第一章ep.1 関所《せきしょ》と水茶屋《みずちゃや》
【関所‐せきしょ】
江戸時代は、交通の要所に、幕府の管轄する関所という検問所が置かれていた。
関所内の番所には、行き来をする人々を取り調べるために役人が詰めており、その土地に常駐する役人を定番人といった。
石と弦の二人がやって来た番所は、年老いた定番人一人しか居なかった。
弦が声をかけると、長机を前にうたた寝していた定番人は起きて、まだ眠そうな不機嫌な顔で二人を見た。
「御役人さま、御苦労さまです。上方より諏訪参りの目的で旅を続けている夫婦にございます。こちらの手形にお目通し下さい」
弦は、にこやかな顔で、定番の老役人に往来手形を差し出した。
江戸時代の関所の重要な役割は、入鉄砲出女の取り締まりだった。
1に、江戸へ反乱に使われる可能性がある武器が持ち込まれるのを防ぐこと。
2に、地方の国々が江戸屋敷に住まわせている婦女が、自国へ逃げ帰るのを防ぐこと。
そのために、鉄砲の運搬を厳しく監視し、通過する女性の取り調べ(女改め)をする。
女性を取り調べるのは、人見女が行った。通常、老婆や寡婦がその任を負っていたが、通行人の少ない関所では、常に人見女を置く余裕も無く、女改めを(男の)役人が行っていることもあった。
弦は以前に、男の役人から取り調べを受けて不快な思いをしたので、関所も定番人も嫌っている。
関所破りは重罪。簡単に避けるわけにはいかない。毎回、弦を宥めながら行く事になるが、弦は、役人の前では嫌そうな素振りを一切見せないので、石もそれは感心していた。
「これだけ?」
老役人は手形に視線を落としながら、弦の前で親指と人差しを掲げ、指の腹同士を擦り合わせた。金銭を寄こせという意味だ。
「ご面倒をおかけします」
弦は、心付けという金銭を包んだ紙包みを、老役人に差し出した。
手形は、当道座より正規に発行されたもので不備はないはずだが、若い女と盲人の中年男の夫婦という怪しい組み合わせは、取り調べをする理由にはなる。
わずかの金で、揉める事なく通してくれるなら、こちらの方が利口だ。
老役人は、紙包みを袖の下に入れると手形を返した。こんな寂れた関所では、役人の財布が暖まるのは、こんな事くらいしか無いのだろう。
二人が番所を出ようとする、すると老役人がぽつりと言った。
「なにか困ってるなら・・・、言うんだよ」
弦は、老役人を振り返った。
若い娘にワイロをせびったのに良心が咎めたか? それとも、ただの気まぐれか?? 老役人自身も、不用意なことを口走った自分に驚いていた。
手形の内容など、老役人は特に気にしていなかった。形式だけ、それさえ整っていれば、何の問題もない。
ただ、怪しい二人の組み合わせに、内心、若い娘が中年男に欺されて、何処かに売られているんじゃないかと思っていた。しかし面倒な事には、巻き込まれたくない。だから見過ごすつもりだった。
大体、もし捕物(逮捕劇)になったとして、老いた自分に何が出来る?・・・
だが、明るく礼儀を持って自分に接する若い娘を見て、急に遠く彼方に置いてあった正義感が蘇ってしまったようだ。
弦は、俯いたまま、顔を上げようとしない老役人に向かって答えた。
「ありがとうございます。でも心配することはございません」
そう言って弦は石の腕をとり、寄り沿いながら番所を後にした。
老役人は、しばらくしてから顔を上げ、誰も居なくなった番所から外を眺めた。
老役人は、若い頃から皺の数と白髪の数が同じくらいになった今日まで、五街道から外れた、この寂れた脇街道の関所で、定番人を勤めてきた。
若い頃は、大きな夢を抱く気概もあったが、家と御役目のしがらみから抜け出すことが出来ず、気が付けば、事なかれ主義の庶民から小金をせびる役人になっていた。
