第108話 「“ふたりのもも”と、選ばない答え」
■完全に静まった世界
大学の空気は、完全に落ち着いていた。
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あれほど繰り返された視線も、
噂話も、探るような沈黙も… 今はもう、ほとんど感じない。
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“何もなかったことになった”わけではない。
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だが、“日常として処理された”。
水上颯太はその変化を、確かに感じていた。
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歩く廊下。
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すれ違う学生。
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もう誰も立ち止まらない。
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(……終わったな)
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小さく、そう思う。
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そして同時に――
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(ここからは、外じゃなく内側の話だ)
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■夜・帰宅
家の明かりは柔らかい。
子供たちは眠っている。
リビングには静けさが満ちていた。
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その中で、桃華が待っていた。
眼鏡をかけたままの姿。いつもの“桜井桃華”。
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「おかえり」
「ただいま」
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短い言葉だけで、空気が整う。
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■風呂場の時間
その後―― 二人は並んで浴室へ向かう。
湯気の立つ空間。静かな水音。
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髪を乾かす時間。
鏡の前で、ドライヤーの音だけが響く。
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その時だけ、桃華は“完全に桃華”だった。
手を動かしながら、軽く笑う。
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「今日さ、ほんと静かだったね」
「だな」
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何気ない会話。
それだけで十分だった。
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■境界の切り替え
髪を乾かし終えたあと。リビングへ戻る。
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空気が少し変わる。
桃華が、ゆっくりと眼鏡を外す。
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その瞬間。
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“斉藤もも”の気配が重なる。
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同じ人物なのに、空気だけが変わる。
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■ベッドの時間
寝室。
照明は落とされ、柔らかい暗さ。
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颯太はベッドに座る。
その隣に、桃華が来る。
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そして――
もう一人の“もも”のように見える存在が、そこに重なる。
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完全に別人ではない。
ただ、“見せ方”が違うだけ。
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■交わる距離
ももとしての桃華が、軽く颯太に寄る。
そして、自然に唇を重ねる。
少し長く、深い時間。
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そのあと、
桃華としての彼女が、眼鏡をかけ直し、
少しだけ柔らかい形で、もう一度キスをする。
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どちらも同じ人間。だが、温度が違う。
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■ふたりの問い
少しだけ離れたあと。
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桃華が小さく笑う。
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「ねえ」
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「どっちの“もも”が好き?」
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静かな声。
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冗談のようで、冗談ではない。
颯太は一瞬だけ止まる。
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「……両方」
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即答だった。
迷いはなかった。
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■理由のない確信
どちらかを選ぶ必要はない。
どちらも“同じ人”。
ただ、役割と表情が違うだけ。
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■桃華の反応
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少しだけ目を細める。
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そして、笑う。
「ずるい答えだね」
でも、その声は柔らかい。
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■締め
ベッドの中。静けさの中で、二人は並んでいる。
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“斉藤もも”としての彼女も、
“桜井桃華”としての彼女も… 同じ場所にいる。
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そして颯太は、それを否定しない。
どちらも選ばない… どちらも受け入れる。
それが、この関係の答えだった。
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