私は作り笑いで手を振る。
「や。母さん」
「お、治……? 絶縁したんじゃ……」
「そんな御託はいいよね。最後の仕送り。金を渡しに来たよ」
「あ、ああ、急に来たかと思えば、仕送りの話かい。別に困っちゃいないし、私を見捨てたバカ息子なんかに頼る気なんて……」
「ここに一億ある」
「はえっ!?」
ダント氏から札束の詰まったアタッシュケースを受け取り、
開いて母に見せつけた。
薄暗かった母の瞳がカッと見開かれ、ぎらぎらし始める。
「これ恩返し。あげるからさ、いますぐ父さんをここに呼んできてよ」
「へへっ、ほ、本当かい? あんたはいい子だ治、ちょっと待っててな」
夜見はクズの守銭奴め、と内心でつばを吐き捨てた。
「あんた! 治が帰ってきたよ!」
『何? 本当か!?』
しわがれた父の声だ。
よっこら、と言いながら廊下に腰の曲がった初老の男性が姿を見せる。
案の定、痛めた腰の治療を受けていない。
母は父に投資するくらいなら、
自分のケチな承認欲求を満たせる他人のツケの支払いや、衣服費に回す。
恩恵を受ける他人から見れば豪胆、家族視点で見れば金遣いの荒いただのクズだ。
父も強がりで、
罪悪感に負けたクズの返金や、救いの手を断ってしまうので、
母とその親族に上手く食い物にされている。
父が漁業で稼いだ金は、漁業を勧めた母の親族が経営する居酒屋と、
そこで行われるツケ代行ビジネス――
実質的なヤミの金貸し業で雪だるま式に膨らんでいるのだ。
しかし母たちはそこで稼いだ金を一銭たりとも父や私にわたすことはなかった。
大学に行く金も、父がこっそり貯めていたへそくりで賄ってくれた。
母はそれを無意味と言い、事あるたびに勉強を邪魔して、私を漁師にしたがった。
だから私は母が大嫌いだ。
ここで報いを受けさせる。
「久しぶりだね、父さん」
「……おお、治か」
年老いた父はご機嫌に振る舞う母親に支えられながら、
一歩一歩、歩くだけでも痛そうにしている。
それでも玄関までやってきて私の顔を見て、ほおっと顔が明るくなった。
急にちょっとだけ見栄を張るように、母親に支えをやめさせて、背筋を伸ばす。
「生きていたのか。元気そうだな」
「俺もいつも通りの父さんが見れて良かったよ。来てよかった」
「あまり驚けなくてすまん。妻から急にお前が絶縁しに来たと聞いて、ぎっくり腰が悪化してから、自分の感情がよく分からなくなってしまって」
「感情の整理が追いついてないだけだよ。今日はね、父さんを都会の病院に連れて行こうと思ってここに来たんだ。生先はまだ長いんだし、悪化する前に治しといた方が節約できるだろ?」
「父さんを東京の病院に。たまげた……」
父親は驚いたような顔で私を見て、隣の母親の顔色をうかがった。
「……春子。治が名医に合わせてくれるんだそうだ。行ってもいいか?」
「フッ、はあ? なんで私に聞くんだい?」
しかし目先の一億円に目がくらんで状況を理解していない、
いやそもそも他人や息子の生死などどうでもいい母は、
いつも父をだまくらかしている愛嬌のいい笑顔を浮かべながらこう言った。
「私の管理してない金で行くなら別に文句はないよ? 治の金だろう?」
「そうか、なら、行くか」
身内を名乗るクズどもに騙され続けていた父はハッとした。
この緩やかにしぼり殺されていく地獄から抜け出せると気づいたのだ。
父は東京に住んでいた頃の野心に満ちた目を取り戻した。
そして目の前の息子――私の顔を見て、左手で握手を求めてきた。
父は左利きなのだ。
「治、俺は死ぬまで働きたい。長生きしたい。いい病院に連れて行ってくれ」
「うん。行こう父さん。車まで案内するよ」
父を支えて後ろを向くと、
遠井上家の運転手さんがタクシーを用意して待ってくれていた。
さすがは華族に仕える運転手。配慮の鬼だ。
手を上げると、運転手さんは胸元の無線で誰かに指示を出し、すぐに別の黒い車がきて、そこから数名の黒人黒服ボディーガードが現れた。
彼らに父の身柄を預け、さらに一億円の入ったアタッシュケースを持ってもらう。
……復讐の準備が整った。
「じゃ、母さん」
「なんだい治? ああ仕送りだったね!」
「金はここに捨てていくよ。好きに拾って」
夜見はボディーガードに指示を出し、札束の詰まったアタッシュケースを開け、その場でひっくり返させた。
ぼとぼとと落ちる大量の札束。
母は目をぎょっとさせ、プライドを傷つけられたのか急に怒り狂う。
