第118話 「“重なる夜”と、消えない現実」
■風呂上がりの余韻
浴室の扉が開く音は、夜の静けさの中ではやけに鮮明だった。
湯気がふわりと廊下へ流れ出て、空気の輪郭を一瞬だけ曖昧にする。
その中を、二人の足音だけが静かに進んでいく。
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リビングを通り抜けるとき、そこにはもう生活の音はほとんど残っていない。
電気は最小限。
テレビもついていない。
ただ、時間だけが置き去りにされているような空間。
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そして、別の部屋には確かな“存在”がある。
三つ子――颯、桜、桃佳。
その小さな寝息が、薄い壁越しにかすかに届く。
規則的で、安心したリズム。
それはこの家の「今」を、かろうじて現実に繋ぎ止めていた。
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■寝室の灯り
寝室の照明は柔らかく落とされている。
カーテンの隙間からは、夜の濃さがじわりと滲んでいる。
外の世界はもう、完全にこちらと切り離されていた。
その中で、斉藤ももは何も言わずベッドの端に座る。
髪はまだ少し湿っている。
風呂上がり特有の、熱と静けさが混ざった空気。
その姿はあまりにも自然で、
まるでこの場所が最初から“彼女の定位置”だったかのように見える。
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颯太は少し離れた場所に立ったまま、その光景を見ている。
(ほんまに……違和感、薄れてきたな)
最初は戸惑いだった。
次は理解だった。
そして今はもう、「そういうもの」として認識している。
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■呼びかけ
沈黙の中で、ももがふと口を開く。
「来ないの?」
その声は、風呂上がりの熱を少しだけ残している。
短い一言。
しかし、距離を詰めるには十分すぎる言葉だった。
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■距離の変化
颯太は一度だけ息を吐くと、ゆっくり歩き出す。
床のきしみはほとんどない。
その分、心の動きだけが妙に目立つ。
ベッドの横に座ると、空気がわずかに変わる。
“隣にいる”という事実が、ようやく形になる。
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(もう、迷う段階じゃないんやろな)
そう思いながらも、それを言葉にはしない。
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■重なる瞬間
ももが先に動く。
手が伸びる。
頬に触れる。
そのまま、迷いのない距離で唇が重なる。
静かなキスだった。
派手さはない。
音もほとんどない。
ただ“確認”のような、でも確かに感情を含んだ接触。
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湯気の残る空気の中で、それはやけに現実的だった。
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唇が離れたあと、ももは少しだけ視線を落とす。
「今日さ」
ぽつりと、思い出を拾うように言う。
「ずっと一緒だったね」
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■一日の連続
その言葉に、颯太はすぐには返さない。
朝の光。
三つ子の声。
大学のざわめき。
夕方の帰り道。
そして今、この夜。
一本の線でつながった一日。
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「……朝からずっとやな」
ようやく出た言葉は、それ以上でも以下でもない。
ただの事実。
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ももは小さく笑う。
「全部覚えてる?」
少し冗談のようで、少し本気のようでもある問い。
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颯太は苦笑する。
「忘れる方が無理やろ」
その言葉には、重さはない。
けれど軽くもない。
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■変わる空気
その瞬間、ももはふと視線を逸らす。
そしてゆっくりと、枕元の眼鏡に手を伸ばす。
カチ、と小さな音。
それをかけた瞬間、空気の質が変わる。
そこにいるのは、もう一方の存在。
桜井桃華。
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■切り替わる“私”
「……今日はね」
声のトーンが少しだけ変わる。
柔らかいのに、どこか整えられた響き。
「ちゃんと“私”でもいたいなって思って」
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その言葉は、少しだけ勇気を含んでいた。
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颯太はすぐに頷く。
「どっちもおるやろ」
それは説明ではない。
確認でもない。
ただの受け止め。
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桃華は少しだけ目を細める。
「そうだけど……」
言葉が一度途切れる。
「ちゃんと見てほしいなって」
その一言だけは、少しだけ素直だった。
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■答え
颯太は迷わない。
「見てるって」
短い。
だが、余計なものが一切ない言葉。
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沈黙が一瞬だけ落ちる。
そして、その沈黙を破るように桃華が近づく。
今度のキスは、さっきより少し軽い。
触れる時間も短い。
けれど、その分だけ“今の彼女”がはっきりとそこにいる。
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■夜の続き
部屋の外では、何も変わっていない。
世界は回り続けている。
時間は等しく進んでいる。
けれどこの部屋の中では、別の時間が流れている。
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二つの顔を持つ一人の人間。
それを当然のように受け止める颯太。
そして、その間に生まれる静かな重なり。
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それは特別な出来事ではなくなっている。
ドラマでもない。
事件でもない。
ただの“夜の一部”。
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ベッドの上で、時間が少しだけ柔らかくなる。
そしてそのまま、夜は静かに深く沈んでいく。
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