従妹との関係
身体が、重い。たかだか三分走っただけで肺が空気を求めてヒューヒューと笛のような音を鳴らす。
そりゃそうだ。ちょっと走れば間に合いそうな横断歩道すら、次ので良いやと思って歩いていた自分がランニングだなんて。
一歩足を前に出すたび、ズボンから余分な腹が減らされまい消されまいと存在を主張して邪魔をするかのように零れそうになる。
酷い有様だろう。自分の身体から発せられる熱にのぼせて倒れそうな身体に鞭打ち、自分で決めた折り返し地点に足を進める。川沿いの冷たい風すら今はありがたい。
首にかけたタオルで汗を拭った。……頑張ろう。意味の無い徒労では無いのだ。
顎のあたりにぶら下がっていた筈の肉が無くなっている。顔もシュッとしてきた気がするんだ。あの日……高校一年の夏の決意から倒れそうになりながら始めた努力の成果は出てきているんだ。……足が少しだけ早まる。
春というにはまだ早い、でも出会いの季節はもう目の前、まだ肌寒い別れの季節。新しい日々に思いを馳せる季節。
息が整わない、でも走る足を止めたらあとはダラダラと自分に言い訳をしながら歩いてしまいそうで、それが怖くて足を前へ前へと、張り裂けそうな肺が吐くことに集中するように必死に意識する。
家に帰ったら、木刀で素振り、千本、それから、腕立て、腹筋、縄跳び、柔軟。まだ、まだ、まだ。家が見えてくる。家の前、大きなトラックが止まっている。その運転手の人と話している女の子が見える。
トラックに乗り込んだ運転手さんがぺこりと頭を下げ、その子も合わせて頭を下げる。トラックが動き始める気配に慌てて道の端に避けた。
走り去るトラックを見送ると、その子は俺の方を見ていて。
「……将暉くん?」
「え?」
訝し気な目。でも、間違いなく俺の名前を呼んだ。その声、夏の風鈴を思わせる涼やかな聞き心地、そして近づいて見えた意思の強そうな目。キュッと唇を結んだ表情、鼻筋の通った顔立ち、記憶が一気に蘇る。あの頃とは印象は違うけど、不思議と思い出せた。あの頃は話しかけてもすぐに逃げられて、叔母の後ろから顔を覗かせている様子の方が印象的で、ちゃんと話せたことは数えるほどしか無くて、不思議と感慨深い気持ちに襲われる。
会うのは二年ぶり、だろうか。そういえば、母さんから連絡あったな。この辺りでは有名な、全国的にも優秀と評される私立中学に入学するために、今日から従妹がうちに来ると。えっと、確か。
「雨音……雪夜ちゃん?」
「……ちゃんは付けないでください。今日からよろしくお願いします。先に入ってますね」
プイっとそっぽ向いて雪夜は家に入って行ってしまう。
……まぁ、こんな汗臭そうな奴とは、長々話したくないよな。そっとため息を吐いた。
それから、入学のための準備とか新生活のために色々買い揃えたりと忙しそうな雪夜の手伝いをしていたら、気がつけば新学期を迎えて雪夜は中学に入学した。
それからもバタバタとあっという間に春は風と共に過ぎ去り、梅雨と初夏をどこに置き忘れたのか、そろそろ七月が始まる頃。
六月の終わり、夕方だというのに蒸し蒸しと昼間の暑さがまだ残っている。家に帰りとある部屋の扉をノックした。すぐに中から足音。
「おっそい、アイス買いに行くのに二十分もかかる? 走ってよ。もう……」
開いた扉から顔を覗かせた雪夜の最初の一言はそれだった。
シャーペンを置き、勉強机から立ち上がった雪夜はレシートをひったくり、ぴったりの額の小銭を手の平に落とし、買ってきたカップアイスを受け取る。
「もう五分は早く戻って来れるでしょ」
「ゲームやってたところ無理矢理蹴りだして言うことがそれかよ」
「つまり暇じゃん。雪夜は課題してたの。明日撮影あるし早めに終わらせたいの」
「はぁ」
雪夜は度々こういうことを要求してくる。徒歩十分ほどのところにあるスーパーにあれ買ってこいこれ買ってこいと。
さっきだって今日実装されたイベントボス初見討伐直後じゃなかったら後回しにしていたところだ。早く部屋に戻ってイベントストーリーの続きを読みたい。
「そうだ、はいこれ、もらったからあげる」
「いや、いらないんだけど……」
「自分の持ってるからこれ以上いらないの。持って行って。捨てないで毎日やってよね」
雪夜はそう言って、まだ幼さが残るが凛とした顔立ちをキュッと歪ませるように目を細め、腹筋ローラーを押し付けて俺を部屋から叩き出した。
進学のためうちに来た従妹、そろそろ同じ屋根の下で暮らして三か月、最初の頃の借りて来た猫のような大人しさはどこへやら。慣れたら自分の縄張りの如く我が物顔なのもまさに猫か。
「そういや晩飯何が良い? 父さんと母さん、今日も遅くなるから用意するけど、そうだな……久々に唐揚げでも作るか?」
「もう冷蔵庫に入れてあるからそれ食べて」
「あぁ、おう。いつもありがとう」
扉が閉まる。ふと廊下の壁にかけられた姿見が目に入る。
「うーん」
思わず眺めてしまう。部屋着、こんなにブカブカだっただろうか。
「本当に痩せたよね、将暉くん」
「ん? うおっ」
いつの間にか姿見に映る俺の横に雪夜が立っていた。
「そういえば前にも言ったけど、カップアイス買ってきた時はスプーンも付けてよね」
そう言ってどこか機嫌良さそうに鼻を鳴らして、長く黒い髪を揺らして踵を返し、階段を降りていく。
「? 珍しい」
いつもなら取ってきてとか言い始めるのに。
まぁ良いか。……しかしそうか、雪夜の目から見てもそう見えるのか。
「……もう少し走るか」
せっかくだし貰った腹筋ローラーも使おう。
夏休みまでに告る。このために今頑張っているのだから。
「攻略条件……いや、まだ挑戦条件の段階だな、でも条件を満たしつつあるのなら、あとは攻略方法を本格的に練らねば」
そうなると、改めて階下に消えたもう見えない背中の方を見やる。
別に嫌いなわけではない。中学生ながら親元を離れ、こっちに来てすぐにスカウトされたとかで読者モデルとしての仕事をこなしつつ、難関私立中学で真面目に大量の課題をこなし、初めての定期試験でもかなりの好成績を収めている。駅でたまたま見かけた時は、友達に囲まれて楽しそうに笑っていた。
そして何よりも夕飯を用意してくれている。味付けや量が物足りない気もするが、両親の帰りが遅い日は必ず、忙しいのに用意してくれているのだ。そんな雪夜に対して、年下であれど尊敬する気持ちだってある。
でも、だからこそ、こんなこと相談して良いのかと。
恋愛相談なんてして良いのかと、迷うのだ。
プロテインを飲み干しながら想像する。真剣に雪夜に恋愛相談する自分を。
うん。自分でどうにかしよう。そもそも相談したところで気持ち悪がられるのが関の山だ。
そう結論付けたのは、雪夜が用意してくれたサラダの上に解したサラダチキンが乗せられている奴を食べ終えた頃だった。




