悪役令嬢の覚醒――ドレスを纏い、クソ親父のサーカス(玉座の間)へ
――ガシッ!
二度目の奇跡。キリアンの驚異的な反射神経が私を救った。彼の両手が私の腰を力強く掴み、まるで行く手を阻む頑丈な城壁のような彼の胸板へと、私の体を再び強引に引き寄せたのだ。
あまりにも近すぎる距離のせいで、彼から漂う男らしい圧倒的な威圧感が厨房に充満し、私の自由は完全に奪われてしまった。
私の心臓はもはや限界突破の爆速ドラムを刻み始めている。だが、頬に広がりつつあるこの致命的な『照れ(サルティング)』を必死に覆い隠すため、私の前世のヤンキー(貧乏学生)魂がフィルターなしで炸裂した。
私は彼の深紅の瞳をじっと見つめると、これっぽっちも悪びれない無表情のまま、耳元で静かに囁いてやった。
「偉大なる公爵閣下……お願いですから、このまま私を大理石の床へ落としていただけませんか? この厨房の床の方が、下心が透けて見えるあなたの腕の中よりも、遥かにフカフカで安全な気がするんですけれど」
私のあまりにも斜め上すぎる要求を耳にした瞬間、キリアンの目が鋭く細められた。彼の端正な輪郭がピキッと硬直する。
天をも衝くほどの彼の傲慢なプライドとエゴが、今まさに正面から大打撃を食らったのだ。
帝国中の全女性が血眼になって恋い焦がれるこの若き公爵が、あろうことか自分の婚約者から「床に放り投げろ」と懇願されたのである。
「……それがお前の望みか?」
キリアンは低く囁いた。その声は、一瞬にしてドスの利いた氷点下の冷たさへと変わっていた。
「ええ、さっさと落として――」
――ドスン!
「痛っ! クソッタレが!」
私は思わず悲鳴を上げた。
あの男、本当に手を離しやがった!!
何の前触れもなく、これっぽっちの罪悪感も見せずに、キリアンは私の体を自由落下させたのだ。結果、私のお尻は見事に硬い大理石の床へと激突した。
私は突如としてジンジンと痛み出したお尻をさすりながら、信じられないという目で彼を睨みつけた。
なんなのこのサイコパス?! こっちは単なる皮肉のジョーク(社交辞令)のつもりだったのに、マジで落とすなんて! 貴族の気品もへったくれもあったもんじゃないわ!
キリアンはスッと背筋を伸ばして直立すると、少しクシャクシャになったシャツの襟元をどこまでもエレガントな仕草で整えた。
その姿は、帝国王女を床に落としたというよりも、ただそこらへんの米俵を一俵落としただけと言わんばかりの平然としたものだった。
しかし、彼は顔をふいっと背けた。その顔は――怒りを堪えているのか、あるいは先ほどのゼロ距離の接触による動揺(照れ隠し)のせいか――耳元まで真っ赤に染まっていた。彼はバツが悪そうにンホンホと咳払いをし、ひび割れたプライドを必死に取り繕おうとする。
「私はただ、婚約者の望みを忠実に叶えてやったまでだ」
彼は再び、いつもの傲慢で絶対的なトーンを張り直して冷徹に言い放った。
私はお尻の痛みに耐えながら、よろよろと立ち上がると、怒りで顔を真っ赤にして腰に手を当てた。
「偉大なる公爵閣下、あなたは本当に絵に描いたような冷血漢(最低のサイコ野郎)ですこと! 明日の朝、あなたの愛剣が跡形もなく真っ赤にサビ付いてしまう呪いをかけてあげるわ!」
キリアンは私のその必死の呪い言葉(捨て台詞)に言い返すことはしなかった。彼は大股で厨房の裏口の扉へと歩みを進めた。だが、その足取りが扉の敷居の手前でピタリと止まる。
彼は振り返ることなく、木製の扉の取っ手を、みしみしと小さな音が鳴るほどの強さで握りしめていた。
昨晩のあのあり得ない妄想――黒髪を持ち、アリーシアのような鋭い瞳をした小さな女の子が自分を「パパ」と呼ぶ幻影が突如として脳裏にリフレインし、帝国軍最高司令官の顔は罪悪感と複雑な感情で首元まで完全に真っ赤に染まった。
「……風呂にでも入れ、アリーシア」
キリアンは低く、少し無理に作ったような掠れた声で冷徹に言い放った。
「ネグリジェがニンニク臭い。およそ王女の器とは思えん」
――バタンッ!
彼は厨房の裏口の扉を激しく閉め、硬い足取りで立ち去っていった。
私はその場にポカンと取り残され、固く閉ざされた扉を限界まで忌々しげな目で見つめていた。
「クソッタレ! 人の料理を皿までピカピカに平らげておいて、ニンニク臭いだの何だの! あいつのせいで私のお尻のカタチまで平らになっちゃったらどうしてくれんのよ!」
私は誰もいない扉に向かって怒りを爆発させ、鉄製の中華ヘラをシンクの中へガシャーンと叩きつけた。
私はドスドスと怒り心頭で床を踏み鳴らし、自分の離宮へと歩き出した。
あいつをドン引きさせる計画だったのに、結果的に腰を痛める羽目になるなんて。
でもまあ知ったことか、今朝の胃袋に旨味調味料をぶち込むというミッションは大成功を収めたんだから!
