第一章ep.3 助五郎一家《スケゴロウいっか》と石《いし》
【助五郎と石‐スケゴロウといし】
助五郎は、煙草の煙を避けようと後ずさった。
煙草の煙は、助五郎に届く手前で、また空中に消えた。
石が煙草を吹かすたび、まるで狙っているように、煙は、助五郎の顔めがけ泳いでいくが、届きはしない。
助五郎は、険しい顔で石を睨んでいる。
「煙草を吸うたび煙が、わしのほうへ向かってくるんだが、御主人、気を付けてくれ。吸うな!とは言わんが、いまはやめろ」
その言葉を、石は、知らぬふりで聞き流している。
...いっさん、・・・煙草はやめたら?
弦は、もっともだと頷いた。
周囲には、助五郎の怒りが伝わり、緊迫感が漂っている。 だが弦は、石と同じく普段と何も変わらず。
...お饅頭を、もうひとつ頂こうかなぁ
と呑気に考えていた。
見つめる石は、まだ煙草をやめる気配がない。
...ああ、いっさんは意固地になってる・・・
と、弦は思った。
...やれやれ、どうすっかな?
石は他人事のように、いまの状況を感じていた。
近づく助五郎を止めることは出来たが、それで終わりのようだ。
助五郎と連れて来た男達を、この場から追い払うというのは、無理らしい。
...そりゃそうだ、破落戸と云えど、虫じゃあ無えんだから。煙草の煙じゃ追い払えねえよな
まだ煙草を、くゆらせつつ、石はそんなことを考えていた。
「聞こえてるのか?御主人。 わしは、やめろと言ったんだ! あんた分からないのか?」
甲高い声が、更に大きく街道に響いた。助五郎の怒声に、周囲は静まり返る。
石は、ようやく煙管から口を離した。
そして、煙管の灰をコンコンと叩き落とす。
「どこのどなたか存じませんが、御主人ってのは、こそばゆいもんですな。 それはあしが、御主人と呼ばれるような、御立派な者じゃねえからで御座いやしょう」
と言いながら、石は、煙管に新しいタネを詰めなおしていた。煙草をやめる気がない石の様子に、助五郎は、さらに苛立っている。
「じゃあ、あんたはなんだ? この娘の主人じゃないのか?」
石は、その言葉に可笑しそうに、せせら嗤った。 チガウチガウと手を振ると、
「旦那は、勘違いしておられるご様子。 妻は夫に仕えるのが当たり前と、旦那は思われてるんでしょうねえ、むかしから、そんな勘違いしてる人もありますが・・・、糟糠の妻は堂より下さず(ともに苦楽を過ごした妻を粗略に扱ってはならない)とも申しましてね、旦那には糟糠の妻も、当たり前のことに感じるかも知れませんが、あしは妻に感謝しながら毎日を暮らしております。 旦那の考えを押し付けられるは、あしには迷惑千万ってね」
そう捲し立てると、石は詰め替えた煙管を、口に当てる。
...いや、吸うんですか!・・・ と、弦は心の中でツッコんだ。
じぶんを大切に想われてると感じてはいるが、対等とは思っていない。
毎日のように、一方的に面倒をかけられてるとしか弦は思ってないので、石の言葉は心に響かなかった。
白けた周囲の視線に、...敵が多くね? と思いながら、助五郎の出方を待つ石。
世間一般ありがちな『御主人』という言葉を、助五郎が、深い意味があって使っているわけもないが、なぜか歯向かいたくなる。
もう一人の自分が、ここは、上手くやり過ごすのがベストだと言っているが、助五郎の言葉に針を立てる、自分の物言いをやめる気も無かった。
...助五郎とは、なにかしらの前世からの因縁があるんだろう、 じゃあ嫌っても仕方ねえよな
石は、助五郎と上手くやることを諦めた。
助五郎から、夏の日差しのような熱量が伝わって来る、見えなくても分かった。相当、怒っているようだ。
...山一つ、吹っ飛ばしそうなほどの怒りだな
石は、杖を持つ手に力を込めた。
【鬼造と石‐オニゾウといし】
「てめえ誰にモノを言ってるか、分かってるのか?」
野太い声がして、大男が石と助五郎の間に割って入った。