親も家も仕事も全てを投げ出してしまう無責任さがあれば、もっと違う人生もあったかもしれない。だがこの老役人には、それが出来なかった。 新しい世界へ飛び込む度胸も勇気もない人生。
それは自分の負わされた責任を投げ出さなかった生き方で、誠実であるといえる。
でも周りの人から見れば、つまらない普通の人生なのだろう。
老役人は、誰も居なくなった外の景色を眺めた。昨日と今日も、そして明日も変わらない眺めを、ぼんやりと見ていた。
【水茶屋‐みずちゃや】
関所を抜けるとまた登り坂となり、弦の口数はみるみる減っていった。
息は荒く、歩くのもやっとのはずなのに、弱音は吐かない。
歩幅の違う石に、足並みを揃えようと必死についてくる。
...険しい山道を歩いて来たから、相当疲れてるだろう、早く休ませてやらなきゃ
石も、弦の様子を感じながら焦っていた。
弦の背に手を回して身体を支えた。手が触れたので、握る。それ以外に、いま自分にできることは見つからなかった。
弦は石を見上げ、弱い笑みを浮かべているが、石が気付くことはない。
スンとすると、風が甘い匂いを運んでくるのを感じた。歩いていくと、道沿いに一軒の水茶屋が建っていた。
「店の人、すまねえ。水を一杯もらえねえだろうか?」
水茶屋まで辿り着くと、腰掛けに弦を座らせた。奥に人の気配がしたので、声をかけてみる。弦の身体は、小刻みに震えていた。
石は、弦の異変を感じたが何が起きているのか分からなかった。もう一度、店の奥に声をかけてみた。
「すまねえ、一杯でいい、後で金は払う。水をもらえねえか? 急いでるんだ」
石の声に店の奥に居た女性が表に顔を出した。弦の様子を見ると、すぐ奥へ引っ込む。 そして時間を置かずに、ぬるめの水と温かいお茶の入った茶碗をお盆にのせて現れた。
薄手の着物に割烹着の切れ長の目をした女性は、腰掛けにお盆を置き、そばに屈みこむと震える弦の背中を、優しく擦りながら「大丈夫」と声をかけた。
そして、ぬるめの水が入った茶碗を弦に手渡す。
「冷たいものを飲むと、体がびっくりしてよくないから、ぬるい水を飲んで」
弦は、ゆっくりとその水を飲み干した。
「ありがとうございます」
弦は水を飲んで、少し落ち着いたようだ。だが、身体はまだ震えている。
女性は、弦からぬるい水の入っていた茶碗を受け取って、次は温かいお茶の入った茶碗を手渡した。
器の温もりを感じながら、弦は口に運び、ゆっくりと飲んだ。
「中暑(熱中症)で倒れる寸前だったね。もう少しで危ない所だったよ、我慢してここまで来たんだね」
女性は弦の背中を擦りながら、おだやかな表情で声をかけている。
「姉さん、すまねえ」
「それは、あたしじゃなくこの娘に言うんだよ」
女性は立ち上がると、水の入っていた茶碗を持って店の奥に下がった。
石は、そばに居ながら何も出来ない自分の不甲斐なさを恥じた。宿へと先を急ぐことばかりで、弦の身体の事はまったく考えていなかった。
「大丈夫ですよ、いっさん。もう随分と良くなりましたから」
弦は、目の前でしょげている石の手を取って、震えた声で言った。
... あしはロクでもねえアホウだ
石は黙ってうなずいた。その時の石に出来ることは、弦の手を握り返すことだけだった。
弦が回復するには、まだ時間がかかりそうだったので、しばらくの間、水茶屋に居ることにした。
陽射しはやわらいでるが、湿気が残る街道沿い、日影ではあるが座っているだけで汗が出る。さっきまで吹いてた風も止まり、蒸した空気は停滞している。
店の女性は由と言い、この水茶屋は彼女の店だった。
「由さん、このあたりに素泊りできる宿はねえかな?」
石が尋ねると、
「ここから(街道を)半里(約2キロ)も行けば、子毛の宿って名の宿場町があるから、そこに行けば泊まれるよ」
