チャンスを掴む準備
週明け、俺は新たな決意と共に昇降口を進む。
来週までに佐倉さんをデートに誘う。ここまで強い決心を抱いたのは痩せると心に決めた時以来だ。随分と最近だな。でも、変わる。自分を変えるとはそういうことだと思う。
昨日の夜、モデルとしての撮影を終えて帰ってきた雪夜は俺の部屋の扉を開くと開口一番に。
「来週デート行ってきて」
読んでいた本を閉じて雪夜の前に立つ。何を言っているのか理解できない。
「えっと……デート? 佐倉さんと? 出かけるという目標は確かにあるけど」
「デートのつもりで行かないでどうするの?」
「それは……そうなんだが」
気持ちが大事なのはわかる。人間、頭で考えるだけで行動するにも限度がある。非合理な生き物だ。気持ちにあっさり振り回される。でも。
俺の煮え切らない態度に雪夜は目をスッと細め、その手が獲物を狙う猛禽類の如く動く。
「ぐえっ」
顎を掴まれグイっと引っ張られる。息もかかるような距離で大きな瞳が真っ直ぐに注がれる。
「告白するくらいの覚悟を持って行かないと……チャンスはね、掴む準備ができてて初めて掴めるものなんだから!」
浴びせられる声には、焦燥すら感じられた。雪夜が如何に本気で俺の相談に応えているか、俺は見誤っていた。ここまでとは思っていなかった。
本気なのは疑っていなかった。でも、ここまでとは思っていなかった。
「あっ……」
慌てたような声と共に掴まれていた顎が解放される。小さく後退る雪夜はどこか気まずそうに目を伏せていて。気がついたら俺は頭を下げていた。
「ごめん。雪夜」
「きゅ、急に何?」
「俺が甘かった。ここまで助けてもらっておいて及び腰なんて、そりゃ雪夜も怒るよな」
「怒ってなんかない……違う。怒ってない」
「俺、ちゃんとやる。雪夜がここまで本気なのに、俺が中途半端なんて、ダメだよな」
腹は決まった。
雪夜に良い報告をしよう。
フラれたらそうだな……いや、失敗した時のことを今考えるな。ベストを尽くすことだけを考えよう。
本気で考えろ。目標を設定し、そこまでの道筋を考える。いつもやってきたことだ。
「……よし!」
気合いを入れ直して教室に足を向けた。
「はぁ」
雨音雪夜が今日ため息を吐いた数は何回だろう。胸がざわつく。どれだけ深く息を吐いてもざわつきの素は出て行ってくれない。
窓の外を眺めていた目を正面に戻す。誰かが正面に立った気配がしたから。
「雪夜ちゃん、今日はいつになく暗いね。レシピ研究も捗ってないみたいだし。んん? 今回も痩せそうで身体に良さそうな料理だね。美味しそう。で、どうしたの? なんでため息?」
「別に」
「って言う時は絶対悩んでる。半年も一緒にいたらわかるよ」
「半年か……半年……。ねぇ愛季、半年ってやっぱり長い?」
まだ短い人生の中で一番の友達を紹介しろと言われたら多分連れて行くだろうなと思っている子はきょとんと首を傾げる。
「んー。長いと言えば長い。何かが変わるには十分な時間かな」
「むぅ、だよね」
「ふーん。そっかそっか雪夜ちゃんかーわいっ」
何かを察したようでニヤニヤ笑う友人を恨みがましく見上げても、ニコニコとどこ吹く風で流される。
「何がわかったのさ愛季はさ」
「雪夜ちゃんが可愛いことかな」
「はぁ……」
「あー! くだらないって顔した!」
「他にどんな反応返して欲しいというのよ」
「照れるとかさ」
「照れさせるには言葉の値下がりが激しいと思う」
「んなっ」
「需要と供給。供給過多なら価値が落ちる。基本じゃん?」
「きゅ、急に難しいこと言わないで、頭がボンってなる」
「勉強しようね」
丁度手元にあった教科書をスーッと差し出すとスススっと後退る。
「教えてあげるから、さ?」
立ち上がって追いかけると、「ギャー」なんて叫びながら愛季は。
「えぇ、なんで抱き着いてくるの?」
「逃げると思ったか! ふっふっふっ、責任もってあたしが夏休みに補習で呼び出されないようにしてね?」
「はいはい」
夏休み、夏休みか……。
