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ぞわぞわさん  作者: 大河 亮
第三章
20/37

5

 蔵和田稔夫の家を出た後もマンションの下で張り込みを続けたが、稔夫が出てくることはなかった。18時で切り上げて署に戻り松井に報告を済ませる。松井は稔夫にアリバイがなかったことに手応えを感じている様子だった。残念ながら稔夫の逮捕に一歩近づいたらしい。「明日も頼みますよ」余計なこと言うな。島崎はそう思いながらも、松井に愛想よく会釈してから帰宅した。


 家の引き戸を開けて中に入ろうとすると、引き戸が少し重くなっている。どうやら建付けが悪くなっているようだ。油を差さないといけない。また今度でいいか。島崎は少し重い引き戸を無理矢理閉めて台所へと向かった。一息つきながら台所の電気をつけると、しまっておいたはずの箸や茶碗がテーブルに置いてある。江美子が来ているのか。一体どこにと島崎が後ろを振り向いたその時。「おかえり」「ふぁあああん」島崎の真後ろに江美子が笑顔で立っていた。島崎はどう見ても驚いていたがなんとかしかめっ面をしてみせる。説得力はないが。「お前どこに隠れてたんだよ」平静を装った声で江美子に聞く島崎。「洗面所でございます。すっごいドキドキしちゃった」そう言ってケラケラ笑う江美子の横をすり抜ける様に、島崎は洗面所に向かい手洗いを始めた。うがいも終えて台所に戻ろうと洗面所の扉を開けると、そこにまた江美子が笑顔で立っていた。「いや、もうびっくりしないぞ」島崎は無表情でそう告げたが、江美子は笑顔のまま無言で島崎に何かを手渡す。島崎は何を渡されたのかと思い確認してみると、潤滑油の入ったスプレー缶だった。もう一度江美子を見てみると、胸の前で手を合わせ上目遣いで島崎を見ている。島崎は深い溜息をついてから玄関に向かうのだった。


「お母さんどうだった?」夕食を食べながら江美子が昨日の様子を訊ねてきた。「どうっていつも通りだったぞ」島崎の言葉に江美子は何度か頷く。「今日お母さんのとこ行ったらいつもより元気そうだったよ」「嘘つけぇ。そんなわけないだろう」「ほんとだもん」江美子はおどけた声を出しながら怒った顔を見せる。別に構わないが真意が掴めない。結局この話はここで終わってしまった。


「そういえばこの前会った蔵和田さんってちょっとかっこよかったよね」島崎の眉がピクッと上がる。「そうかぁ。ただの白髪まじりのオッサンだろう」島崎は無表情を貫いているが明らかに不機嫌な声になっている。「そうかなぁ。白髪まじりなのはほんとだけど私白髪に差別ないし、髪で言うなら短く切りそろえられてて清潔感があったし、声も低くて渋かったし、何よりちょっとミステリアスな感じがかっこよかった」島崎は無表情だが少し唇を噛む。そして飽くまで冷静を装いながら。「別にミステリアスじゃないだろう。暗くて、人を睨むみたいに見てきて、威圧感があって、何より無愛想なだけだ」島崎は飽くまで冷静なつもりである。そんな島崎を見ながら江美子は笑みを浮かべると。「そうだね。秀ちゃんと同じだね」島崎はハッとした。確かに自分も明るい人間ではないし、事情聴取の際に人を睨むように見つめ、それが原因なのかこの前は子供を泣かしてしまった。そして挨拶はするが近所付き合いはほぼ皆無。無愛想と言ってもいいレベルだろう。だがしかし。「俺ってそんなにあいつに似てるのか?」冷静を装っていた島崎もとうとう間抜けな声で聞いてしまう。それを聞いた江美子は満面の笑みを浮かべながら。「うん。だからかっこいいんだよ。私のタイプってこと」島崎はハッとした。またからかわれたのだ。島崎の顔はみるみるうちに赤く染まっていく。跋が悪くなった島崎は味噌汁を啜って誤魔化そうとしたが、慌てていたのが災いして味噌汁が気管に入り、激しくむせ返ってしまう。それを見て江美子はまたケラケラと笑うのだった。


 それからはまた江美子が話して島崎が相槌を打ついつも通りの夕食だった。昨日の従姉妹の娘の結婚式の話、月日が経つのは早いという話、江美子の家の近所の男の子がかわいい話、島崎が向かいの井上さんを高橋さんと間違えた話。最後の話は今日たまたま会った井上さんに直接聞いたらしい。余計なことを。まぁ自分が悪いのか。島崎は罪を認める。


