第10話 「見てしまった者」
警視庁を出た氷室は、
夜風に肩を冷やされながら車へ向かった。
胸の奥で鼓動が早まっている。
(……城ヶ崎悠。
もし本当にあいつが“人間じゃない何か”だとしたら──)
考えれば考えるほど、
心がざわつき、混乱が深まっていく。
キーを差し込み、エンジンをかけようとした瞬間。
携帯が震えた。
──妹:氷室彩花
氷室は一瞬、息を飲む。
「彩花……? こんな時間に」
電話に出ると、
妹の声は震えていた。
『……お兄ちゃん……? 今……いい?』
ただならぬ気配。
普通ではない。
氷室はすぐに尋ねる。
「どうした、何があった?」
『……さっき……ね……
会社からの帰り道で……』
声が細く、途切れそうになる。
『……“人が消えた”の……目の前で』
氷室は身体が強張った。
「消えた……?
彩花、ちゃんと話せ。状況は?」
電話越しにかすかな呼吸が聞こえる。
震えが混ざり、涙をこらえている。
『……倉庫の近くを通ったら……
男の人たちがもみ合ってて……
それを……黒いコートの人が見てて……』
黒いコート。
嫌な予感が、氷室の背中を走り抜けた。
「黒いコート……顔は?」
『……見えなかった。
でも……その人が……近づいた瞬間……』
数秒の沈黙。
そのあと、ゆっくり絞り出すように妹は言った。
『……“音が全部”消えたの……』
氷室は、ハッと息を飲んだ。
やはり。
あの夜の異常と同じ現象。
妹は続ける。
『それで……もみ合ってた男性たち……
次の瞬間には……
誰もいなくなっていたの……』
「……彩花。お前、怪我は?」
『……私は……大丈夫。
ただ……怖くて……怖くて……』
声が震え、今にも泣き出しそうだ。
氷室はハンドルを強く握った。
「彩花、すぐ家へ戻れ。
鍵をかけて、誰が来ても開けるな。
いいな?」
『……うん……』
通話が切れる。
氷室は歯を食いしばり、
額をハンドルに押し付けた。
(……もう、偶然じゃない)
身内の証言。
自分の目撃。
倉庫の消失。
そしてまた“音のない空間”。
すべてが一つにつながる。
氷室は静かに呟いた。
「……城ヶ崎悠。
お前は……いったい何者なんだ」
◆
数分後。
氷室は車を急発進させ、
妹が目撃した倉庫へと向かっていた。
だが――
その途中、ふいに道路脇の電柱に貼られたチラシが目に入った。
“行方不明者ポスター”。
氷室は急ブレーキを踏んだ。
そこに貼られている写真。
二日前に消えた男──
妹が目撃したという人物だ。
(間違いない……
やはりあの場所で“消された”)
氷室は背筋が冷たくなる。
だがその瞬間、
さらに異変が目に入った。
ポスターの端が風に揺れた拍子に、
その裏側に――小さな文字が手書きで書かれていた。
黒いマジック。
筆跡は丁寧で、極めて冷静。
こう書かれていた。
──「静寂の裁きは終わらない」
氷室の心臓が凍りつく。
その筆跡は、警視庁の資料で何度も見たことがある。
失踪現場に残される、
あの“正体不明のメッセージ”と同じもの。
氷室は呟いた。
「……城ヶ崎。
やっぱり、これは“お前だ”」
◆
その頃。
街の高台にある夜景の見える場所で。
城ヶ崎悠は、一人静かに立っていた。
携帯の画面には、
氷室彩花が通った道の地図が表示されている。
悠は目を細める。
(見られたか……)
夜風が吹き、
彼の足元に影が揺れる。
悠は淡く呟く。
「……邪魔をするつもりなら、
氷室……
君も“裁き”の対象になる」
その声音は、
冷たく、静かで、
まるで判決文を読み上げるようだった。
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