この人がいるのは「雲の上? 泥の中?」
三章の始まり。
公園を出て間もなく燐が気になっていたエピソード――杏華が和樹に助けられた時の状況を聞かれることとなった。
因みに先ほど大人げないところを見せてしまった燐は、ずいぶんと和樹に対して殊勝な態度となっていた。それはもう、杏華に対するよりも丁寧な態度で、先生に対する態度に近いかもしれない。
「あ? あー……まぁ、杏華が喧嘩に巻き込まれてたんだ。多分、どっかの誰かを助けようとしたか、相手が勝手に突っかかってきたんだろうな。……んで、喧嘩に慣れていない杏華は相手を傷つけることにためらっていたっぽいから、ちょっとピンチになってな。そこをちょっと助けたんだよ」
「え? それだけ、ですか?」
「あー……それだけ、だな。ま、相手を怪我させたのと、男に襲われそうになったので、ちょっと精神的にもダメージがあったみたいで、そのケアも多少はしたがな」
ま、『あんまり深く考えるな』『傷つけるのを躊躇ったのはお前が優しいからだ』とかいっただけだがなー。
――と、極めて自然体で何でもないことのように伝えると、それ以上何かを追及するでもなく納得の様子を見せて、今度は杏華と話をしに行った。
無遠慮に喧嘩の理由を尋ねるのかも知れないし、気を遣って何気ない世間話かフレッシュな話題である和樹についてでも話すのかも知れない。
実際、杏華の『復讐』に触れないように、事実を基に内容をすり替えて適当にでっち上げただけの話なのだが、問題なく騙せたようだ。杏華も話を聞いていたし、後は相槌を打つなりしていれば真実はすり替えられるだろう。
先ほどまでは全員で和樹の話に耳を傾けていた為、自然とグループは男女に分かれる。
「よぅ。元気か?」
「……それはさっきの戦いで、殆ど姉任せにしちゃった僕に対する皮肉ですか、和樹さん?」
「いいや、別に? つーか、杏華の奴、頑張ったんだな。流石に、塀の向こうまで気に掛ける余裕はなかったぜ。……けどま、さっきも言ったように、あいつにも一日の長があるからなぁ。ただそれだけの違いだろう」
力なく笑みを浮かべる祐人には悪いが、和樹の心にはやるべきことをやり、きちんと自分と自分以外とを守ることが出来た杏華に対する親心的なもので、僅かに満たされた。
喧嘩に慣れること――それが一体、良い事か悪い事かは知れないが、自分と自分以外とを守ったことは誇っても良い事だと思う。
「――って、おい。まさか、元気がないのはそれが理由か?」
「それだけが気がかりじゃありませんけど……。僕……元気ない、ですか?」
――分かってるんじゃねーの? という意思を込めて、にやりと笑う。
確かに伝わったかどうかは甚だ疑問だが、それでも祐人は言われたことについてを考え、確かにそうかも知れないと思い直した。
「――ふぅ」
知らず、息を詰まらせていたらしい。改めて言われ、自己分析を完了すると、小さく息を吐いた。
そのタイミングを見計らったかのように、和樹は祐人に向けて再びにやりと笑う。
「……で、どうしたんだ? さっきの喧嘩でないのなら、場面的にオレ関連だろうし、一応人生の先輩だから相談に乗るぜ?」
まるで何もかもを見通したような和樹の笑みと眼力に、祐人は観念したように大きく息を吐いた。
「……別にオレだって、何でもわかるわけじゃねえぞ?」
「…………。そうやって、僕の考えが筒抜けな時点で説得力がないですよ。……朝の、シスコン云々も、僕があなたに一歩引いてるのを見抜いたんでしょう?」
「オレは悟りか……。ンな昔のこと忘れたよ」
和樹は力なく笑うと、仕方ないなぁ……と言う風に、祐人に向かって説明した。
「あの嬢ちゃんも言ってたが、オレとお前らとじゃ、生きている世界が違うんだ」
「はぁ……?」
良く分からない、と言った祐人に向けて、和樹は一度頬を掻くと、『ぁー』と気の抜けた言葉を漏らしてからさらに口を開いた。
「要するにさ、人間は大体、思っていることが顔や仕草に出る。――それを上手いこと見つけるのが、オレにとっては普通なんだよ。相手の嘘を見抜くことに慣れてるのさ」
「……なるほ、ど?」
