表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
座頭の石 (ざとうのいし)  作者: とおのかげふみ
第三章

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

14/18

第三章ep.6 凶犬《きょうけん》

【凶犬‐きょうけん】


弥切(やキり)芯太(しんた)が、家路(いえじ)へと着いた頃のこと。


...ざまあねえや、子毛(こげ)で一晩過ごすから宿なんてどうでもいいとか思ってたのは何処(どこ)何奴(どいつ)だよ


(いし)は、ウオウ、オウオウ、ウオオン! 盛んに聞こえる(けもの)の遠吠えに(おび)えながら、必死で早足で歩いていた。


「クソー! あしはエサじゃねえぞ。寄って来るんじゃねえ」


いま野犬に襲われたら、ひとたまりもない。(いし)は、深夜の街道でひとり、叫びながら歌った。


その時、カサカサッ! と音がして、街道の脇に並ぶススキ野から、人が飛び出して来た。


ヒュッ!


「?!」


(いし)は、勢いよく街道を転がった。真正面から、横に()ぎ払われた無機質な(かたな)()が、(いし)(かが)んだ頭の上を(かす)めた。


ほんの一瞬遅れれば、首は胴体についてなかったかもしれない。


(いし)は、転がり終わると()いつくばって、その刀の持ち主の男から離れようとしたが、男は近づいて、今度は(いし)の背中に縦に刀を振り下ろした。


ガツン!


出すのが一瞬遅れたが、(じょう)(かつ)ぐようにして(やいば)を受け止め、肩甲骨から背中まで、バッサリと斬られるのは防いだ。そのまま、でんぐり返ししつつ、(じょう)を背後に突き出す。男はのけぞって(いし)から離れた。


...(じょう)で受けなきゃ、一刀(いっとう)()られていた、なんて速さだ!


手で触ると、(ほお)の肉が浅く()げている。


「面白い! 二度もワシの太刀(たち)(かわ)したか‼︎」


男はニヤリと(ワラ)った。


(じょう)を男に向け、腰を据えた。道中(どうちゅう)合羽(がっぱ)のフードが顔を(おお)って、その表情は見えないが、いまの(いし)には、明らかに三人と争った時のような余裕はない。 


「退屈してたんだが、お前のおかげでずいぶんと楽しくなったぞ。ワシの名は狩農(カノウ)俵永(ヒョウエ)。殺す前に、名前を聞いておきたい。有名な奴なら、ワシの(かぶ)(名声)が上がるかもしれんからな、ははは」


...全くどいつもこいつも(名前を知りたがる)、こいつの株を上げるために死ぬつもりはねえぞ


足元に、月の光があたっているのを感じる。


...マズイな、あしの姿は、この男から丸見えだ


(こん)の着流しに一枚、羽織っただけ。両腕の着物の(すそ)を腕を使いやすいように短く断ち、頭は月代(さかやき)を剃らずに伸ばしたまま。俵永(ヒョウエ)は、鬼造(オニゾウ)とまではいかなくても、長身でがっしりした体つきの男で、長刀を手にぶらりと下げた上腕に、田亀(タガメ)のような形をした黒いアザがある。


野良犬がふたりの周りに群がって来た。あたりをウロウロと何頭も徘徊(はいかい)している気配がある。


月明かりから身体を隠せるような場所はないかと、(いし)後退(あとずさ)りする。


...こいつはイカれてるが、かなりの場数を踏んでる奴だ。疲れ切った、いまの状態で戦える相手じゃない。なんとか逃げる方法を考えなけりゃ、ここであの世行きになるぞ


俵永(ヒョウエ)(いし)退()がるのに合わせるように()を進めてくる。その目の前の街道は月に明るく照らされ視界は開けていて、その先に(いし)が隠れる場所は見当たらなかった。


その時、ウオウ! と吠えた野犬が、ススキ野から飛び出して俵永(ヒョウエ)に飛びかかった。俵永(ヒョウエ)は、慌てる事なくその犬を斬り捨てる。そして、真っ二つになった胴体の、下腹部を蹴り飛ばす。


小五月蝿(こうるさい)い野良犬が! (けだもの)が人間様に襲いかかるとは小賢(こざか)しい! さっき一匹、二匹、仲間を切り捨てられたのを恨んだか? おい! 逃げられると思うなよ」


背中を見せる素振(そぶ)りをすると、それに気付いた俵永(ヒョウエ)が寄って来た。(いし)は合わせた両手に隙間(すきま)を作り、息を吹き込んで静かな音を鳴らす。


即興(そっきょう)犬笛(いぬぶえ)だ。まわりを囲んでる犬達に言うことを聞かすなどは出来ないが、人に聞こえない音は、野良犬を強い興奮状態にした。


ウワウ、ワウ、アオウ! 野良犬が一斉に吠え始める。その狂ったような鳴き声に俵永(ヒョウエ)は、足を止めてあたりを見回した。


ギャン! と鳴いて、足を止めた俵永(ヒョウエ)に襲いかかった次の一匹が、胴体をパックリと斬り裂かれて生き絶えた。


俵永(ヒョウエ)はススキの間を駆ける別の一匹を串刺しにして、また飛びかかってきた一匹を返す刀で斬り捨てる。この野犬の頭が、コロコロと街道を転がっていく。


「この狂犬(ケダモノ)が! いい加減にしろ!」


鳴き声が聞こえなくなるまで、俵永(ヒョウエ)(カタナ)を振るう。生き残った野犬は散り散りになって、遠くに逃げていった。


「ようやく居なくなったか、この畜生(チクショウ)共が、クソッタレ! ヤレあいつも消えたか? まあいい。殺したところを見られたわけじゃ無し、散々切り刻んで肉片にして、川に流したからバレるわけも無いからな」