「あ、また遠い目してる。話してみてよ、聞くことしかできないかもだけど、話すだけで楽になるものだよ」
「……ううん。今は、良い」
そう、今は。
「お勉強会、どうしよっか」
「雪夜ちゃんのお部屋じゃダメ?」
「良いけど、帰り反対方向じゃない? 大丈夫?」
「ダイジョブダイジョブ」
目を泳がせているのが気になる……まぁ別に見られて困るようなものは置いていないし。
「じゃあ今日やろっか」
今はそんな気分だ。
突発的でも、ちょっと無茶なスケジュールでも、今は一人になりたくなかった。
デートに誘う。そう決めて一日を過ごすが、ダメだ、隙が無い。
佐倉さんは友人が多い人だ。常に誰かしらと一緒にいる。こうして本に視線を落としながら時折目だけで様子を伺っていてわかる。口数が多いわけではない。でも、不思議と集団の中心にいる。
一緒に帰れたあの日が如何に幸運か……いや、ダメだ。過去に掴んだ幸運を懐かしんで浸るのは思考が諦めに向かってる証拠だ。
小学生の頃の俺の方が、まだ動けてた気がするな、なんて考えるのも、諦め始めてる証拠か。
「チャンスは掴む準備ができてて初めて掴める、か」
今の雪夜があるのはこの言葉通り生きてきたからだろうか。
「よし」
次の授業が終われば昼休みか。
昼休みか放課後……いや、放課後のことを今は考えるな。昼休みで全てを決めるつもりで行こう。
「ん?」
なんか一瞬、佐倉さんと目が合ったような気がしたけど……気のせいか。
授業が終わった。ちゃんと集中できていたか自信が無いからあとで復習しなければ。予習済みとはいえ念には念を……じゃなくて。
さっさと弁当を食べて動こう。雪夜は弁当まで作ってくれる。朝ごはんのついでだとは言うが、自分が必要というわけでもないのに。
「や」
「ん?」
降ってきた声に弁当をかき込む手を止め顔を上げる。
「急いで食べたら消化に悪いよ」
「もごっ、んぐ、ごくっ……え」
佐倉さんが目の前に立っていた。きょとんと不思議そうに首を傾げ、俺の机に弁当を置く。
「? なんか話したげに見てたの君じゃなかったっけ? なんで驚くのかな」
「いや、そりゃ……君から来るとは思って無かったから」
「まぁとりあえず話してみなよ」
そう言いながら椅子をくるっと回しこちらに向け、弁当を広げる。俺の手にある弁当箱の半分程度のサイズ。彩り豊かで、卵焼きを斜め半分に切ってハートに並べるという遊び心もある。
「その……」
チャンスが転がり込んできた。……チャンスは掴む準備ができていて初めて掴める。ビビってる場合じゃない、失敗する可能性を考慮している暇は無い。まずは一歩踏み出してみる。今俺に必要なのはその勇気だけ。
「ここに行きたいんだけど……男一人だと行きづらくてね、誘う人考えていたら佐倉さんのこと頭に浮かんでさ。一緒に行きたいなって」
「……猫カフェ?」
「うん」
「良いよ」
「マジ?」
「うん。行ってみたかったし。猫、好きなんだ」
「結構」
嘘ではない。動画サイトやSNSで流れてくる猫動画は思わず見入ってしまうくらいには好きだ。
「そっか。じゃあ、今週末行こうか」
「ありがとう」
「律儀だね。メッセ送ってくれれば良かったのに、直接誘うなんて」
「あー……いや」
「? もしかして追加してないの? わたしのアカウント。グループから追加すれば良いのに」
「良いの?」
「そりゃもちろん」
あまり接点無い、と言いかけたけど、佐倉さんの中では俺と何か縁があるらしい、ということを思い出した。危ない、地雷を踏むところだった。
そのことを聞くチャンスかもしれない。いや、だがこの行動こそが地雷を踏みに行っているのでは? 堂々巡りする思考に縛られていく。良くない状態だ。リスクとリターンの天秤が機能していない。
いや……一歩は踏み出すべきだ。ここで逃げて何になる。そうやって相手のテリトリーに踏み込もうとしなかったからこその今の俺だ。一時の平和のために進展を選ばないのか。
人間関係の経験値は人間関係の中で培われる。圧倒的に足りないそれを稼ぎながら佐倉さんとの関係を進めるには、実戦の中で正解を引きながら身に着ける以外に無い。
