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餞別~別れの約束代わりに~

ここまで読んでくださった読者の皆様、ありがとございます。

今回をもって、終幕です。

また次回、あるいはほかの作品で、よろしくお願いします。

 風のように闇を駆ける――と言うようなことを出来れば、格好いいのになぁと感じつつ、杏華は少し迂回して山を登ると、暫くもしない内に響を視界に入れた。その瞬間、心臓が締め上げられたかのような錯覚にとらわれる。

 木の影に隠れていた甲斐あってか、相手は杏華には気付いていないようだったが、それもすぐに終わった。自分より大柄で、悪意に満ちた大人の男に目を付けられ、杏華は引っ張られるようにしてその場を走り去った。

「っ!」


「ぎはっ! 逃げるのかよ、じきくみちょー?」


 侮蔑を形にしたような醜い音が闇に響き渡る。時期組長とは、和樹のことのはずだ。と言うことは、彼は今、和樹と自分を間違えている。

 トレードマークのような薄汚れたコートを翻して、転ばないように気を付けながら近くの木の陰に隠れた。そこで先ほど聞いた和樹の言葉を反芻した。


 ――まず、十秒走ったら、相手がよっぽど近付いてこない限り、木の陰で十秒休むつもりでいろ。あと、出来るだけ姿勢は低くして、転ばないことを第一に考えろ。そして、相手と二十メートル以上の距離を意識しろ。それ以上は近づけるな。


 和樹曰く、それで一直線に逃げたとしても、ある程度は狙いを付けられないだろうとのこと。

「――よし」

 ――ちゃんと思い出せる。


 和樹は冷静さを欠くな、とも言っていた。その基準として、焦ったと思ったら、自分の言葉を思い出せ、と言っていた。心構えをしていた手前、まさか最初でそうなるとは思わなかったが。

「ぎははっ! どーしたどーした? 怪我でもしたのかぁ? ……ほぅら。さっさと俺をやらねえと、騒ぎを聞きつけた人間を巻きこむかもしれねえぜぇ? ……ま、玉無しのお前にゃ、勝てねえ喧嘩は出来ねえかぁ!」

「――っ!」

 下卑た嘲笑に自分の想い人を穢され、その百倍の声量で怒鳴り返してやりたかったが、響は今、杏華と和樹を取り違えている。その間違いは、隠れて好機を待っている和樹にとっては望むべくもないことだ。


 杏華はグッと息を呑みこむと、代わりに一気果敢に木陰を飛び出し、おおよそ和樹に指示された方角へと走った。

「ぎはっ! 逃げるだけかよ、つまんねー」

 遁走の中、響の声が遠くに感じる。いや、頭の中の思考が、どこか遠くに感じられる。あまりに今の状況に現実味がなくて、自分が自分でない心地さえした。

「はっ……はっ……はっ……はっ……」

 和樹の着ていた重たいコートに着られながら、絡みつくような夜の闇を引き裂いて走る。コートに残っていた温もりはもう殆どない。けれど『着られている』と言う感覚が、自分ではなく和樹がこれを着て、杏華を導いているような気さえして、より近くに和樹を感じて嫌ではなかった。


 ……そんなこと、あるわけないけどねっ。


「ふふ……」

 自分の妄想に苦笑して、頼り過ぎだと叱咤する。

 木の陰に身を隠しながら、次に走る木を探して、体感での十秒を数える。

 それが本当に十秒なのか、時計もなく、追い詰められた精神状況の今、それが正しいと思えるものはない。何となくでいいとも和樹も言っていたし。そして十秒を数え終えると、再び走り出す。


