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島崎の足取りは重たかった。今すぐに帰りたい。いっそ仕事がしたい。そんなことばかり考えている。それ程までに江美子の母親に会いたくなかった。着替えを受付に渡して会わずに帰るという作戦を思いついたが江美子に。「職員さんも忙しいんだから、ちゃんとお母さんに直接渡してね」と釘を刺されていた。それも仕事のうちだろうと島崎は思ったが、そう言われてしまった以上直接渡さざるを得ない。もちろん今江美子による監視はない。不正を働くことは容易だ。しかし後日江美子が来たときにすぐにばれる。職員を口止めするというのはどうだ。駄目だ。いくら職員を口止めしたところで、あの母親が自分の味方をするわけがない。部屋の前に置いていくのは。結局直接渡していないことになるので却下。江美子の母親に見つからないように部屋に侵入し、また見つからないように置いていくというのはどうだろう。これならば一応直接渡したという言い訳が成り立つ。しかしリスクは高い。母親に見つからないだけでは不十分だからだ。職員、同室の人間、入居者に会いにきた親族に見つからないようにしなければならない。不可能ではない。しっかりと人の動きを観察すれば十分可能な作戦だろう。しかし後日江美子が来たときにすぐにばれる。しかもこの作戦を実行してからばれると、江美子はより一層怒るだろう。夫婦生活を送る中で江美子に怒られたことはほとんどなかった。しかしあの母親の血を受け継いでいるだけあって怒ったときは怖い。本当に怖い。この作戦も不可能だ。最後の手段は職員に自分が刑事であることを打ち明け、江美子の母親に着替えを渡してもらい、尚且つ江美子の母には島崎秀幸から渡されたと言うように伝えてもらうというものだ。これならばあの母親も恐らく従うだろう。島崎は自嘲気味に笑いながら老人ホームに入っていった。
江美子の母親の部屋の前に立ち中を覗き込む。どうやらベッドに座って窓の外を見ているようだ。残念ながら寝ていなかった。寝ていてくれれば、寝ていたので起こさなかったと言い訳ができるのに。島崎は小さく溜息をつくと、気を引き締めるように息を吸い扉をノックした。江美子の母がこちらを振り向く。耳も悪くないようだ。顔色もいいし元気そうだ。しかしその顔はみるみる曇っていった。あからさまに嫌な顔を見せる江美子の母。「どちら様ですか」あれだけ嫌な顔をしておいてそれはないだろうと島崎は思う。「お久しぶりですお母さん。江美子の元夫の島崎秀幸です」それでも自己紹介をする島崎。「そうですか。最近物忘れが酷くてね。全く思い出せませんね」ここまで言われると少し可笑しくなってくる。「江美子に頼まれて着替えを持ってきました」笑顔の島崎に対して江美子の母はしかめっ面のままだ。「そう。あの子も余計なことを」江美子の母も気づいたようだ。江美子は島崎と江美子の母の仲を少しでも良くしようと、島崎に着替えを持たせたのだと。こんなことで改善される仲ならとっくに仲良しだろう。というより憎み合っているつもりは島崎にはない。江美子の母が一方的に嫌っているのだと思っている。
島崎はベッドの横にあった椅子に座った。江美子の母は島崎を睨みつけて。「なに!話なんかないよ!」やはり苦手だな。島崎はそう思いながらも席を立たなかった。どういう風の吹き回しかはわからないが、久しぶりに親子の会話をしてみようと思ったのだ。「体調はどうですか。足は痛みますか」江美子の母は足が悪い。トイレ等の短い距離ならどうということはないが、一人で買い物に行ったりはできない。「別に」予想通りの返事が返ってくる。「じゃあここの人たちとは仲良くやってますか」「そこそこだよ」散々覚悟していたおかげかあまり嫌な気分じゃない。部屋に他の人がいないので周りを気にすることもない。「江美子とはいつもどんな話をしていますか」「江美子って馴れ馴れしく呼ばないで。私のこともお母さんと呼ばないで」馴れ馴れしい。確かにその通りなのかもしれない。もう江美子と江美子の母は妻でも母でもないのだから。島崎は次の話題を考えるがなかなか思いつかなかった。「私はずっと反対だったんだよ。江美子があんたと結婚するのには」江美子の母が話し始める。その顔はしかめっ面ではなくどこか悲しそうだ。「初めて会った日から気づいてたよ。あんたは江美子を悲しませるだろうって。子供ができても守れやしないだろうって」窓の方を見ながら悲しい声で話す江美子の母。辛辣な言葉には何も感じなかった島崎だが、悲しい声で話す姿に少し心を揺さぶられる。「それが本当になった。加奈は飛び降り自殺。あんたはそれを止められなかっただけじゃない。いじめが原因だったかもしれないのにろくに調べもせず」そこまで言うと江美子の母は口元を両手で押さえた。辛いのは自分だけではない。目の前の女性も一生消えない傷を背負っているのだ。「あんたのせいだ!あんたが加奈を殺したんだ!」江美子の母は涙を流しながらも島崎を睨みつける。これでいい。これが島崎の望んでいたことだった。加奈を殺したのは自分。決して江美子は口にしない言葉だ。嬉しかった。もしかすると江美子はこうなることを予想して、自分を母親に会わせたのかもしれない。さすがにそれは都合が良すぎるだろうか。島崎はそう考えていた。
島崎は泣いている江美子の母に声をかけることはしなかったが、立ち上がって帰ろうともしなかった。ただ椅子に座っていた。しばらくそうしていると。「もう用は済んだでしょう。帰ってちょうだい」少し落ち着いた様子で江美子の母はそう言った。島崎は感謝の気持ちを伝えようかと思ったが、それはあまりにも酷すぎる。そう思った島崎は。「また来てもいいですか」そう口にしていた。江美子の母はまた渋い顔を見せたが、小さく頷いていた。普通ではない。歪な形ではあったが島崎は初めて彼女と親子の会話ができたのだった。不思議だ。江美子によって無理矢理引き合わされたのに、こんな気持ちになるなんて。もともと嫌っていたわけじゃない。江美子の母は自分よりよっぽどちゃんとした人だ。厳しいところが苦手だったが、今はその厳しさに助けられている。もっと早くに気づくべきだった。本当の厳しさとは優しさなのだと。いつも自分は遅い。その遅さがいつも取り返しのつかないことを引き起こしているのに。島崎はそんなことを考えていたがすっと立ち上がると。「また来ますお母さん。風邪引いたりしないでくださいね」それを聞いた江美子の母はまたしかめっ面をして窓の方を向いてしまった。
島崎が老人ホームの外に出ると、それを待ち構えていたかのようなタイミングで携帯電話に着信があった。そういえば電源を切っていなかったがよかったのだろうかと思いながら画面を見る。電話を掛けてきたのは生嶋だった。わざわざ電話をよこすということはよっぽど良い連絡なのだろう。そう願いながら電話に出る。「どうした」「お休みのところすみません島崎さん。すぐに指定する場所に来てください。三人目です」目を瞑り俯く島崎。また殺された。何もできなかった。犯人の狙いはなんなのかどこを探せばいいのか。生嶋との電話を終えた島崎は苛立ちから携帯電話を地面に投げつけた。こんな感情久しぶりだ。殺人事件に対する関心は年々薄れていた。人の死に慣れていたのだ。だが今は憤りを感じている。ぞわぞわさんと呼ばれた蔵和田想和子のことを弄ぶ殺人鬼に。苦しんで死を選んだ者を弄ぶ奴を絶対に許さない。島崎は少し頭を冷やしてから携帯電話を拾うと、通りかかったタクシーを捕まえて現場へと向かった。