 そうしているうちに島崎は食事を終えて居間に寝転がる。そして今日あったことを思い浮かべていた。結局蔵和田稔夫は誰を一番恨んでいるのだろう。娘をいじめていた連中や強姦した連中も恨んでいると言っていた。稔夫の雰囲気からしてそれは間違いないだろう。だが殺したい程恨んでいるということもなさそうだった。だが稔夫は誰かを殺したい程恨んでいる。その誰かに対する恨みの強さが、他の者への恨みを和らげているのだろう。それが誰なのかが知りたいのにあの男は。だが稔夫は島崎のことを自分と同じだと言っていた。更に江美子も島崎と稔夫は似ていると言っていた。島崎としては稔夫の言葉はともかく、江美子の言葉は信用に足る。今はそれが残念だ。しかし肯定的に捉えるのだとしたら、稔夫の思考を理解できるかもしれないということだ。稔夫が言うには島崎は知らないフリをしているだけ。自分のことを自分が知らないフリなどできるのだろうか。知らない自分がいるということはあっても、知っているものは知っているで片付いてしまうと思う。それが島崎の考えだ。だが一旦否定的な考えは置いておくとすると、自分は何を知っているのか。この前江美子に対して抱いた考えは、自分を憎んでいると言ってほしいというものだ。実際江美子の母親に、あんたが加奈を殺したと言われたときは心がすっきりした。つまり自分が最も恨む人物とは自分自身ということか。確かにそうだ。それはずっと心にあった。だがどうしても辛くて自ら考えないようにしていたのだ。それが知らないフリをするということか。なら自分はどうすればいいのか。自分を恨んでいるのなら死ねばいいのか。それとも苦しみを抱き続けたまま生きればいいのか。これまでは後者だった。そう思いたい。島崎は考え続けた。「お風呂入れとくね」江美子のいつもの言葉で現実に戻る島崎。家に一人でないことを忘れていた。島崎は江美子の方を振り向かずに小さく頷く。江美子がいたから今まで生きてこれた。自分への罰として苦しみながら生きてきたわけじゃない。厳密に言うなら江美子なしでも生きてこれたかもしれないが、それでも自分が今本当に生きていられるのは紛れもなく江美子のお陰だ。なら江美子は何故別れた夫の元に足を運ぶのだろうか。何故世話を焼いてくれるのだろうか。江美子自身が自分といることを望んでいるのだろうか。そう信じたいが、なら何故離婚したのか。どうしてもわからない。江美子。お前はなにを考えて、なにを望んでいる。そう聞ければどれだけ楽なのだろう。島崎はそんなことばかり考えていた。


「じゃあ秀ちゃん。私帰るね」帰り支度を済ませた江美子が島崎にそう告げる。もう江美子が帰ってしまう。いつもより寂しい思いが島崎を包み込む。それでも島崎は江美子を見送るために玄関に向かう。靴を履く江美子を見ながら島崎は。「帰り気をつけろよ」島崎らしいぶっきらぼうな言い方だった。それでも江美子は。「ありがとう」そう言った途端片足立ちで靴を履いていた江美子はバランスを崩して転びそうになる。咄嗟に島崎は江美子の手を掴んだ。本当に咄嗟の判断だった。だが久しぶりに江美子の手を握った島崎。皺が少し増えていたが温かい優しい手のままだった。一緒にいたい。そんな感情が湧き上がり溢れ出しそうになる。それでも島崎は江美子の手を離した。「ありがとう。もう歳かな?昔はこんなの全然平気だったのに」そう言って笑う江美子が島崎は堪らなく愛おしかった。「そうだな。気をつけろよ」それでも気持ちを隠して微笑みながらそう言った。「もう!否定してよ」江美子はまた満面の笑みを浮かべる。そして靴を履き終えた江美子は扉を開けた。だが半分程体を外に出したところでまた振り返って。「さっき秀ちゃんと蔵和田さんは同じって言ったけど、秀ちゃんの方が優しい人だと思うよ」嬉しかった。島崎は少し目頭が熱くなったが。「どっちだよ」と照れていないのに照れたフリをしながら照れていないフリをした。不器用な男。島崎は自分自身をそう評価した。


 江美子が帰った後、風呂の中で島崎はシャワーを浴びながら少しだけ涙を流した。シャワーを浴びながらなら涙は湯で流されてしまう。誰に隠すわけではない。自分から隠すためだ。男は泣いてはいけないと子供の頃父親に躾られた。基本仕事人間で家事をせず、子育てもほとんどしない父親だったが、そういった人の強さのような部分に関しては寧ろ教育熱心と言えた。島崎が泣くと父親は島崎の頭を小突き、酷いときには季節に関係なく無理矢理家の外に追い出して、何時間も家に入れないという制裁を加えた。現代ではまず虐待案件だろう。その環境で育った島崎でさえも当時の父親の教育は度が過ぎていると感じている。父親のようには絶対にならないとも思っていた。しかし今でも人前では絶対に泣かないし、一人の時でも手短に済まし尚且つ誤魔化す。それでも父親のせいにはしない。自分という人間を作るのはいつだって自分自身という考えだからだ。いい夫にも父親にもなれなかったのは自分のせいだ。島崎は激しく顔を洗うと風呂から上がり、よく体を拭いてからスウェットを着て、冷蔵庫のお茶を容器から直接飲んだが勢い余って口の端から零れてしまう。大きな舌打ちを一つしてから床を雑巾で拭く。雑巾にしていたタオルはもうボロボロになっていたのでゴミ箱に投げ捨てたが、少し力が足りず雑巾はゴミ箱の手前に落下した。また大きな舌打ちをしてから雑巾を拾い上げてゴミ箱に叩きつけるように捨てた。なんとなくイライラした状態のまま居間に行く島崎。それでも加奈の仏壇の前に行くと。「おやすみ。加奈」そう言って優しく仏壇の戸を閉める。ふぅ。一息つきながら電気を消して布団に入ると、江美子の笑顔が頭に蘇ってきた。また涙が出たら堪らないと思い、島崎はぎゅっと目を瞑り眠りについた。

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