まだ良く分からない祐人に向けて、最後に例えとして実例を挙げる。
「さっきのお前のは、状況にプラスして、諦めたような感じだったからな……。何に対して諦めたのかを考えて、かつお前が『話そう』とする気配がなかったから、オレに見抜かれてるとでも思ったのかな――と考えたわけだ。キャンユーノゥ?」
「……イエス、アイノゥ」
今度こそ肩を落として息を吐いた祐人に、和樹はけたけたと笑った。
――全く、素直な男だ。不自然が全くなく、自然体で仕草に出る。
実際、仕草や表情には個人差があるし、性格による差もある。また、『振り』による騙しも存在する。
振りについては『不自然』を感じ取ればよいが、一般人の場合は大抵そんな『騙し』は存在しない――と言うよりも、騙し続けて『性格』となることが多い。だからこそ、状況と個人の性質を理解する必要性が高まるのだ。
だが、祐人については――自分を騙す必要がなかったのか、あるいは生来の性質か――そういう屈折したところがあまり見受けられず、とても素直で真面目だと和樹は感じている。そうした素直さが眩しくもあり、同時に不安でもある。
素直さ――言い方を悪くすれば、愚直さ――とは、真っ直ぐな故に、壁に当たった時が心配なのだ。……壁とは、必ずしも一人で乗り越えられるものとは限らないのだから。
「……で? 一体何に悩んでいるんだ?」
「なんというか……自分の器の小ささに、辟易しているんですよ」
意外にもあっさりと、祐人は悩みを告白した。
「……器が小さい? お前がか?」
存外の呆気なさと、内容の意外さに和樹は思わず目を丸くする。
ちょうど電灯の近くを通りがかったところだったので、その表情が闇に浮かび、祐人はおかしさに頬を緩めた。そして、その理由となる少女たちについても躊躇うことなく話すことが出来た。
「……僕はまだ、あなたことを認められていないんですよ」
「……? 別におかしくないだろう?」
和樹は暴力団関係者で、祐人は一般人なのだ――先ほども言ったように、住む世界が違う。
けれど、祐人はそう思わないようで、悲痛な顔で俯きがちに呟いだ。
「父は全てを知ってなお、あなたを認めていました。それに、さっきの二人も、あなたが普通でない事を知りながらも、あなたのことを認めました」
「…………」
「僕に出来ないことを、彼女らはやってのけた。……彼女らがやってのけたことを目の当たりにしても、それでも僕はまだあなたを受け入れられない」
自嘲気味に自らを嗤う祐人に対して、和樹は半眼になり、その頭をバシンッと叩いた。
「いってぇ」
祐人は演技染みた風に自らの頭を押さえて和樹を睨み返したが、構わずに和樹は言葉を続けた。
「なぁにトチ狂ったことを言ってやがる! オレを受け入れられない? それが何かおかしい事か?」
「おかしくはないかもしれないですが、器が小さくはあるでしょう」
「何もかも……自分が嫌いなものまでも受け容れちまう器なんざ、ドブにでも捨てればいいんだよ。お前はオレについて、十分以上に考えている。それで十分だろ?」
何の気もなしに――ただ、どこか遠くを見つめるような目で――和樹はそう告げる。
それは和樹の信念から来る言葉だった。
「いいか、祐人? 人間、何もかもを敵に回して生きていけるほど、強くはねえ」
――もし、そんな風に生きていけるのだとすれば、それは何もかもから『切り離された』所に心を置く人間だけだ。
和樹はそんな存在を、一端の人間だとは――人間があるべき姿だとは、到底思えない。
だが、それは逆であってもそう変わらないと、和樹は考えている。
「それと一緒だ。ベクトルが違うだけだ。……人間、何もかもを受け入れられる器を持つやつなんざ、本物のバカか、人智を超えた聖人君子だけだ。お前はそのどちらでもねえし、ある必要もない。玄造さんがオレを受け入れたのは単に、オレのことを気に入ったからだ。相手のことを知ってなお、気に入らねえ奴を受け入れる器なんざ、人間様にゃ必要ねえ」
和樹は自分でさえ持てない器を、相手に対して強要するほど、無理矢理自分をねじ込むつもりは無い。
「よぉく、考えろ。オレは、お前にとって、受け入れるに足る存在なのかどうかをな」
