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第90話 「“境界の消失後”と、静かに進む日常」


■朝・完全に混ざった日常


朝の光は、昨日と同じ角度で部屋に落ちている。


それなのに、同じ朝だとは思えないほど“重なり方”が変わっていた。


キッチンでは味噌汁の湯気が立ち、

リビングでは子供たちの声が跳ねている。


その全部の中心に、桜井桃華がいる。


エプロン姿。


眼鏡。


落ち着いた手つき。


でも、その一枚奥には確かに“斉藤もも”として過ごした時間の気配が沈んでいる。


消えていない。


分かれてもいない。


ただ、重なっている。


⸻


■颯太の認識の変化


水上颯太はコーヒーを淹れながら、少しだけ考える。


(もう、切り替えちゃうもんちゃうな)


(入れ替わりでもない)


カップを持つ手が止まる。


(重なってるだけや)


昨日までなら、ここで整理しようとしていた。


「これは家庭」

「これは仕事」

「これは別の顔」


そうやって分けることで安心しようとしていた。


でも今は違う。


分ける必要がなくなっている。


むしろ、分ける方が不自然になっている。


⸻


■リビングの声


「ぱぱー!これとって!」


「自分で行けるやろ」


「いけへん!」


「いけるって」


「いけない!」


桜がすかさず間に入る。


「朝からうるさい」


桃佳はパンをかじりながら笑う。


「でも楽しそう」


桃華はそのやり取りを見ながら、小さく息を吐く。


(これが“普通”なんだろうな)


昔考えていた“普通”とは違う。


でも今は、それを否定する気はない。


⸻


■桃華の視線


テーブルの端で、桃華はスマホを見ている。


画面にはまだ残る名前。


“斉藤もも”。


SNSの通知は止まらない。


「今日も出てる」

「まだ話題続いてる」

「もう一つの現象になってる」


そんな言葉が並んでいる。


桃華は画面を閉じかけて、少しだけ笑う。


「……まだ“終わらないんだね”これ」


その声は軽いようで、どこか遠い。


⸻


■颯太の返し


「終わるもんちゃうやろ」


コーヒーを飲みながら、颯太は言う。


桃華が顔を上げる。


「え?」


「“話題”っていうより、“状態”になってる」


「状態……」


「そういうもんは、終わらへん」


淡々とした言葉。


でもそこには否定も肯定もない。


ただの認識だった。


⸻


■窓の外


外では普通の朝が進んでいる。


会社へ向かう人。

学生の集団。

コンビニの開店音。


誰もこの家の中を知らない。


誰もこの“重なり”を見ていない。


それでも世界は普通に続いている。


そのことが、逆に奇妙な安心を生んでいた。


⸻


■桃華の言葉


「ねえ」


桃華がぽつりと言う。


「もうさ」


一瞬間を置く。


「分けるの、やめてもいい気がしてきた」


颯太はすぐに返さない。


少しだけ考える。


そして言う。


「それでええんちゃう」


あっさりした肯定。


でもそれは軽い同意ではない。


“もう戻らない”という確認に近い。


⸻


■“努力の終わり”


桃華は少しだけ視線を落とす。


(分けようとしてたんだよね)


(ずっと)


桜井桃華としての自分。

斉藤ももとしての自分。


どちらも守ろうとして、どちらも壊さないようにして。


でも今は違う。


壊さないために分ける必要がなくなった。


むしろ、分けることの方が危うい。


⸻


■静かな接近


桃華が立ち上がる。


椅子の音が小さく鳴る。


何の合図もないまま、一歩だけ距離を詰める。


颯太は気づいているのに、止めない。


そのまま自然に、唇が触れる。


短い。


でも“確認”としては十分すぎるほどの温度。


(今日もいる)

(今日も続いてる)


言葉にしない合意。


⸻


■余韻


唇が離れる。


桃華は少しだけ笑う。


「これ、もう癖だね」


颯太はコーヒーを置く。


「ええやん、癖でも」


「止める理由もないし」


その返しに、桃華も肩の力を抜く。


⸻


■子供たちの騒ぎ


「なにしてたん?」


颯がすぐに聞く。


「なにもしてない」


颯太は即答する。


「うそー」


桜がじっと見ている。


「さっきしてた」


桃佳が真似する。


「ちゅーしてた」


桃華は吹き出す。


「見すぎでしょ」


颯太も笑う。


「観察力だけ育ってるな」


リビングに笑いが広がる。


その空気だけは、完全に“家”だった。


⸻


■朝の再構築


朝食が整う。


パンの匂い。

味噌汁の湯気。

コップの音。


その中で桃華がぽつりと言う。


「普通ってさ」


少しだけ間。


「続いてることだね」


颯太は短く答える。


「それでええやろ」


否定も肯定もない。


ただの受け入れ。


⸻


■締め


外と内の境界はもう曖昧だ。


ももは外にいる。

桃華はここにいる。

でもそのどちらも、同じ延長線上にある。


分ける必要が消えた世界。


混ざることで成立する日常。


そしてその中心で、

この家は今日も何事もなかったように続いていく。   



最後まで読んでくださり、ありがとうございます!

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