母の掌
一般人――『特別の身分や地位をもたない人。また、あることに特別の関係がない人。普通人』
リビングで携帯の電子辞書を引っ張り出して、そんな文面を眺めていた。
「んー……」
見れば見るほど、具体的な意味が見えてこない。例えば、杏華は間違いなく一般人だが、今回の事件に関しては一般人ではない。要は、視点の問題なのだろう。ならば、自分の立場を一般的とは思っていない自分は、ある側面で見れば一般人なのではないだろうか。いや、そうに違いない。
――と、そんなとりとめもない屁理屈を考え、同時にそんな屁理屈は一笑に付されるのがオチだとすぐに忘却した。忘却したが、だからと言ってなぜこのようなことになったのかまで忘れることは出来なかった。
――つまりは、だ。
「一般人って、何すりゃいいんだ?」
実際は何をするから一般人だという訳ではないのだが、だからと言って何もしないのでは時間の無駄だ。むしろ、裏のことについて何もしないが故の一般人なのであろうが、普通の基準が『裏』側である和樹に対してその常識を求めるのは、少々酷なことである。
いっそのこと、玄造に誘われたように道場に出ようかとも考えたが、どうせ与えられた機会だ、最低限以外気を張らない生活をゆるりと楽しもうかと考えたのだ。
……考えたのだが、それは特に仕事がない時の彼の生活そのものであり、それは一般人とは違うのでは? と思い直したのである。
「……学校が終わるのは三時くらいだよなぁ。その後はあいつらに聞いてみるとして、とりあえずぶらついてみるか……?」
だが、ここで問題となったのは和樹の風貌だ。よれよれのスーツとアイロンもかけていないYシャツ。極めつけのボロボロのコートは、大事なものなので外せないとしても、どう見たところで一般的な服装ではない。とりあえず、何かを買う方が良いだろう。
「……服でも買いに行くか」
「服を買いに行くんですか?」
「……ええ」
独り言に突然割り込んできた香織の声に、少しだけ驚きながらも答えを返す。
対して香織はあまり面白くなさそうに唇をとがらせながら、和樹の瞳をじっとのぞきこんだ。
「むぅ……もう少し驚いてくれてもいいと思いますけど」
「居ること自体は解ってたので。オレの意表を突くには修行不足ですよ」
和樹の的確な指摘はまたしても不評だったようで、すり足で近付いてきていた香織は、さらに機嫌を悪くする。
いい歳をして……、と言いそうになった口をぎゅっと戒め、どうかしたんですか? と問い直す。
香織は一度「コホン」と咳払いすると、口元に手を寄せ恥じるような仕草を取りつつ、もじもじしながらお願いをしてきた。
「ええ、もうすぐ買い物に行くつもりなんですが、もし良ければ付き合ってもらえないかと思いまして」
「頬を染めないで言ってくださいよ! 別にいいですけど」
「えっ? いいのですか……? 本当、に?」
「買い物ですよねっ? ふつーの買い物ですよねっ?」
あまりに迫真の演技でしなを作られて、状況的に間違いないにも関わらず思わず二度確認してしまう。
香織はくすくす笑いながら「ええ、普通のお買い物ですよ?」と小悪魔的に口にして、和樹の手をとり歩き出した。二児の母、恐るべしである。
道場の玄造に顔をだし、出かける旨を伝えてから坂道を下る途中で再び和樹を振り返り、声を掛ける。
和樹の手を引いて道場に出た時の、玄造の渋柿を噛んだような顔は忘れない。あれは嫉妬か、あるいは同情かも知れない。どうにも香織は、道場に嫁いできたとは思えないほど茶目っ気が強いようだ。
「ついでに、私が和樹さんの私服を見立てましょう。どうやらずいぶんお悩みのようでしたし」
「ええ、まあ。スーツ姿が一張羅みたいなもので、一般の服は良く分からないので」
「うふふ……楽しみですねぇ。和樹さんを、私色に染められるなんてっ」
あまりに嬉しそうに口にするので、本心ではないかと疑ってしまう。
――えーと……ほんとに、染めるつもりなんてありませんよね?
思わずそんな気持ちを視線に込めたのだが、気付いてもらえるはずもなく、後を追うしかなかった。
「……あ」
そういえば、とふと気付く。
「ん? どうしましたか、和樹さん?」
「――いや、なんでもない」
――そういえば、母子の年齢差のある女性と買い物に行くのは、これが初めてだなと思っただけだ。
「……香織さんがどんな服を見繕ってくれるのか、楽しみだなと思っただけです」
けど、そんなことを言っても、香織を困らせるだけなのは目に見えているし、今はただ、そのような機会が巡ったことを喜べばいいだろう。
「あら! なら、期待に添えるように頑張りましょうか!」
香織が伝える、この小さな温もりを感じればいいだろう。
――ああ、これが一般的な家庭の買い物、なのかも知れない。
和樹は小さく笑いながら、今まで感じたことがない類の温もりに、自分が手に入れられない――手に入れる権利を放棄した温もりを確かに感じた気がした。
すこしだけ、その感触に胸が焦がれた。




