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ぞわぞわさん  作者: 大河 亮
第四章
28/37

3

 時間はかかったが島崎はなんとか家にたどり着いた。足はふらつき、顔は熱く、体全体が重い。だが頭は妙に冴えている。今日も何もせず布団に潜り込んで寝るつもりだったが、これではまた生嶋のことを考えてしまって眠れないだろう。そのことも非常に頭にくる。ただ眠れればいいだけなのに。いつもはすぐに眠れるのに。生嶋のことを考えたくないのに。そんなことを考えながら鍵を開けるのは、泥酔状態の島崎には難しかった。イライラしながらもようやく鍵が開いた。無事に帰ってきてしまったのだ。帰る途中に車に轢かれればよかったのに。引きこもっていた部屋から出てきた倉井歩美。生嶋との約束を冗談ということにして反故にしようとしたアキラ。涙ながらに自分に感謝し明日の葬儀も来てくれと言った生嶋の両親。そして生嶋。島崎の頭に次々と浮かんでくる顔。頭に浮かぶ顔からは目を逸らせない。島崎は玄関から少し入ったところで立ち尽くしていた。


「わっ!」突然のことだった。江美子が大きな声で島崎を驚かしにかかったのだ。だが島崎はなんの反応も示さなかった。いつもなら大声を出す島崎が何も言わないことを不審に思ったのか、江美子は玄関の電気をつける。「喪服?ごめんお通夜の帰りだったんだ。てっきりお仕事の帰り」江美子が言い切る前に島崎は江美子を押し倒していた。「キャッ」江美子は小さく声を上げる。温かい。「どうしたの秀ちゃん?ごめん怒った?」江美子はとても心細そうな声で島崎に尋ねる。だが島崎は何も答えず江美子に覆いかぶさったままだ。「あ、わかったいつも私にびっくりさせられてるから逆にびっくりさせようとしてるんでしょ」江美子の手を押さえつけている手により力が込められる。とても普通の女性に振り払える強さではなかった。この前江美子が転びそうになって手を差し伸べたときはすぐに離した。だがもう我慢したくない。「痛い、痛いよ秀ちゃん。やめて」苦悶の表情を浮かべる江美子の手を左手で一纏めにすると、島崎は江美子の乳房に手を伸ばした。服の上からではあったが懐かしい感触だった。もっと触れたい。島崎が江美子の服を捲ろうとしたその時。「お父さん!」ずっと抵抗していた江美子が発した一言に島崎は驚いた。お父さん。離婚するまではずっとそう呼ばれていた。そう呼ぶのは妻の江美子と娘の加奈だけだ。島崎はふっと正気に戻っていた。それと同時に今まで我慢していたものが溢れ出した。「ごめん」島崎は何度も江美子に謝った。江美子もそんな島崎を我が子を抱くようにして慰めた。


 江美子の作った夕食を食べながら島崎は色々なことを話していった。いつもは聞き手に回る島崎だが、今日は自分でも驚く程にひたすら話し続けた。江美子はそれに相槌を打ち言葉を挟むことはしない。楽しい会話ではなかった。だが島崎の気持ちはここ数日で最も晴れやかなものになっていった。もちろんマシというだけで完全に晴れたわけではない。だがまた江美子に救われている。話しながらも島崎はそう感じた。「生嶋くんが殺されて、加奈がぞわぞわさんって言われていじめられてたと知って。それが最近の秀ちゃんかぁ」面識のある生嶋と娘の加奈の話なだけに悲しそうな表情を浮かべる江美子だったが、どこか感慨深そうな雰囲気もある。「俺はどうすればいい」これまでは曲がりなりにも自分一人で答えを出し続けてきた島崎も今回ばかりはお手上げだ。「結局のところ秀ちゃんは答えを持ってると思うよ」蔵和田稔夫もそんなことを言っていた。確かにこれまで人に相談するということをあまりしてこなかったが、いざ答えを求めるとみんなこれか。なんとも感慨深い。自嘲気味に島崎は心の中で呟く。「要するに秀ちゃんがどうしたいかが秀ちゃんがやるべきことなんじゃない?」自分のやりたいこと。酒を飲んで寝たい。それはもう過去の自分。生嶋の無念を晴らしたい。そんな大層なものではないが生嶋に関してはまとめるとそんなところだ。加奈についてはどうだろう。加奈がぞわぞわさん。そんなことはありえない。幽霊はいないのだから。なら加奈の尊厳を著しく傷つけられているのが許せないのだろうか。死んだ加奈は尊厳を傷つけられてももう感知できない。だとするとやはり自分が加奈の尊厳を傷つけられることを許せないのだ。ずっと放置してきて自殺も止められなかった自分にそんなことを思う資格があるのだろうか。いや、この際建前などどうでもいい。加奈を傷つける奴は許さない。絶対に後悔させてやりたい。「俺は犯人を捕まえたい」これしかない。島崎の心が決まった。島崎のはっきりとした言葉を聞いて江美子も微笑んでいる。だが問題は取っ掛りがないことだ。いくら犯人を捕まえたいと意気込んだところで、これまで指紋や足跡は見つかっておらず、防犯カメラにも映らず、目撃証言も小学生四人によるぞわぞわさんがやったというものだけ。生嶋が言っていた通り大勢の刑事たちが散々捜査して現状がこれだ。幽霊がやったと言いたくなる気持ちもわからないでもない。だが人間がやったことなのだからきっとなにか綻びがあるはずだ。