由が答えた。
ちなみに、石と弦が歩いてきた脇街道は、宿場町の名から子毛山道と、この辺では呼んでるらしい。
二人は腰掛けに座り、注文したお茶と饅頭を待っていた。
体を休めることができたおかげで弦の具合もかなり良くなったようで、いまは由とたわいのない世間話をしている。
由は、ソの郷という河のほとりにある集落に住んでいると話していた。
水茶屋は、普段、四隅に木の柱を置いて支える屋根があるだけで、開店するために必要なものは、ソの郷から荷車を曳いて持って来てるという。荷車には、七輪が据え置きされていて、包丁やまな板、他の食材を入れる木箱も乗せている。
店で売るお茶は、七輪の上に乗せた薬缶で作り、売り物の饅頭と総菜は家で作っているらしい。
由は、腰掛けの後ろにある荷車の七輪の上でお茶を沸かしながら、荷台にある棚の上で饅頭や総菜を用意していた。
総菜をカットする、まな板をトントンと叩く音と、薬缶の湯がシュウシュウを音と立てているなかで、石には、店の中から由とは別の、もう一つ子供の草履の音が聞こえた。
ぱちゃぱちゃと水音もして、水遊びでもしているのかと思っていたら、店から出て来る気配がする。
体の震えも止まり、湿気にほてる顔を、手ぬぐいを団扇代わりに扇いでいた弦は、隣に座る石を見ながら思った。
...煙草が吸いたそう・・でも、さっきのこともあるから遠慮してるんだろうなぁ
弦は煙草が嫌いなので、石に「吸っても良いですよ?」と言うつもりは毛頭無い。出来れば煙草は止めてほしいと願っているが、石が頑固で言う事を聞かない。
弦の額から吹き出る汗が、うなじを伝い背中まで流れてきた。
...気持ち悪い...
弦は扇ぐのをやめ、生温かい手ぬぐいで首まわりの汗を拭うことにした。
「どおぞ」
声のした方を見ると、四、五歳くらいの小さな女の子が弦のそばに立って、濡れた手拭いを弦に差し出している。
その手のひらは、手拭いを力一杯に絞ったようで、紅葉のように手が赤くなっていた。
誰だろう? と思いながら手拭いを受け取る。
「ありがとう」
手に冷やりとした感触。一旦、自分の膝の上に置いて、女の子の冷たい手を自分の両手で包み感謝を伝えた。
女の子は、真っ赤になって店の奥へと消えた。その子供と入れ替わりに、由が二人分のお茶と饅頭を持って現れる。
弦は手拭いを由に見せ、感謝を伝えた。
「気にしないでいいから」
と、ひらひら手を振る由の背後から「お母ちゃん」とさっきの女の子が出て来て、由の足元にすがりついた。
由は、娘の妙だと話した。
母子二人暮らしで、家を空けた時間、娘の面倒を見る人がいないので連れて来てるそうだ。
「この先に川があったでしょ? そこを地元ではソの河って呼んでるの」
「いえ、私たちは迂回して山越えをして来たので、川は見てないんです」
「・・・よくあの山を越えて来れたわね」
小柄で華奢な弦を見て、由は、その体で難所を越えたのかと呆れていた。
「だから中暑(熱中症)になる寸前だったんだね。そんなことしなくても、川を渡る船が少し川下にあるのに、知らなかったの?」
「それだと中仙道からじゃないといけなかったんです。その途中の関所が女性の旅人には特に取り調べが厳しいという噂だったので」
弦が話すと由は笑いながら、「そんなの簡単よ」とその途中にあるという関所の迂回路を話してくれた。
「え~、そんなに簡単だったんですか」
由が話す迂回路には案内人が必要だが、子供でも抜けられる山道だから、女性でも心配ないらしい。
「子毛を過ぎた先の、関所を迂回できる道案内人を知ってるから紹介してあげるわ。お駄賃程度のお金で案内してくれるから」
由が関所抜けの方法を詳しく弦に説明する。石も耳を団扇のように大きくしてその方法を聞いた。
...確かに簡単そうだな、弦が聞いてりゃ覚える必要もねえけど