身の丈・六尺(約182㎝)。 この時代の平均身長が155㎝前後だから、いまで云えば、身長二メートルの大男に感じるだろう。
熊のような体つきで、目の前に立たれると視界が、その巨体で覆われる。
その大男は、石の前に四股を踏む力士のように、中腰で構えると、顔をズッ!と前に出し、正面から石を睨みつけた。
並みの人間なら、それで震えあがってしまったに違いない。
目を合わせようとせず、顔を伏せている石を見た大男は、余裕でほくそ笑み、首を横に向けると、弦を見ていた。
... イイ女、・・・あとが楽しみだ
自分に抱かれる蒲団のなかで、淫靡な姿で乱れるその女を想像して、ひとり興奮する大男。 その変態の妄想で、アドレナリンが一気に全身に駆け巡り、鼻息荒く、石に向き直った。
「能書き垂れてんじゃねえぞ、このバカ野郎! 多の屋の旦那さまが、てめえのために困ってらっしゃるじゃねえか‼ てめえには、考える力がってもんがねえのかよ? オイ‼‼」
と、ブチギレた男の名は、鬼造という。
大八車を囲む男達が、その光景を見て、ニヤニヤと嗤っている。
...可哀想にな、鬼造に目を付けられたら終わりだ
刃向かう事が無駄。 それを無駄だと気付かなかった奴らが、どんな目に遭ってきたことか。 男達は、鬼造の前に這いつくばり、「殺さないでくれ」と、命乞いする続ける者達の姿を何度も見てきた。
中年のどこにでもいるオヤジは、鬼造を前にして、完全に脅えてしまっていると、男達は思った。
男達は、石を嘲る者と、哀れに思う者と、ふたつに分かれていた。
「鬼造さん!、さっさとカタをつけてくれよ」
男達のなかのひとりが叫んだ。
「うるせえな。甥っ子だからって、俺に指図するんゃねえぞ」
振り返った鬼造に、睨まれて男は黙り込んだ。
息がかかるまで鬼造が近づくと、空気を吸うのもつらいほど体臭がキツく感じられる。
... 酷え臭いだ、さてはエチケットってもんを知らねえな、鬼造は・・・
周囲からみれば、石は、人喰熊の前に差し出された、哀れな獲物でしかない。
すぐにでも、喰い殺されそうな状況だが、獲物は何故か、自分の状況が見えてないのか? こなれた仕草で煙草入れに手を伸ばすと、火打石を取り出そうとしている。
中年のオヤジが、あまりに身の置かれた状況を把握してないのに気付いて、ニヤついていた男達は、表情を変えた。
... こいつは脳が足りてねえ
と、思った。 いまはもう助五郎が連れて来た連中全員が、石を憐れんでいる。
...このままでは、石さんは殺される・・・
鬼造の恐ろしさ目の当たりにした事がある由は、震えていた。
...石さんは、眼が見えてないから、いまの状況が分かってない・・・
この状況が最悪になるのを止めることが出来るのは、助五郎しかいない。
だが、助五郎と関わりたくない、そう強く思う自分が居て、由は、葛藤していた。
...このままで、見放していいはずがない
助五郎に、頼み事をするのは気が重かった。
だけど、由には、なんの罪もない旅人を見殺しにする事も出来ない。 勇気を出し、一歩、足を前に踏み出そうとすると・・・
「!」
袖口を引かれ、驚いた由。 見ると弦が、自分の着物の袖を掴んでいた。
弦は、いつのまにか腕の中に妙を引き寄せて、守るように抱きしめている。 視線は石に向けていた。
弦は、由に小さな声で囁いた。
「いっさんなら大丈夫です。 こんな人達に負けませんから」
由は鬼造の狂暴さを知らない。弦に、それを伝えようと思うが、弦の石を信じ切っている表情に、口は開いても、言葉が出て来なかった。
弦は、いまの状況に全く不安を感じてない。 さっきまで、互いに笑い話をしていた弦と、今も変わらない。落ち着いた表情を見てると、不思議と由の心も落ち着いてきた。
だが、状況は、好転しているわけではない。 むしろ徐々に悪化している。
鬼造は、石が火打石を擦ろうとしているのに気付くと、煙管を奪い取るために、手を伸ばした。
その手を、まるで見てたかのように、石は掴んで、その巨体ごと下へ引き落とした。
ドスゥン!
