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紅茶のおいしいダンジョン  作者: 高野十海
その1 開店編
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01 没落娘はダンジョンマスター

 目を覚ますと、チュチュ・キスキィは見たこともない部屋にいた。


「……どこかしら、ここ」


 彼女の肌は白く透けるようで、うっすら骨が浮くほど細い。背中まで届くアッシュピンクの髪に、ぱっちり開いた碧色の瞳が、薄い色素の中で浮かんでいる。

 碧い瞳は、同じように色のない空間を眺めていた。広く白い清潔な部屋の中、大仰な黒い椅子がこの空間を支配している。

 支配者の目の前には、小さなテーブルと大きな本が一冊置いてあった。


「わたくし、夢でも見ているのかしら」


 チュチュは自分を見下ろした。

 記憶の中で汚れていたはずのドレスは洗いたてそのもの。くたびれていた靴も、いまはピカピカに磨かれている。

 吹きつける風雪を凌ごうと洞窟に入ってから、彼女の記憶は途絶えていた。

 しかし、その洞窟から白い部屋につながるのは不自然だ。


「夢なら、座っても怒られませんわね」


 チュチュが椅子を引くと、滑るように動いた。

 細いからだを受け止めると、やわらかなクッションがわずかに沈む。


「素敵な椅子」


 自分のために作られたような椅子を楽しんで、彼女はテーブルへ目を移した。

 黒地に金文字の立派な装丁が、手に取れと語りかけているようだ。


「読めるかしら」


 おずおずとチュチュは手を伸ばした。表面はしっかり固く、細腕にずっしり重たい。

 一抱えもある本を赤ん坊のように持ち上げて、そのまま一枚板みたいな表紙を捲った。

 すると急に本の中から光が溢れて、白い部屋を満たしていく。

 あまりの光に、碧い瞳は白いまぶたで覆われた。


「な、なんですのっ?」


 光が収まると、黒い本は彼女の手から離れて浮いていた。

 表紙の金文字はキラキラ輝きを増して、黒地は闇のように深く沈み込んでいる。


「おはよう。我が主」


 それだけならまだしも、黒い本は喋ってみせた。口を開く代わりにぱたぱたとページを捲っている。


「お、おはようございます」


 驚きのあまり、本が浮いて喋っているということに、チュチュの認識は及んでいない。久しぶりの会話に、釣られて返してしまう。


『実によろしいお返事だ、我が主。名を尋ねても?』

「チュチュ・キスキィと言いますわ」


 生まれてから十六年と半分。貴族として生きてきた彼女は、名乗れと言わればそうするのが礼儀であった。椅子に座っていたから、スカートを広げて膝を曲げるまではいかない。

 頷く代わりに、本が一度ぺらりと捲れた。


「『口づけをして(キスミー)』とは、大胆なお名前で」

「キ・ス・キ・ィですわ! 二度と間違えないで下さいませ!」


 名前を間違われることは、貴族にとって相当の侮辱だ。

 白いせいか、すぐに赤さの目立つ頬を膨らませて、チュチュは宙に浮かぶ本を掴む。そのままブンブン振り回していたが、本は抵抗して手を逃れた。

 本はくるくる回って装丁を整えると、謝罪のつもりか大きくページを開く。


「これは失礼を。我が愛しのキスキィ」

「そ、そんな風に呼ばれる覚えもありません!」


 キザたらしい言葉に、白い顔はいまや薄紅色に花咲いていた。同じ頬をふくらますでも、先ほどとは天と地ほども差がある。


「では、キスキィ嬢とお呼びしよう」

「それなら……って、なんで本が浮かんで喋っているんですの!?」


 時間が経って落ち着くと、チュチュはようやくその奇妙さに気がついた。彼女の常識だと、本は読まれるのを待つだけのものだ。

 くるりと本が回って、ペラペラとページが捲れる。


「いまさらの話ではあるが、説明したほうがいいだろうか」

「して下さいな。そうでなければ、なにもわかりませんわ」


 宙に浮いていた本がことりと落ちて、机の上で開かれていく。

 ぺらぺらと捲れ終わったページには、べったりと褐色インクが塗られていた。よほどに厚塗りしているのか、ざりざりと厚ぼったい。


「私は迷宮写本。『ダンジョンマスター』を手助けするものだ」

「ダンジョンマスター……聞き覚えがありませんわ」


 チュチュが首を傾げると、本はさらに一枚ページを捲った。そこには図解で、地図らしきものが描かれている。

 地図はポツポツと点が打たれ、その下にいくつかの名称が書き込まれてあったが、彼女には覚えがなかった。


「この世に存在するあらゆる迷宮は、ダンジョンマスターによって生み出される」

「だから、大陸には急にあんなものが増えるのですね」


 この時代、大陸では不可思議にダンジョンが増え続ける異常事態が発生している。

 話を聞いて彼女は納得し、一つ頷いた。


「そうだとも。飲み込みが早いな、キスキィ嬢は」

「え、ええ。これでもお勉強はさせて頂いてましたの」


 点と名称は、各地では有名なダンジョンとその立地が記されたものだった。

 ぺらりとまた捲れて次のページに移り変わる。

 今度は間取りのようなようなものが描かれていた。


「素晴らしい。それでは続けよう。この部屋は『マスタールーム』と言う。つまり『ダンジョンマスター』用の部屋になる」

