Part.21:八方ふさがり
だが問題は、カズキが再び扉を固く閉ざした「開かずの家」の奥深くで、イリスの献身的な慰めに耽っている間にも、外の世界では彼に関する悪評が、乾いた枯れ草に火が回るような速さで広がっていたことだった。
親たちは、自分たちが先にイリスを「ゴミ」と呼び、侮辱した事実は完全に棚に上げていた。いや、おそらく彼女らにとって、それは「棚に上げる」という意識すらないのだろう。相手はただの機械であり、家電製品を批判した程度の認識しかないのだ。だからこそ、彼女たちは一点の曇りもない被害者意識で、地域中に警鐘を鳴らした。
「あの家の男は、仕事にも就かずに引きこもっている」
「自分と同じように顔を傷つけたアンドロイドを侍らせて、慰みものにしているらしいわ」
「注意しに行ったら、いきなり殴りかかってきたのよ! 邪魔されれば暴力を厭わない、危険な男だわ」
噂は尾ひれをつけて拡散し、カズキは一夜にして「不気味な隠遁者」から「地域社会を脅かす危険人物」へと変貌させられた。
一方、子どもたち――タケル、ハル、コウタ、ミサキは、大人たちの言葉を冷ややかな目で聞いていた。 彼らは、カズキとイリスとの交流を通じて、二人が親たちが言うような危険人物ではないことを、肌で知っていたからだ。
彼らにとってのカズキは、「顔に大きな傷というハンデを背負いながら、それでも子どもたちに目線を合わせて優しく接してくれる、気のいい人生の先輩」だった。
そしてイリスは、「半分機械の顔という圧倒的な個性と、主人のためなら自らを犠牲にすることも厭わないカッコいい論理を持つ、頼れる機械のお姉さん」だった。
特にタケルは、あの時のカズキの激昂が、単なる暴力衝動ではないことを痛いほど理解していた。あれは、イリスへの侮辱という、彼の最も柔らかく、最も深い愛情の部分を土足で踏み荒らされたことによる、悲痛な防衛反応だったのだ。
だが、彼らが何を信じているかは、もはや問題ではなかった。大人の作る「社会」において、子供の直感は無力だ。
親たちは、自分たちの主張を裏付けるように、カズキの家の付近を交代で定期的に見回り始めた。 「子供たちを守るため」という大義名分を掲げたそれは、子どもたちが再びカズキの家に近づくことを物理的かつ社会的に不可能にするための、徹底的な「監視体制」以外の何物でもなかった。
タケルたちは、遠くの通りから、白く静まり返った家を見つめることしかできなかった。子どもたちの純粋な情熱は、大人の偏見と事なかれ主義という、コンクリートよりも強固な社会的バリアによって、完全に遮断されてしまったのだ。
カズキとイリスの安寧の箱庭は、一時的に開いた扉を外界の拒絶によって再び乱暴に閉ざされ、以前よりもさらに深く、冷たい孤独の中へと封じ込められてしまった。
いつもの駄菓子屋のベンチ。ラムネの瓶を片手に、子どもたちは不満を口にしていた。
「お母さんたちが言ってること、絶対嘘だよね。カズキさん、全然怖くなかったのに……」
ミサキが、ストローを噛みながら悔しそうに呟く。
「そうだよ! イリスさんだって、僕たちと遊んでるとき、表情は動かないけど……でも、ちょっとだけ楽しそうだったじゃん!」
ハルが同意を求めて声を上げる。
カズキの抱える「罪」と、イリスの捧げる「献身」。外界の常識から見れば、それは倫理的に問題のある、歪んだ共依存の絆かもしれない。だが、彼ら子どもたちの目には、それは全く別のものとして映っていた。
それはまるで、彼らが夢中になるゲームやアニメのキャラクターたちが持つ、「世界中を敵に回しても、お互いだけは信じ抜く」という、強固で絶対的な絆の物語のように見えたのだ。傷ついた孤独な主人公と、彼を支える異形のヒロイン。その悲劇的で美しい関係性は、幼い彼らの心を強く魅了してやまない「真実」だった。
「……諦めたくないな」
誰かが、ぽつりと言った。その言葉に、タケルを含めた全員が、無言で頷いた。
夕食の時間が過ぎ、食器を片付ける音が響くリビング。タケルとハルは、テーブルに向かい合って座る母親に、何度目かの説得を試みていた。
