元婚約者から攫われました
目を開けば、そこには見知らぬ天井。
ゆっくりと上半身を起こす。カタリナはまず、自分の置かれている状況を把握しようとした。
しかし、少し動いただけで視界がくらりと揺れる。まだ、薬の影響が体に残っているらしい。
「カタリナ! 無理をしちゃダメだ!」
聞き覚えのある声と共に、大きな手がカタリナの体を支える。その時、ふわりと香った。
(ああ、やはり、この匂いは……)
気を失う前にも感じた。禁忌薬の香りに混じる重厚な竜涎香と、微かなサンダルウッド。絶妙な配合で調合された一点ものの香水。忘れもしない。なにせ、この香水をプレゼントしたのはカタリナだ。
顔を上げれば、心配そうなオーギュストの表情が目に入る。
カタリナはぎゅっと眉間に力を入れた。
(なんていう顔をしているのかしら。私を攫ったのは自分でしょうに)
「こんなことをして、タダで済むと思っているのかしら?」
キツく言ったが、オーギュストの表情は変わらない。むしろ、口調が前に戻ったことで嬉しそうな顔をしている。
「思ってないよ」
「ではなぜ……」
「それよりも、はいお水。喉、乾いているでしょう?」
もっと問い詰めたかったが、確かに彼の言う通り喉はカラカラだ。体が水分を欲している。
カタリナはせめてもの抵抗で、オーギュストからカップを奪い、自分で飲んだ。
カップが空になる頃には、すっかり気持ちも落ち着いていた。
「オーギュスト。私、どれくらい寝ていたのかしら」
「うーん。一日は経っていない……くらいかな」
「そんなに⁉」
「薬が思ったよりも効いたみたいだね。どうかな、体にまだ違和感はある?」
おもむろにカタリナの頬に触れ、医者のような目で診てくるオーギュストに、カタリナはたじろいだ。
(雰囲気がいつもと違う……)
「す、少しだけ……」
「そっか。じゃあ、完全に抜けるまではもう少しかかるかな」
どう見てもオーギュストなのだが、記憶の中の彼とは何かが決定的に違う気がして胸がざわつく。
カタリナは視線を逸らし――絶句した。
(室内が明るいから気づかなかったけど……この部屋、窓がひとつもないわ)
視界の端々を確認しても、あるのは壁だけ。その異常性に気づいた瞬間、背筋が凍った。
「……ここは、どこなの?」
「ん? ここは僕とカタリナの家だよ。他に人は誰もいない。真の意味で二人だけの家」
うっとりとした表情でオーギュストはそう言うが、カタリナは理解できなかった。
「何を言って……」
(いいえ。確かに人の気配がないわ。でも、生粋の貴族である彼が使用人なしで暮らせるはずがない。なら……使用人は皆、通いなのね。まずはその人とコンタクトを取らないと……そのためにも、今は大人しくして油断させる必要がある。それにしても、最近姿を見せないと思っていたらまさかこんな……妙なところで行動力があるんだから。まあ、もう私が攫われたことはお父様たちも気づいているだろうし、そのうち見つけてくれるでしょう。セシリアの情報網があれば一日もあれば……というところかしら)
ところが、オーギュストはそんなカタリナの思考を読み切っているかのように薄暗い笑みを浮かべる。
「無駄だよ。この家の名義は僕ではないし、手配した人間も僕とは所縁もない人だから……いくらセシリアでも辿り着くことはできない。ああ、それと通いの使用人もいないから助けを求めることもできないよ。なんていったって、僕はこのために、必要な物は事前に全て揃え、一通りの家事スキルを身につけたんだからね。正真正銘、ここは僕たち二人だけの秘密の城なんだよ」
恍惚とした表情で甘く囁くオーギュストの姿に狂気を感じ、カタリナは顔を引きつらせた。
しばらくの間、カタリナは思考を巡らせたが結局いい案は思いつかなかった。
「どうして、ここまでするの?」
「どうしてって……こうでもしないと、カタリナは僕以外の誰かのものになっちゃうでしょう?」
アンバーの瞳が陰る。
カタリナは慌てて強引に別の話題を振った。
「オーギュスト! それより、私お腹が減ったわ。あなたのその家事スキルとやらを早速振るってもらってもいいかしら?」
(この短期間では到底プロと同じ技量を身に付けるのは無理。口が肥えている彼ならそのうち音を上げるはず。その時がチャンスね)
本心は奥深くに隠し、媚びるようにお願いした。彼は頼られたことが嬉しいのか目を輝かせ、頷く。
「うん。待っていて! すぐ準備するからさ!」
オーギュストが部屋を出ていくのを笑顔で見送った。
しばらくして、カタリナは静かに動き始める。
部屋の中を探索してわかったのは……扉は一つ。鍵は外側のみ。隠れ通路や部屋はない、ということ。
(まさに監禁を目的としたような部屋ね。状態からして、新築ではない。……そういう趣味を持った貴族から買い取ったのかしら。噂では聞いたことがあったけれど、まさか自分がされる側になるなんて……)
しかも、相手はあのオーギュストだ。学園の皆は、いや、彼の家族やカタリナの家族でさえも、彼がこんな凶行に走っているとは思わないだろう。
(状況はあまり良くないわね。オーギュストの目的が私の婚約阻止というのはわかったけれど、その後はどうするつもりなのかしら。確か以前、『私の隣を諦めてない』とか言っていたから……最終目標は再婚約?)