地面を揺らすような音がして、鬼造は、両膝からくずれ落ちた。そして、勢いあまって、両手を地面につき、石の前で土下座するような、四つん這いの恰好になった。
石は、鬼造の首根っこに、杖を当てた。 すると、鬼造は、両手両膝を地面に着け、全く動かなくなった。
まわりからは、鬼造のうなじに杖を乗せているだけに思えた。
石は、杖にやさしく手を添えているだけ。 だが、その下の鬼造は、顔を真っ赤にして、ダラダラと汗を搔き始めている。
周囲からどう見えていようが、いまの鬼造は、巨大な岩の下で身動きひとつできない、孫悟空のように、指一つ、動かせずにいた。
...俺に、いま、なにが起きてるんだ?
この瞬間まで、自分の腕力に絶対的な自信を持ち生きてきた鬼造。 力負けするなどあり得ない。 それも、こんなしょぼくれた生きてるだけの中年男に。
もし、鬼造に、中年男の羨む所があると云うなら、それは、妻という女が、若く器量良しという事だけ。
大八車を囲むなかで、鬼造は、腰掛けに座る弦をじっと物色していた。
...もう、羨むのはやめだ。 中年男から奪えばいいだけ
意気揚々と出て来たのは、しょぼくれた中年男を少しでも羨んだ屈辱を晴らすためだけ。最初から、勝ちは決まった退屈なゲームだが、得られる景品は豪華。
...すんなり女房を差し出せば、一発で終わらせる! 抵抗するなら半殺にするだけのこと
...軽くでも、俺の掌で殴れば、こんな中年男はあの世行きかもしれないが、そんな事はどうでもいい。 どうせ、ただの退屈しのぎのお遊びだからな
それが、・・・ 助五郎や、仲間の前で四つん這いさせられ、生まれてはじめて『死にたい』と思った。
鬼造は、静かに藻掻き続けていた。
恥と焦りは汗になって、止まることなくドクドクと流れて、ボタボタと、地面を濡らしていった。
...汗まで臭うのか、もう勘弁してくれ
石は、鬼造など放り投げて、どこかに逃げたい気分だ。
たっぷり二週間、汗を流してない鬼造の身体から、ヘドロのような臭いを発する汗が、滴り落ちる。
足掻けば、足掻くほど、ヘドロ臭は強くなり、地面に汗の染みは広がっていった。
...跳ね返せねえ!、クソ!跳ね返せ! 俺に恥を掻かせたことを、この中年男に後悔させてやるんだ‼
鬼造は、心の内で自分を叱咤するが、身体はまったく動かない。やがて、鬼造の心に、生まれてはじめて『負ける』という言葉が刻まれようとしていた。
【江戸の力士‐えどのりきし】
いまでこそ鬼造は、子毛で、助五郎に買われ、用心棒のような仕事をしているが、江戸に居た頃は、鬼の仙という四股名の将来が有望な力士だった。
鬼の仙は、江戸両国の勧進相撲の興行では圧倒的な力相撲で連勝を続け、大関も夢じゃないと期待されていた。
その順風満帆に見えた相撲人生は、たった一日で崩れた。
ある日、部屋のみんなが集まる稽古場で、遅れてやって来た鬼の仙を見て、師匠の式戸親方が言った。
「遅いやないか。どこに行っとったんや」
鬼の仙は答えず、黙って、四股を踏み始めた。その姿を苦々しい顔で見る式戸。
「なあ、お前は、勝ちすぎて天狗になっとる。ええか、勝てるのは、角力の実力やのうて、その生まれ持った身体のおかげや。しっかり練習せい! 夜な夜な、出かけてばかりで、まともに練習しとらんやないのか!」
鬼の仙は、式戸から目を反らして言った。
「・・・親方、俺は、東の小結。むかし親方は、西の方の小結だったんじゃないですか?」
「だからなんや」
「もう、俺は親方を超えてるでしょう?(江戸時代の相撲番付では西より東が格上とされていた)」
式戸は血相を変え、座敷から土俵に飛び降りた。
バシィ!!