「ソの河のほとりにソの郷があるのよ」
由は他にお客がいないこともあり、この周辺のことを丁寧に説明してくれた。
【ソの郷‐そのごう】
由の話によると、この水茶屋から子毛の町へ向かう道中に川へと降る横道があり、そこからソの河のほとりにあるソの郷へと出る。ソの郷には数十人が住んでいて小さな集落となっている。
そこにある一軒家に由と妙は二人で暮らしていた。
もともとソの郷は、子毛の町に馴染めなかった余所者が集まった所で、最初はみんな粗末な家に住み、惨めな暮らしをしていたらしい。
人々の日々の暮らしは食うや食わずの生活で、集落の者達は、もう盗みをするか殺して奪うか、そんなギリギリの所まで追い詰められたそうだ。
そんな悲惨な暮らしが続くソの郷に、江戸から定吉という男が流れて来た。
定吉は腕の良い(高い技術を持つ)職人で、その技術を生かし無償でソの郷の粗末な家々を建て替えた。
それだけではなく、働く意欲も生きる気力も無くしていた郷の男達を励まし、一緒に働きながら大工仕事の基礎をみんなに覚えさせた。
やがて、郷の住人全員が雨風の心配なく我が家に住めるようになった頃、ソの郷の男達は一人前の職人になっていたそうだ。
話を聞いて、石は思った。
... 凄えな、定吉ってのは・・・、八面六臂(凄まじい活躍)だ。そんなこと誰彼ともなく出来やしねえぞ
次に、定吉は子毛の町へ行き、町の住人から大工仕事を安価で引き受けると、郷の者たちを引き連れて町に行き仕事をしたそうだ。
安価で丁寧なソの郷の職人たちの仕事は評判を呼び、その噂が子毛で問屋業を営む多の屋の番頭、助五郎の耳に入った。
多の屋は子毛の町の始まりからある古い屋号で、当時は店の主人が代替わりする頃だった。現在の助五郎は、子毛の町代(武士ではない、庶民の役人)を務める町の有力者となっている。
助五郎のツテを得た定吉は、大工仕事を請け負うだけではなく人足業(今でいう人材派遣業)を始めた。
やがてソの郷は職人と人足の集落として町の人々に認知され、明日の食事に困る事はなくなった。いまはソの郷を子毛の分村として認めてもらうため、代官に届け出をする話になっているという。
...頭が切れて政治も出来、腕も良く人柄も良い
... 定吉、お前は奇策を弄して少数で勝ち続けた戦術の天才、楠木正成(鎌倉~南北朝時代の天才的武将)の再来か?
由の話で聞く定吉の、見捨てられた集落を立ち直らせた才覚と行動力は、褒め称えるしかない。
...そんな凄い奴が、なぜこんな辺鄙な山の中に居るんだか?
遠くからやって来て、人里離れた場所や山奥に住み着くような奴は、とんでもない不始末をして、故郷に帰れなくなったか、犯罪起こして逃げてる奴。大抵そんなところだ。
...ああ、煙草が吸いてえな
弦は、煙草嫌いだ。先程、もう少しで弦を危なくする所だったので、反省して自制していた石だっだが、弦も元気になったようなので・・・
...今は良いよな?
弦は、定吉の話を誇らしげに話す由を微笑ましく見ていた。
腰掛けに座る石と弦の間には、一人で綾取りをしている妙がちょこんと座っている。上手出来たようで、自分の手と手の間に作られた箒の形を満足げに眺め、由と弦を見上げた。
「みて、見て」
妙は両手を精一杯伸ばし、紐で編んだ箒を二人に向かって見せた。
この小説には人の命を軽視したり侮辱するような(特に盲目の人や女性に対して)物言い、または乱暴な表現、人を貶める蔑称や男女問わず人や物、地域に対しても差別的な表現がありますが、作者はそれを良しとしているわけではありません。作品のイメージを大事にするために故意に使っている表現ですのでご了承ください。不快だと思うのであれば読まないようにしてください。読む人の選択に任せるものです。