ミラとのことが片付いた時点でオーギュストの除籍の話がなくなったことはカタリナも知っている。けれど、その後サウェル公爵家で彼の扱いをどうすることになったのか、までは聞いていない。
(オーギュストからすれば私と復縁するのが一番楽だものね。気持ちはわかるけれど、こんなことをしたところで、さらにその選択肢から遠ざかるとは思わなかったのかしら……まさか、既成事実を作ろうなんて考えていないわよね?)
サアッと血が引く。さすがにそんなわけ……と思いながらもその可能性が一番高い気がしてならない。
あのオーギュストがカタリナに無体なことをするとは思いたくないが、人というのは極限状態に陥ると何をしでかすか分からない生き物である。今の彼が冷静だとは思えない。それに、何もなかったとしても、この状況が外部にバレるだけでカタリナとしては大ダメージとなる。
(最悪だわ……今日中にでもこの家から脱出しないと)
カタリナはもう一度、今度は先ほどよりも念入りに部屋の中を調べ始めた。
「カタリナ、できたよー。って、どうしたの? すごく疲れているみたいだけど」
ベッドでうつ伏せになっているカタリナを見て、オーギュストが目を丸くする。
カタリナは彼にジト目を向けた。
「別に……って、本当にこれを全部ひとりでオーギュストが作ったの⁉」
テーブルの上には、品数こそ少ないが、侯爵家の食事と見劣りしない料理が並べられていた。
オーギュストは照れたように、嬉しそうに頭をかいている。
「カタリナの口にあうといいけど……」
と言った彼の言葉が謙遜だったことを、カタリナは一口目で理解した。
「お、美味しいわ。絶妙な塩加減。バランスも良い。理想的な食事だわ」
彼を油断させるために持ち上げる……なんてことしなくとも、本気でオーギュストの作った料理はカタリナの好みだった。
(オーギュストにこんな才能があったなんて……)
「……本当にオーギュストが作ったの?」
つい疑う発言をしてしまい「しまった!」と思ったが、彼は気にした様子もなく、「うん」と頷いた。
「カタリナのために頑張ったんだ」
ふにゃりと笑うオーギュストはいつも通りで、警戒心が和らいでしまう。それが作戦だったのかもしれない。気づけば再びカタリナの意識は飛んでいた。
「ん……」
暗闇の中起き上がる。
(またベッドの上だわ……)
オレンジ色の光源に惹かれ、視線を向ければ、こちらをじっと見ているオーギュストと目があった。
ぎょっとしたものの、怯えてばかりではいられないと彼と向き合う。
「オーギュスト。また、薬を使ったわね」
「うん」と事もなげに頷くオーギュスト。カタリナはぎゅっと眉間に力を入れ、睨みつけた。
「どうしてよ。逃げようとしたわけでもないのに……」
「逃げようとはしていないけど……どうやって逃げるかはずっと考えていたよね? それに焦ってもいた。だから、先に手を打たせてもらったんだ。あれから二日は経っている……残念だったね。これでもう、カタリナはあいつらと婚約できない」
カタリナは息を呑んだ。
(二日……最悪だわ。計画が潰された。――でも、それでなぜ、加害者側のオーギュストが今にも泣き出しそうな顔をしているの)
近づいてくる彼。その分カタリナは距離を取ろうと後ろに下がったが、ベッドの上だったことを思い出し、止まる。
オーギュストがベッドに乗り上げると、ギシッと音が鳴った。
「カタリナはまだ余裕そうだね。そうだ……いっそのこと言い逃れできない既成事実を作ってしまおうか?」
「え? きゃっ!」
肩を押され、倒れる。抵抗しようとした時にはすでに手首を掴まれていた。
「は、離してちょうだい」
オーギュストの仄暗い瞳がカタリナをじっと見つめる。
「カタリナがあいつら、ううん。僕以外の男と結婚しないって誓ってくれるならいいよ」
「な、何を馬鹿なことを……」
「僕が冗談で言っているように見える?」
「っ」
見えない。むしろ、オーギュストの覚悟のようなものが彼の表情から透けて見えている。
身の危険を感じたカタリナは必死に頭を回す。
(……ここで彼を刺激するのは、あまりにリスクが高く非効率)
「……わかったわ」
「じゃあ、この誓約書に署名して?」
「は?」
利き手である右手だけ解放され、突きつけられる誓約書。
(こんなものまで用意していたの……)
カタリナのことを熟知している彼だからこその手際の良さ。カタリナに纏わること以外だとポンコツにもかかわらず、今は常以上の才能を発揮している。
誓約書をしっかりと読み込んだ上で、サインした。
オーギュストはまだインクの乾ききらないその紙を、安堵と罪悪感が混じったような複雑な顔で回収していく。
(……大丈夫。後々、合意解除すればいい。どうしてもの場合は……ここを出た後、法務官を立てて無効を申し立てれば何とかなるはずよ)
とにかく今優先すべきは、彼の機嫌を損ねないことだ。
掴まれた手首の痛みには気づかないフリをして、カタリナは意識的に口角を上げた。
――ここから逃げるための最短ルートは彼を懐柔すること。
まずは彼を安心させ、その上で、この歪な状況を正していく道を探る。
カタリナのアイスブルーの瞳には、まだ不屈の光が宿っている。
一方で、そんな彼女を視界の全てに収めるオーギュストのアンバーの瞳には、光さえ消し去ってしまいそうな底なしの闇が広がっていた。
光が闇を消し去るのか、それとも闇が光を吞み込むのか。――それはまだ、誰にも分からない。