袋竹刀で、頭部を叩く激しい音がして、酷い叱責の言葉が飛ぶ。
式戸は怒りが収まらず、鬼の仙が頭を抱え、膝をついても、袋竹刀で打ち据えた。
「このアホウ!、小結まで成れたんは誰のおかげやと思っとるんや!、ワシや稽古をつけた兄弟子、支えてくれる支援者の方々のおかげやないか!、思い上がるな!!」
式戸は、怒鳴りながら殴りつけ、結局、見学に来ていた支援者や他の力士が止めて、ようやくことは収まった。
鬼の仙=鬼造は、恨んだ。
大勢の稽古を見に来た観客と弟弟子たちの前で、格下の式戸から、酷い叱責を受けるという屈辱を受けた。
怪我を理由にあくる日は休むことが許され、その日の夜、鬼造は、式戸が愛妾の家から帰る所を、待ち伏せすることにした。
その夜、愛妾宅からの帰り道は真っ暗で、式戸は弟子のひとりに行燈を持たせ、夜風にあたりながら悠々と帰っていた。
「鬼の仙の才能は申し分ないが、人様に対する感謝の念が足りてへん。ダメなとこはそこだけや。それさえ身に付ければ、あいつは、東の大関(江戸時代の相撲の最高位)に成れる器なんや」
「はい、関取は、必ずそこまで上り詰める力士です」
「ははは。おまえは、鬼の仙に憧れてとるからな」
「はい、自分は関取に憧れて相撲を続けてます」
鬼造は、いきなり襲い掛かった。
物盗り(強盗)と見せかけ、式戸をしばらく動けない程度に痛めつけるつもりだったが、鬼造は、自分の怪力の加減が分かってなかった。
狂ったように暴れた後、深夜の路上には、首をへし折られて白目を剥き倒れている式戸と、横たわる弟弟子がいた。 目の前に一番可愛がっていた弟弟子の遺体、呆然と見る鬼造の横顔が、焼けた行燈の火に照らされた。
鬼造は、その場から逃げ出すと、家に引き篭もった。
いつか捕まるのではないかという恐怖と可愛がっていた弟弟子を殺した後悔にさいなまれ、毎日酒を浴びた。
やがて事件の調べが終わり、物盗りの仕業ということになった。 鬼造は、結果的にうるさい親方が居なくなったことで自由になり、稽古もそこそこに遊びに出掛けるようになった。
そして、ふと親方の愛妾のことを想った。
...ひとりきりじゃ、心細いだろう
鬼造は、ある夜、式戸の愛妾の家に押し入って、凌辱した。
愛妾は抵抗もできずにされるがまま。そのことを、自分を受け入れたと勘違いした鬼造は、事後に、式戸を殺害したのは自分だと白状してしまう。
「式戸ジジイのせいで、俺が可愛がっていた弟弟子が巻き添えになった。 分かるだろ?俺のさびしさが」
「ええ、分かるわ」
と同調する振りをして、自分の身の安全を守った愛妾は、鬼造を心から軽蔑し、殺したいと思った。 そして、その話を別の愛人に打ち明けた。
話は廻って奉行所に届き、鬼造は、指名手配となった。 間一髪で捕縛を逃れ江戸を脱出すると、当てもなく西へと上った。
そして、江戸から京へと街道沿いにある子毛に立ち寄った時に、助五郎に気に入られ、居着くことになった。
鬼造の尋常ならざる怪力は、なんの役にも立っていない。
石の足下で、自分の身体が潰れないよう、耐えるだけ。 そんな鬼造を見て、男達は唖然としてる。
石は、空いている手で火打石をこすると、吸うわけでもなくそのまま、火種を煙管から落とした。 その燻る火種は、鬼造の手の甲へとポトッと落ちた。
「ウ、ガ%ゲガガ$ガグぁガ!」
手の甲に乗った火種から、肉を燻る匂いする。
手の皮膚を焼かれて、苦痛で身もだえするが、まったく動けない状態では、鬼造は、燻る火種を払うことができない。
その間に、石は、新しい火種のついた煙管を口にくわえ、うまそうに煙草を吹かした。
煙が、ぷかりぷかり・ゆらゆらと、宙を舞う。 助五郎のちょうど頭のうえに一瞬、止まった煙の輪は、助五郎の行く先を暗示しているうようだった。
【右馬‐ウマ】
「ええ加減にせえよ。鬼造! おまえ、何やっとんや」
大八車を囲む男達のなかから、ひとり、また出て来た。
スラリとした細身の役者のような顔に、洒落た紫の着流しで、長ドスをだらりと手に下げ、はだけた胸を掻きながら、悠々と歩いてくる。
「ア、兄貴…」
「アホな義兄弟を持つと苦労するわ。 中年男、俺が相手したるから覚悟せえ!」
男は、長ドスを自分の目の前で、真一文字に持つと、腕に力を込め、口角を上げながら石を睨んだ。