「あなたについて考えるのに必要なことを、僕はあまりに知りません」
「なら仕方ねえ。諦めろ」
「……っ」
あまりにバッサリと切り捨てた和樹に、思わず絶句する祐人。
「仕方ねえさ。諦めろ。……それが無理なら、オレ以外から、オレを聞け。そもそもオレとお前とじゃ、物事の捉え方からして違うんだ」
……初めから、遠いのだ。
和樹と祐人の存在は、表と裏の間に境界が存在するように、一続きであれど何かが違ってしまっている。
だからこそ、和樹は己を知ってもらうのに無理は強要させたくなかった。
「何が、違うんですか? 僕と、あなたの」
「…………」
和樹は一瞬黙った後、表と裏――今の和樹と、普段の祐人の生活と、普段の和樹の生活を想起した。
それは最近になってようやく掴めた相互の距離。互いの違い。
和樹が一般人の所以についてよく知らなかったように、竜胆家での数日を通して知った――一緒に買い物に行く母の存在を、部活帰りの友達との平穏な会話を、争いを知らぬ平穏な日常を、今回のことが無ければうまく理解できなかったように。
きっと祐人も、和樹の生活について上手く理解できないだろう。
そして、祐人がそれを理解するのに払う代償は、大きいように思えるから。
「祐人。お前にとっては、喧嘩のない平穏な生活が、普通の日常だ。けれどオレにとっては、今の喧嘩のない生活は、あくまでも次の喧嘩までの準備期間なんだ。それがどんなに長い時間でもな。……お前にゃこの感覚は、分からねえだろ?」
だから、諦めろ。この感覚を知る必要はない。
「……っ」
奥歯を噛む祐人に、和樹は更に告げる。
「お前がオレを知りたいのは、杏華の為だろう? あいつが好きになったオレと言う存在を、知りたいだけだろう?」
「えっ……?」
「なら、お前は無理にオレを知る必要はない。手前の姉ちゃん……杏華を知って、杏華の判断に是非を唱えろ。オレのことは、玄造さんや杏華にでも訊いて、最低限知っていればいい」
「いや……えっ? というか……え? 和樹さん、姉さんがあなたのことを好きだっていうこと、知ってたんですか?」
祐人は突然飛び出した和樹の言葉に、先ほどとは別の驚愕を受けていた。
まるで満月のように、開いた双眸には電灯の光が反射していたが、その明るさに目を閉ざすこともなく驚愕に目を開き続ける、
「ん……あ? あぁ、まあな。ついさっき、杏華の後輩がひそひそ話していたのを、唇を読んでたらそんな言葉が出てきてびっくりしたぜ」
「唇を読むっ? 読唇術が使えるんですかっ!」
「ああ。音が拾えない距離や映像でも、何らかの情報が得られるようにな。……結構、必須スキルだぜ?」
「…………」
呆れてものが言えない祐人に、和樹はからからと笑いながらバシバシと背中を叩いた。
「なぁに、心配すんな。悪いようにはしねえし、オレについても伝えられるだけは伝えるつもりだ。それでもオレに対して恋慕の情があるなら、仕方がねえさ。諦めな」
――ま、色々条件付けて、オレに恋をするのに試練を付けるから、よっぽど本気じゃねえ限りは諦めるだろうがな。
そう付け加えて言った和樹はとても嬉しそうに、泣いているように笑った。
「――あぁ、何というか、この人はほんと、雲の上に居るみたいな人だ……」
「ドブの中――あるいは、闇の中だろ」
苦笑する和樹に向かい、祐人は小さくため息をついた。
ここまで自分の境遇を割り切れて、なおかつ自分のもつ信念を諦めていない人間は、そうはいないだろう。
優しさに満ちた修羅。あるいは、盾ではなく剣を取った神仏――そんなイメージだ。
光に向かって、暗く黒く紡がれた道を必死で進む和樹の姿がまぶたに焼き付いた。
その姿はあまりにも生々しく、人間的で、優しさに満ちていた。そんな姿を、祐人は憧れるようにそっと眺めるのだ。
「……あぁ。ほんと、姉さんは見る目があるなぁ」
和樹は誰もが歩めない道を、それ以外に道を見ているにもかかわらず、それしかないと思い込みながら進んでいく。
暗く、黒い道を。他の誰もが、ただ歩むだけしかしない道で、さりげなく装いながら他人を気遣い、歩いている。
――まったく、格好いいなぁ。