「おおッ、何してるんだお前このバカ息子ッ! お金は天下の周りものッ! いつからそんなッ、下品な子に!」
「あと一時間もしないうちに雨が降る。拾うか諦めるかせいぜい悩んでよ」
「この親不孝ものッ! 親を大事にしない子供にはバチが当たる! 人を大事にしない人間にはバチが当たるんだよ! お前は悪い子だ治ッ!」
「ふーんじゃあこの仕送りは返してもらってもいい?」
「……っ!? いや、そこまでは、こ、このままで」
「でもバチが当たるのは嫌だからなぁ。受け取ってくれないなら拾って帰るよ」
私は空になったアタッシュケースを受け取り、ゆっくりと、とてもゆっくりと。
相手の顔をじっと見つめながら、
地面に落ちた札束を拾い、空のケースに戻していく。
「これ一束で百万くらいあるけど、ひとつ減ったところでどうってことないよね。まだ九千九百万円もあるんだし」
「クッ、ぐぐぎぎ……!」
一束、一束減らすたびに母は身悶え、苦悩と苦悶の表情を浮かべ。
発狂寸前のような形相で白い泡を漏らし、すぐにプライドがへし折れた。
地面に撒き散らされた札束に向かって飛び込み、
がしゃがしゃとかき集めだしたのだ。
「や、やめろッ! あたしの金だ! あたしだけのッ!」
「でもいらないんでしょ?」
「いる! いるから! 拾う! だから拾った分も返してッ!」
「ホント? じゃあこの書類にサインしてくれたら返すよ」
私は母親に、父との離婚届と財産分与権を放棄する旨を書いた書類を見せつける。
「はえ?」
「もう母さん、よく考えなよ」
急にほうけた相手を見て、私は仕方ないなと浅知恵を授けてあげた。
「父さんとつながりを持ったままだとお金を自由に使えないだろ? 食費とか電気代とか余計にかかるし、なにより病院の請求が母さんに行くかもしれない」
「あ、え?」
「節税も考えなきゃいけないだろ?」
「あ、ああ~! なら仕方ないね! 国に税金を取られるのは良くない!」
金に狂った母は満面の笑みで書類にサインをした。
ついでに「父さんが急に無心するかもしれないから」と、父と母の接近禁止命令を書いた同意書など、離婚後の生活に必要なすべての書類を揃えた。
自分のためになるならと喜んでサインをする様子を見て、愚母だなと思う。
……怒りを通り越して哀れみを感じてきた。
犯罪まがいのビジネスで稼いだ金を親戚に預けても、献金に使われるだけなのに。
あなたの努力が水の泡で終わる原因がそこにあるのに。
……いや、もう、考えるのはやめよう。
彼女とその親族はここで見捨てなければならない。
父が普通の人生を取り戻すためには、まず彼女と縁を切らなきゃいけないのだ。
「じゃあお元気で。母さん」
「ぐへへへ……お金、大金だぁ、また手に入ったぁ、治を生んで良かったぁ」
「……」
私は地面に撒かれた大金の上で泳ぎ狂っている、母を名乗る他人から目を背けた。
ボディーガードに支えられたまま様子をうかがっていた父は、愛情より金を選んだ妻の本性に軽蔑の表情を浮かべ、そして今にも泣き出しそうな息子に近づき、その寂しい肩を優しく抱き寄せた。
「迷惑かけたな、治」
「……ううん。いいよ。父さんを助けられて良かった」
「ありがとうな。東京行ったら、すぐに腰治して、一緒に焼き肉食って酒飲もうな」
「うん……ぐすっ」
「もうここに残るのは止めよう。車の中で話をしよう。あんな女に愛情を向けていた自分に反吐がでそうだ」
「うん、そうだね。行こう」
私たちは母を見捨て、ボディーガードに守られながらタクシーに乗り込む。
後部座席に乗ると、私も父もこころにぽっかり穴が空いてしまった。
お通夜モードのままタクシーが出発する。
なので私は、どれだけ相手を見限ろうとも情が残ってしまうというよね、
と身内あるある話を持ちかけて気晴らしに笑わせようとし、
次はそうならないようにしたいな、と悔し泣きしてしまう父に、
そうだねと、泣きはらした顔で笑顔を浮かべた。
とたんに外は大雨。豪雨。
さめざめとした空気。
数時間ほどして落ち着き、ようやく空が晴れると、父は心配そうに尋ねてくる。
「……治。たぶん、あいつらは自活できない。お前に無心しに来るぞ。どうする?」
「どこまで行っても育ててくれた恩は返すよ」
「治、その恩は父さんに全部向けてくれ。父さんは俺の家族になってくれた恩をお前に向ける。あの家族に情が移らないように、もう関わらないようにしよう」
「うん。だね」
苦しい苦しい地獄から命からがら這い出て、やっと普通の世界が見えた気がして、お互いに心から笑えた。