「母さん、だからさ。明日だけでいいんだ。ちょっと出かけてくるだけだから」
タケルが努めて冷静に切り出すと、母親は手を止めて、困ったような、それでいて断固とした溜息をついた。
「『ちょっと』って、あの白い家の方でしょう? ダメよ。あそこには近づかないって約束したじゃない」
そんな約束をした記憶はない。
「でも、カズキさんは悪い人じゃないんだよ! 僕たち、友達なんだ!」
ハルが食い下がる。彼の声には、理不尽に対する苛立ちと、友達を否定される悲しみが混じっていた。
「優しくて、ゲームも上手くて……イリスさんだって、顔はちょっと怖いけど、すごく優しいんだ!」
母親は、ハルの剣幕に少し怯んだようだったが、その表情は変わらず厳しかった。彼女は決してヒステリックに怒鳴っているわけではない。むしろ、諭すような、心配げな顔をしている。それが余計にタケルたちを苦しめる。
「ハル、あなたの気持ちはわかるわ。あなたたちがそう言うなら、その人は根っからの悪人じゃないのかもしれない」
「だったら!」
「でもね」母親はハルの言葉を遮った。「ミサキちゃんのお母さんから聞いたわよ。あの日、その人は殴りかかろうとしたんでしょう? どんな理由があっても、暴力はダメよ。ましてや、相手は大人の男性なのよ。もし万が一、あなたたちが怪我でもしたらどうするの?」
「あれは、向こうがイリスさんをひどく言ったから……!」
タケルが割って入る。彼はあの場の空気を知っている。カズキの怒りが、理不尽な侮辱に対する悲痛な叫びだったことを知っている。
「それに、イリスさんが止めたんだ。絶対に暴力を振るわせないように、彼女が管理してる」
「その『彼女』だって、壊れたアンドロイドなんでしょう? 誤作動を起こさないなんて保証、どこにあるの?あの人たちが100%完全に危ない人だなんて、お母さんも思ってないのよ。でも、その一部でも存在する危険な一面が、貴方たちを傷つけないか心配なの。……わかってちょうだい」
母親の言葉は、社会的な正論そのものだった。 「事情があるかもしれない」「今はいい人かもしれない」
だが、「危険な兆候(暴力未遂・破損)」がある以上、親として子供を近づけるわけにはいかない。それは「1%でも危険があるなら回避する」という、親としての愛情と責任に基づく判断だ。
「母さんはね、あなたたちを疑ってるわけじゃないの。でも、何かあってからじゃ遅いの。……ほとぼりが冷めるまで、あるいはあの方の状況がもっとはっきりするまで、我慢しなさい」
「……いつまでだよ、それ」
「さあね。でも、今はダメ。わかったわね?」
母親は会話を打ち切るように背を向け、シンクの水を出した。ジャーッという水音が、タケルたちの言葉を遮断する。
タケルは唇を噛んだ。反論できない。母親の言っていることは、「安全」という観点では間違っていないからだ。 カズキの「人間性」やイリスの「献身」といった内面的な真実は、「安全管理」という外面的な論理の前では無力だった。
ハルが、助けを求めるようにタケルを見た。その目は潤んでいる。タケルは弟の肩を抱き、無言で首を振った。これ以上、家庭内で戦っても無駄だ。母親という壁は、「心配」でできているがゆえに、子どもたちの力だけでは絶対に壊せない。
(……ダメだ。僕たちだけじゃ、どうやっても『常識』には勝てない)
タケルは悟った。 この膠着状態を打破するには、母親よりも強い「社会的な論理」や「権威」を持つ誰か――あるいは、この状況をひっくり返す「ウルトラC」が必要なのだと。
「……行こう、ハル」
タケルは弟を促し、リビングを出た。 彼らの足は、自然と、唯一の理解者であるあの場所へと向かおうとしていた。
お読みいただきありがとうございました。
既に執筆の方は全て完了しておりますので、
最後まで週2回程度のペースで更新していこうと思います。
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