ep.8 工事
それから数日が過ぎたが、雨は止まない。
水茶屋は休業状態で、川のほとりに住むソの郷の住人たちは、増水したソの河がまた氾濫するのではないか、と不安な毎日を過ごしている。
由の家では、店を開けるためにストックしていた材料を普段の食事で少しづつ消費して、家の周辺のみで過ごす日々が続いていた。
石と別れて暮らすようになって二十日。小雨が降る中、久しぶりに石がやって来た。
「お早いお帰りじゃないですか? あまりに戻って来ないんでお顔を忘れるところでしたよ」
石は弦の嫌味に取り合わず、飄々と家の中に入って来た。
「これをみんなで食ってくれ」
背負ってきた叺(袋)を土間に置く。
中には、どこかから手に入れた塩や米が叺にパンパンに詰め込まれていた。
「ほら、銭」
石は弦に、今日までの(按摩)の稼ぎの入った巾着袋を手渡す。
「いっさん、宿は見つかったんですか?」
巾着袋の重さを感じながら弦が言う。
「ん、見つかったよ」
「どんな所ですか?」
「さあ、あしにゃ見えんからよく分かんねえけど、夜は風通しが良くて冬になると宿客の半分は凍ってあの世に行きそうな、良いとこだよ」
「それの何処が良い所なんですか? そんな所さっさと引き払って移って下さい。私は、こんなにお金は要りませんから。よしさんにはお世話になりっぱなしで、お店が再開した時の材料費は出そうと思ってますけど、その分は取ってありますから」
そう言って、弦は巾着袋を返そうとした。
「自炊しないんですから、朝夕の食事付きの宿にするんですよ。良いですか? ちゃんと毎日食べてるんですか? まさかお酒ばかり飲んでるんじゃないでしょうね」
石は金を受け取らず後退りしていく。
「そこの方が気楽なんだよ。宿人も良い奴が多いしな。宿を管理してる婆さんが飯を作ってくれるから飯の心配は要らねえし。浪人が一人居るんだが、そいつはあしに借りがあって色々言う事聞くから便利使いできて雑用が頼めるしな」
弦が逃げようとする石を追いかける。
「借りって? その方は何をしたんですか」
「夜中に帰って来たことがあったろう。あの日あしに襲いかかって来た奴の一人だったから、それを上手く使ってあしの言う事を聞くように仕向けてんだ」
石はニコッと笑ったが、弦は怒った顔でその石を見ている。
「いっさんに怪我させた犯人ですか? そんな人と一緒に生活してるんですか?」
弦は頭がおかしくなりそうな気がした。
「大丈夫だよう。大した奴じゃねえし、お前は気にするこたぁねえ。じゃあな」
石は外へと飛び出す。
弦は呆れた。
「そんなに慌てなくても、ゆっくりしていけば良いじゃないですか?」
「また来るよ」
石は、バイバイと片手をひらひらさせ雨の中を駆けて行った。
... 間男じゃあるまいし、そんなに慌てる事なんてないのに
弦は「ふん!」と鼻を鳴らし、雨の中遠ざかる少し猫背のがっしりとした背中を眺めた。
「あ、もう行っちゃったの?」
由が部屋から土間に降りてくる。
そして、土間に置かれていた叺を覗いた。
「こんなにいっぱい... 有難いけど、何もしてないから申し訳ないわ。少しゆっくりして行ってくれれば、何か持たせてあげられるのに」
「私も、いっさんに言ったんですけどね。もう糠に釘ですよ。話を聞きやしない」
由は叺を見ながら溜息をついている。
「気にする事はないですよ。いつもそんな感じですから」
と弦は言ったが、由は納得して無いようだ。
それではと、二人で相談して来る頃合いを見計らい、作り置きした饅頭を渡す事にした。
これに石は喜んだ。
「この間のな、饅頭すげえ美味いってみんな喜んでる」
どうやら木賃宿に持って帰り宿人に配ったら受けが良かったようだ。
代わりに漬物や大根などを貰えるので、互いにウィンウィンらしい。
...たぶん、いっさんの事だから酒も貰っているのだろうな
「よしさんに宜しく言ってくれ、じゃあな」
そういうと、今日もさっさと帰ってしまった。
...いつまで此処に居るつもりなの?
と、口から出そうになるのを黙って見送る。
石は木賃宿がよっぽど居心地が良いのか、気にも留めてないようだ。
このままだと、この土地に根を張りそうな勢いだ。梅雨が明けたら、石の重い腰を蹴飛ばしてやろうと弦は思った。
もう一人、家を訪ねて来る人が居る。
定吉は、梅雨入りした始めの頃に比べれば、頻繁に家を訪れるようになっていた。
幼い妙が居るなか、女手だけで自由に町に買い出しにも行けない由を気にかけ、頼み事をよく聞いてくれる。
それ以外にも、近くの農村から野菜や芋などを手に入れて持って来たり、雨漏り修繕もしてくれるので由も感謝しきりだ。
最近は、家で夕食をとって帰る機会も増えた。
ずっと由は、独り者の定吉が年上の子持ち女と噂になると郷のなかで肩身を狭くするんじゃないかと思って、家に招き入れることを躊躇っていたらしい。
だが、今は吹っ切れている。
その事を由は、
「つるちゃんのせいかもね」
と答えた。
悪戯っぽく笑いながら、由は話したが、弦には何のことか分からなかった。
今は離れて暮らしているが、いずれは三人で一緒に暮らすようになるのが自然な流れだろうと弦は思っていた。
最近の郷の中の話で、みんなの噂になっているのはソの河の工事の事だ。
定吉は愚痴を言ったりしないが、雨続きで川の水嵩が増し仕事に取りかかることが全く出来ていないらしい。
心労でやつれていく定吉を、由が心配していた。
「雨はお天道様のする事だから俺達にはどうしようもない。今度、子毛に行ったら多の屋の旦那にちゃんと説明するつもりだ。多分、分かってくれるよ」
定吉は努めて明るく、心配する由に話しかけた。
夏には、江戸からお役人が来て橋の完成お披露目の段取りまで決まっているそうだ。
それまでに完成しなければ管理者である和久家だけじゃなく、主人筋の尾張家の面目は丸潰れ。
工事の遅延は重い処分が課せられ、お家取り潰し(改易)もあり得るような重大な過失になる。
もし間に合いそうにないと分かれば何が何でも完成させるために、ソの郷の職人の命などいくらでも使い捨て何人死のうが工事を必ず完遂させようとするだろう。
江戸での暮らしを通じて、その事を重々理解している定吉は、しばらく眠れない日々を過ごしていた。