 島崎は夕食を食べ終え居間に寝転がる。辛いことだが直近の事件である生嶋が殺された事件について考えてみることにした。ラーメン屋で島崎と別れた後、帰り道にある空き地で生嶋は殺された。死亡推定時刻、薄井陸の証言、生嶋の服装が島崎と別れた時と同じだったことを考慮するとまず間違いないだろう。恐らく犯人は生嶋が空き地の前を通ったときに困っているフリをするなどしておびき寄せたのだろう。殺害方法は金槌のようなものを使った撲殺。左膝を殴って動けなくしてから頭部を殴って殺害。犯人が困っているフリをしていたのだとしたら、生嶋もあまり警戒せずに近付いたことだろう。しかし今回は前三件の殺人に比べると少し迂闊だ。左膝を殴って動けなくするというところまで考えていたにもかかわらず、生嶋が死ぬ前に立ち去ってしまっている。もう一つ疑問がある。生嶋は普段から警察手帳を所持していた。だが生嶋が握っていたのは警察手帳ではなく自らの名刺だった。警察手帳なら胸ポケットから取り出すだけでいいが、名刺の場合内ポケットから名刺入れを取り出して名刺入れから名刺を取り出さないといけない。何故そんな面倒なことをしたのか。考えられるとすれば三つ。一つは頭を殴られ意識が朦朧としていたために冷静な判断ができなかった場合。この可能性が最も高いと思っていいだろう。二つ目は犯人に見つかる可能性を恐れた場合。警察手帳では手の中に隠しきることができないため、犯人に見つかったときに持ち去られる危険があるが、名刺なら握り潰してしまえば犯人に見つかる心配はない。こちらも十分考えられるだろう。三つ目は生嶋からのなんらかのメッセージである場合。生嶋が死の間際咄嗟に思いつき犯人を指し示すために名刺を握った可能性だ。いわゆるダイイングメッセージ。もしそうだとするなら、生嶋は島崎に手掛かりを残したと思われる。だがあの名刺は何の変哲もないただの名刺だ。生嶋がなにを伝えたかったのかは皆目見当がつかない。それにこの可能性は三つの可能性の中で最も確率の低いものと思われる。考えるだけ無駄。あるいは生嶋の死に意味を持たせたいだけなのかもしれない。わからないが考えなくていいと思える程どうでもいいものでもない。


「じゃあ秀ちゃん、私帰るから。ちゃんとお風呂入ってね」集中していて気付かなかったか、江美子が敢えて声を掛けなかったのか島崎にはわからなかったが、いつの間にか江美子は風呂を入れてくれていたようだ。ちょうど行き詰まりかけていたところだったのでよかった。島崎は玄関まで江美子を見送りに行く。江美子はもう靴を履き始めていた。靴を履き終えた江美子は悲しげな笑顔を島崎に向けると。「生嶋くんが亡くなったのは残念だけどお仕事頑張ってね。生嶋くんはほんとにすごいよ。最後の最後まで秀ちゃんを尊敬してたんだから」「なんでそんなことわかるんだよ」「だって秀ちゃんに捜査の基本だって言われて作った名刺をずっと持ってたんでしょ?」名刺を事件の関係者に渡せば情報提供をしてもらえるかもしれないし、もし渡した相手が犯人ならプレッシャーをかけることができる。名刺は簡単に捨てられない物でもあるので都合がいい。確かに島崎は生嶋に捜査の基本と言って生嶋に名刺を作らせた。生嶋も島崎がよく発する言葉だと思っているようなことを言っていた。半分島崎の口癖のようになっているようだ。島崎はハッとした。「そうか!それかもしれない!」島崎の突然の大声に江美子は驚いている。だがそれもつかの間に島崎は江美子に言った。「すまん江美子。頼みがある」

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