分が悪い勝負だが、それは最初からだ。少なくとも日和って立ち止まっている暇などない。
雪夜のおかげだな、ここまで腹を括れるようになったのは。
「あ、あのさ……」
「ん?」
「一緒にピザ食った時のあの……急にその、怒ったように見えたから、謝りたいけど理由がわからないから……」
「んー? あぁ、あのことか。いや、あれはわたしが悪かったんだよ」
「え?」
「そりゃわからないよね、急にあんなこと言われても。だからわたしが悪い」
あ、確かにそうだなと納得させられるような笑顔だ。これが絆されるって奴か。
「あ、いや。その。それで、なんで……?」
だから危うく聞こうと思っていたことが吹っ飛びそうになる。
「それは……その時が来たら教えてあげる」
「あぁ……うん……そう……」
マズい。何か話せ、俺の口。会話が途切れる。気まずい空気になる。何か、何か、何か……。
「あぁ、でも。猫カフェは行こうね。行ってみたかったのは本当だから。楽しみにしてる」
沈みそうになった雰囲気をふわっと持ち上げるようにそう言って、佐倉さんは箸を片付けた。いつの間に食べ終わっていたのか、弁当箱は空で。
「ふふん。じゃあ、またね」
なんて言って教室を出ていく。初夏の魔力に化かされた気分だ。でも、さっきまでのやり取りが現実だったとスマホがすぐに知らせてくれる。メッセージなんて送ってくるの、雪夜とか家族くらいなものなのだが、今回の差出人は佐倉さんだ。トーク画面は佐倉さんから送られてきたメッセージだけの寂しいもので。だからこそ送られてきた文は輝いてすら見えた。
『時間と集合場所は後でちゃんと教えてね』
たったそれだけ、それだけなのだが、今度は俺から送らなければいけない、送って良いんだ。感動すら覚える。たった一日で、ただの一回のやり取りでここまで進展するのか。踏み出して良かった、一歩、たった一歩踏み出しただけなのに。
すぐにでも雪夜に報告したいが……いや、浮かれ過ぎだな。少し落ち着こう。
一年望み続けた進展がこんなにもあっさりと。現実感が無さすぎる。ふわふわした気分だ。踊り出したい気分にもなる。
「ふぅ」
頭の中の雪夜が「これからでしょ」と頭を踏みつけてくる。そうだ、これから、これからなんだ。まだ始まったばかりだ。エンドコンテンツどころかストーリーモードさえまだ途中、そんなレベルだ。
武器や防具も強化途中、慎重に戦略を練って戦い方を組み立てなければいけないレベル。できること、できないことを区別して、できることを中心にどう立ち回るか……。
「……やっぱり、雪夜には報告しよう」
助言は欲しい。変なプライド、拘りでチャンスを逃すのは賢くない。
「……いや、ちがうな」
賢いとか、そういうのじゃなくて……俺は何としてもこのチャンスを掴みたい、そういうことなんだ。初めてだ、ここまで本気で負けたくない、失敗したくないなんて思ったのは。
「どんだけなんとなくで生きて来たんだよ、今まで」
届くのだろうか、こんなので。
「雨音、少し良いか?」
「はい?」
放課後、教室の外で愛季を待っていたところで、担任の高橋先生に呼び止められた。
「少しお願いしたいことがあるんだが、期末試験の三日後に高等部で文化祭があるのだが……そこで中等部の代表として出店して欲しいんだ」
「え?」
「詳しいことは今度話すからよろしくな」
返事すら聞かずに高橋先生はさっさと行ってしまう。
「お待たせー、あれ、どうしたの雪夜ちゃん」
「え、ううん。なんでもない」
……どうしよう。いやいや、自分が頼まれたこと。……巻き込めないな。それに、その詳しい話とやらのタイミングで断れば良い。そもそもなんで一年生の雪夜にそんな話が回ってくるんだ? 疑問が次々と湧いては渦巻いて……。
「っ!」
思わず溢れそうになったため息を飲み込んだ。無理なら断れば良いだけ、雪夜にできるなんて思えない。雪夜は、将暉くんのようにはできない。
「ほら、はやく行こ」
雪夜は、できる人の真似事をしているだけなんだ。