 それから間もなく、それは襲いかかった。


「……つまんねーぜ」

 ガンッ! と、音だけでも十分の暴力的な衝撃が、杏華の背後から襲いかかる。

「ぁ……」

「ほぅら、止まってるとまた撃つぜ? ぎひっ!」

「っ! ~~っ!」

 その声に反応して、ばねに弾かれたように杏華は走る。


 もともと当てる気はなかったのか、弾丸が近くを通った気配はないし、そんな気配は知らないからすぐそばを通ったのかも知れない。

 ただ、それでも、一介の女子高生にとって、自分に対して発砲されたと言うのは、生半可な覚悟を呑み込むほどに恐ろしいものだ。


「っ、っ、っ。~~っ」

 その一発の銃声に、乖離しかけていた現実と思考が決定的に引きはがされようとした。

 走る脚の動きがひどく遅くに感じられ、山の土が足に絡みつくような錯覚さえ覚えるほどだ。時間が引き延ばされて、一秒と十秒が同時にやってくる気さえする。

 誰が走っているのかさえ分からない。どうして走っているのかも。

「っ!」

 杏華はあらかじめ定めていた木の陰まで入り込むと、すぐさまその場にしゃがみ込んだ。

「――――っ!」

 あれはなんだ人殺しの道具自分に向けられた音すごい弾はどこにこのままで大丈夫怖い怖い怖い怖い――。

 無数の言葉が胸の内から押し寄せて、その津波のような奔流は、けれど杏華の口を一度も出ることはなかった。


 ――怖い。


 その一言を呟けば、きっと自分はもう動けなくなる。

 何か一言を呟けば、きっとその言葉まで続いてしまう。


「~~~~っ」

 だから杏華は、そのすべてを喉の奥ですり潰すしかなかった。

 ――木の陰に入り込んで、十秒が経過した。それでも、杏華は動けない。


 ただ、動かなければと言う使命が浮かび、ようやくわずかばかりの安定を取り戻した。

 次の木を定めながら、あとどれくらいで和樹と合流できるだろうと考えていると、再びガンッ! と暴力的な音が、そして背中越しの振動が、杏華の心を震わせた。

「いつまで隠れてんだぁ?」

「っ!」

 影から覗くと、響はすでに二十メートルの位置まで迫っている。杏華はろくに定めもせずに、駆けては隠れ、隠れては駆けた。


 ――どうしてこんなことしているんだっけ? 杏華の心に、そんな疑問が浮かんだ。


 それは、大切な理由だったと思う。だけど、命を救う奇跡は起こさない。

 命を懸けるだけの理由があったのか。杏華の心に後悔が浮かび上がりそうになるが、それはすぐに縮んでいった。


 ――今は、生きなきゃ。走って、逃げなきゃ。


 誰か――それこそ、命を危機に晒してでも助けたかったほどの大切な誰かが待つ場所まで。


「~~~~っ!」

 杏華は最後の覚悟を決めて、転ぶ可能性も何もかも捨て去り、全力で山を駆けた。

 ――和樹が指定した方角に。

 そのまま、隠れながら山を駆けおりれば、もっと安全に町まで下りられたかもしれない。けれど、その可能性は聡明な彼女の頭には浮上せず、杏華の心は信頼する人の下へと駆ける道だけを示し続けた。それ以外の可能性を振り切り、想いと希望を抱えてひた走る。


「ぁぁあああああああああ――っ!」

「んだぁ? 狂いやがったかぁ?」


 少し、思う。自分は馬鹿だと。馬鹿馬鹿しいほど、彼に心酔してしまっていると。


 杏華は悲壮さを滲ませ、けれどどこか清々しさを湛えた笑みを浮かべて、一気に走った。

 ――その途中、思い切り叫びたくなった。獣のような声が喉から震え出る。


「わたしのばぁかぁあああ――っ!」


 足元も見ずに走った結果、杏華は二十メートルも走らない内に躓き、態勢を崩してあおむけに転がる。あぁ、もうだめかぁ――と諦めるのと同時に、遠くがざわつき、呻き声が届く。

 しばらくすると、右手に赤い布を巻いた男性が一人、ゆっくりと歩いてきた。

「――大丈夫か?」

「……ん。大丈夫」

 影で隠れた黒い地面に引っ付きながら、上目遣いで男を見つめた。男は普通の受け答えを聞いて嬉しそうに笑いながら、手も貸さずにそのまま見下ろしてくる。自分で起きろ、と言うことだろうか。

「……最後はかなり、ヒヤッとしたぞ?」

「……ん」

 銃で撃たれたことか、それとも杏華が叫んだことか。その明言はせずに――おそらくその両方だが――和樹は安堵の表情を浮かべた。

 助けてくれる手がないので、杏華は地面に手をつくとそのまま上体を起こして、和樹に向き直る。

「ねぇ、和樹さん」

「ん? なんだ?」


「やっぱりわたしは、あなたが好きです」

 ――和樹の表情は良く見えないけれど。多分、困った顔で嬉しいと思っているんだろう。


「そっか」

 その素っ気ない返事が杏華の腰を引き上げた。杏華は伝えるべきことを伝え、そっと立ち上がるのと被せるように、不意に頭の後ろに手を回されて、和樹の顔が近付いた。


「んっ……」

「んんっ!」


 唇が触れる。柔らかく、温かく、人の温度を人へと伝える。

 裏も表も関係のない、人の温もりが目の前の一人に伝わる。

 ほんの数秒の口づけは、杏華から平常心を失わせ、暴力的なまでに魅了した。

「……餞別だ。高くもない、オレのケジメだ」

「……えっ?」

 それだけを言うと、和樹は元の山道へと戻り始めた。

 途中、気絶した響とその部下を念入りに拘束し、警察へと引き渡した。

 その日、杏華は別れの挨拶もなく、和樹と別れた。

「……ばっかだなぁ」

 これで自分は、杏華と約束を果たすまで、死ぬことは出来ないではないか。


 和樹は笑いながら、困ったように、喜びをかみしめた。


                         END

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