だがしかし、今すぐこの疲労困憊の肉体を休めようと、神聖なる決意とともに王女の離宮へと足を踏み入れたその瞬間……私の足はピタリと止まった。
離宮の広間には、数人のベテラン侍女と皇帝直属の親衛騎士たちが、顔を真っ青にして整列していたのだ。
「アリーシア王女殿下」
筆頭侍女が即座に敬虔な様子で跪き、頭を深く垂れた。
「皇帝陛下が、ただちに本宮の大広間へ出頭せよとのことです……今この瞬間に、でございます。帝国の緊急会議がすでに開始されております」
私は片方の眉をわずかに上げた。緊急会議? 察するに、昨日の夕方に私が跡形もなくぶち壊してやった皇后主催のティーパーティーの件で、皇后派閥の連中が怒り狂って噛みついてきたに違いないわ。
「わかったわ。そこを退きなさい、まずは着替えを済ませるから」
私はわざと本物のアリーシアらしい、冷徹で距離を置いた口調で静かに命じた。
私は見習い侍女たちに急かされるまま、夜の闇を思わせるミッドナイトブルーの豪華な正装ドレスへと着替えさせた。
彼女たちが私の背中のコルセットの紐をギュッと引き絞った瞬間、私の肺が「人権侵害だ!」と心の中で叫び声を上げた。
「お、王女殿下……締め付け具合はいかがでしょうか?」
見習い侍女の一人が恐怖で声を震わせながら尋ねてきた。シルクのドレスの紐を握る彼女の手は、ガクガクと目に見えて震えている。
私は野蛮に怒鳴り散らしたりはしなかった。代わりに、鏡の反射越しに彼女をチラリと一瞥し、ナイフのように鋭く、冷たく、そして突き刺すような眼光を向けた――気の弱い人間ならそれだけで頸動脈が消し飛びそうな類の眼差しだ。
「もしその不器用な指先が、あと一センチでも優しくない強さで紐を引いたなら」
私はどこまでも静かに、滑らかに、しかし彼女の精神を限界まで叩き潰すようなトーンで囁いた。
「二度とその手で宮廷の櫛を握れなくしてあげるから覚悟しておきなさい。……理解できたかしら?」
「ひ、理解いたしました、王女殿下! どうかお許しを!」
侍女は瞬時に死人のように青ざめ、私の肺の安全(前世の元・貧乏学生の呼吸)を確保するために慌ててコルセットの紐を少し緩めた。
(よしよし、それでいいのよ。これで私の肺の平和は守られたわ。元のアリーシアの『脅迫マッスルメモリー』が優秀で本当に助かったわね)
私は無事に普通の呼吸ができたことに心の中で快哉を叫んだ。
別の侍女が、宝石が散りばめられた銀の櫛を手に、恐る恐る歩み寄ってきた。
まるで世界一高価な割れ物にでも触れるかのような極めて慎重な手つきで、彼女は私の長く波打つ黄金の髪を梳かし始めた。
「王女殿下、この宝石の髪飾りは右側でおよろしいでしょうか?」
彼女は蚊の鳴くような声で上品に囁き、私の目を正面から見つめる度胸すらない様子だった。
「髪はそのまま肩の後ろへ美しく流しておきなさい」
私は顎をツンと上品に支えながら淡々と命じた。
「前髪の数房だけをピンで固定して。会議の最中に視界の邪魔にならないようにね」
「御意にございます、王女殿下」
侍女たちにとって息の詰まるような数分間の沈黙の後、私のメイクとヘアセットがようやく完成した。
私は鏡に映る自分を見つめた。美しく流れる黄金の髪の間に完璧に配置された宝石ピンの輝きの下で、元のアリーシアが持っていた気品あふれるオーラと圧倒的な『最高権力者』のカリスマが、非の打ち所のない完璧さで満ち溢れていた。
私は立ち上がり、ミッドナイトブルーのドレスの裾を豪華に床へ引きずらせた。
「全員、下がって良いわ」
私は冷徹に言い放った。
「はっ、アリーシア王女殿下。会議がつつがなく進みますよう、お祈り申し上げます」
侍女たちは一斉に深く頭を下げると、まるで猛獣の檻から命からがら脱出するかのように、大慌てで部屋から後ずさりしていった。
私は鏡の前でニヤリと不敵な笑みを浮かべ、大広間へ足を進める前にドレスのプリーツを軽く整えた。
(よし、成金スペックの衣装は準備万端ね。さあ、給料泥棒(お荷物)な寄生虫ニートの本領発揮よ。皇帝クソ親父の玉座の間で繰り広げられる『サーカス(喜劇)』を特等席で見物しに行こうじゃないの!)
ギィィィ……。
大広間の純金があしらわれた重厚なオーク材の二重扉が、銀の甲冑をまとった一対の近衛兵の手によって、厳かに、そして壮大に開け放たれた。
「アリーシア・フォン・エルガード王女殿下、ご入場!」
宮廷の式部官が声を大にして告げると、その声は大広間の高い天井の隅々まで厳かに響き渡った。