「マスタールーム……えっ、そんな。わたくし、まさか」


 その間取りは、中央に部屋がぽつんと一つある以外は、なにもない。

 名称は『マスタールーム』とだけ記されている。ここのことだ。

 ただの人間が、そんな場所に足を踏み入れるわけはない。


「そう。キスキィ嬢、あなたは『ダンジョンマスター』になるのだ」

「できませんわ! わたくし、ダンジョンなんて……」


 突然告げられて、彼女の頭は真っ白に染まった。

 途切れた記憶と見覚えのない部屋、そして新品同然に表れた衣服など、それらはすべて一つのことを指し示していた。

 チュチュ・キスキィには、やはり途切れた記憶の中でなにかがあったのだと。


「抵抗はあるだろう。しかし、ダンジョンと言っても中身は手広いものだ。人間を罠にかけてモンスターに襲わせるものでなくともいい。要するに、君の願望を叶える部屋ができた。そう考えてくれればいいのだ」


 願望。

 そう言われれば、彼女は思い出さないわけにはいかなかった。

 一ヶ月前に没落した家のことが、はっきりといまも胸の中にどっしりある。

 もし家が無事ならば、風雪を凌ごうと町外れの洞窟へ潜むこともなかったろう。

 ほんとうに願いが叶うなら、家の復興だって叶うかもしれない。

 それをまったく望まないというのは、チュチュにとって嘘になる。 


「わたくしの願いを、叶える部屋」

「そうだとも。金持ちになりたいだとか、世界一大きな宝石がついたネックレスが欲しいだとか、君にも願いが一つくらいあるだろう」


 悪魔のように本は囁いた。

 表紙の黒字は暗黒めいてどろどろとひずみ、金文字は妖しく輝いて虚栄と渇望を誘わせる。

 胸中で家のことがどんどんと大きく膨れ上がっていく。

 チュチュは碧い瞳をぎゅっと閉じた。まぶたの裏にあるのは、華やかに飾りつけられた屋敷ではない。それを執り行う家族のことだ。

 暖炉のある部屋で、テーブルについて母が淹れた紅茶を飲み、お菓子を食べながら日々のことを語り合う記憶である。

 チュチュが習ったものを必死で伝えようとして、父と母は一生懸命になってそれを聞いてくれる。そのあたたかい時間だ。

 意志の籠もった眼を開いて、彼女は地獄の底へ引きずり込もうとする本を睨みつける。


「わたくしは……紅茶を」

「紅茶?」

「紅茶のおいしいダンジョンを、望みます!」


 こころに最後に残ったのは、貴族として過ごしてきた栄華な歴史ではない。

 ただ、家族といっしょにあったあたたかい記憶が、チュチュの胸にある。その象徴は、いつだって母が自分で淹れた紅茶だった。

 彼女にとっておいしい紅茶とは、そのあたたかい記憶のことだ。


「……ふ。ふふふ。いや、失礼。あまりにも予想外の願いなもので。キスキィ嬢、あなたは素晴らしい」


 それを聞いて、魔本は震えるようにページを広げた。

 眉をひそめてたチュチュは視線を強める。あたたかい記憶を侮辱されれば、誰だって我慢ならないだろう。


「皮肉ですの?」

「いや、本心からだ。普通のマスターは、もっと直接的な野望や欲望を口にする」

「わたくしのも大きな野望ですわ」


 心外だとばかりに彼女は腕を払う。

 その願望に一切の偽りはない。いまは遙か、叶わないからこそ真剣に思うことができる。没落した貴族の行方は、言うまでもないだろう。

 だからこそ、チュチュはやれるものならやってみろと本に挑んだ。


「ほんとうに素晴らしい。あなたのような願いを、こころの底から思うものがいるとは!」


 本から光が迸る。それは表紙の色に輝いて、白い体にまとわりついた。

 黒い光はドレスになり、金色の光は首と耳からぶら下がって豪奢なアクセサリーに変わる。

 質素な衣服を身にまとっていたチュチュは、いまやゴシックを纏う妖精のようだ。


「なにをなさいますの!?」

「契約は成された。これよりキスキィ嬢はダンジョンマスターとなり、その願望を成就せよ」


 光を失った本が、宙に浮かんでぺらりと捲れた。分厚い褐色の上に、白く抜かれるようにチュチュ・キスキィの名前が書いてある。

 白い額に汗がつぅ、と伝うが、それよりも彼女の頭には疑問が浮かんだ。


「……契約は成された? 先ほど、わたくしはダンジョンマスターになるのだと……」

「ああ。先ほどまで、キスキィ嬢はただの人間であった」


 しれっ、と何気ないように本は言う。


「だっ、騙しましたのね!?」

「騙してなど。なるのだ、と申し上げたまでのこと」

「あ、あなたという人――いえ、本は!」


 眉を吊り上げるチュチュに、本は宙でくるりと回って恭しくページを開いた。


「私は迷宮写本(グリム)。あなたに従うものだ。よろしく、我が主・キスキィ(ダンジョンマスター)


 たしかに、マスタールームに足を踏み入れて、もうマスターになったと勘違いしたのは彼女だ。

 チュチュは目一杯、頬を膨らませてから、それをぱっと収めた。

 立ち上がって、元貴族らしく慇懃に口端を上げて、黒いゴシックドレスを広げる。


「……よろしくってよ、グリム。わたくしのダンジョンを、世界で一番紅茶がおいしい場所にしてみせますわ!」


 高らかな宣言とともに、新たなダンジョンマスターが産声を上げた。

 ここは紅茶のおいしいダンジョン――予定地。


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