俵永(ヒョウエ)は帯に吊るしてあった瓢箪(ひょうたん)を取ると、口に当て酒を(あお)った。


「しかし酔ったせいで、(つか)の握りが甘かったかもしれん。ワシが不意打(ふいう)ちで()し漏らすとはな。暗殺(しごと)帰りの余興(よきょう)に夜道で歌うバカを斬ってやろうと思っただけだったが、いい拾い物だった。次は、殺してやろう」


俵永(ヒョウエ)は誰も居なくなった街道を見つめて、愉快(ゆかい)そうに笑った。



,,.ありゃなんだ? いまのあしには、相手が悪過ぎる。よく逃げれたもんだ


興奮して自分に襲いかかる可能性もあった(いち)(ばち)かの犬笛(いぬぶえ)だったが、運良く野良犬は全て、俵永(ヒョウエ)に襲いかかりその隙に逃げることが出来た。


ただ足はもつれ、すっ転んで、這々(ほうほう)の体で逃げたので、手足は()(きず)だらけになっていた。


(かたな)を振る音で分かった、恐ろしくそのスピードが速い。まるで爪楊枝(つまようじ)を振るように、楽々と刀を(さば)いていた。あの時、闘ったら生き残れなかったに違いない。


そして、息も絶え絶えになり動けないところまで来ると、草むらに身体を隠した。


...あんな奴を、(よし)の家に連れていくわけにはいかない


自分を追って来ないか耳をそば立て、息を(ひそ)めて、じっとする。


...追ってくるなら、ここで差し違えても必ず仕留める・・・


それから、月は見た目にも分かるくらいに動いた。(いし)は、時間が経ち、ソロソロと草むらから出て来た。


...大丈夫だ


俵永(ヒョウエ)は追って来ない。野良犬の鳴き声もピタリと止んでいる。


ふう・・・ と、深い溜息(ためいき)を吐き、(いし)は、トボトボと歩き始めた。疲れ切った体を引きずるように歩いている。途方なく時間が過ぎた気がした頃、ようやく(よし)の家へと辿(たど)り着くことが出来た。


...やっと眠れる


最後は()いつくばって(よし)の家の玄関の前に行き、戸に体をもたせ掛け一寝入りしようとする。


午前様(ごぜんさま)ですか?」


「!」


戸が開き声がした。体はまったく動かなかった。声の主はよく知ってる。開いた戸のほうに顔を向ける力もない。うなだれて、(ひざ)を抱えて(うつむ)く。


戸口に立つ(つる)が、うずくまるいしを見ている。


()(こく)(深夜前後)までお帰り下さいと申したはずでしたのに、ずいぶんとお帰りが遅いようですね」


もう(いし)には、言い返す気力が無い。


...今日はもう駄目だ


(つる)の声を聞いた事で安心してしまったのだろう、ここで力()きた。


(つる)、あしはもうダメだ」


「いっさん、わたしの質問には、まだ答えてらっしゃいませんが?」


「休みてえよう。説教は明日にして」


「なんです、甘えた声を出して」


(いし)の身体から、酒の匂いが(ただよ)ってきた。


「お酒を飲まれたのですか?」


「うん」


「お酒を呑まれて、ご機嫌で深夜にお帰りですか?」


「、・-。」


「はい?」


モゴモゴと口籠(くちご)もる(いし)の言い訳が、(つる)の怒りに火を注ぐ。


「眠いのはお互い様です。遅いので何かあったのでは? とわたしは寝ずに待っていたんですが、その頃、いっさんはお酒を飲んでいらしたんですね」


(いし)はカチン! とキて振り向いた。どんなに疲れていても、怒りは最後のエネルギーを産むらしい。


「あしは、お前が先に寝てると思ってたけどな、もう五つ六つの子供(ガキ)じゃねえんだ。待っとけ、なんて言ってねえだろ?」


「じゃあ、誰がこの家の戸を開けるんですか?」


「・・...」


言葉に詰まった(いし)は、また(ひざ)を抱えて座り込んだ。


(よし)さんも(たえ)ちゃんも就寝(おやすみ)です。二人を起こすわけにはいかないでしょう」


(つる)が、(いし)を見下すような眼差(まなざ)しで見ている。


「あしは、朝まで外で寝たって大丈夫なんだから、お前は家でゆっくり寝てりゃ良いだろ!」


「大きな声を出さないで、みんな寝てるんですから」


(つる)が、家から出てきた。石の前に屈み、物わかりの悪い子供を(さと)すように話す。


「良いですか? 私たちは、他人様(よそさま)のお家にご厄介(やっかい)になる身です。まだ(いつ)つの子供もいますし、常識を分かって下さい。深夜に帰ってくるなど、そもそも非常識なんですよ。それに、お家の前で見知らぬ男が寝ているなど、近くにお住いの方々が見たら、どんな(うわさ)になるか? 由さんにご迷惑をお掛けすることになるでしょう」


もう、ぐうの音も出ない(いし)は、ダウン寸前のサンドバッグ状態で、(つる)の言葉に殴られるまま。


「それにです。外で寝られると聞きましたが、まだ春先で外はお寒い事でしょうね? 風邪をひくこともありますよね。そういえばこの前、いっさんが風邪を引いたとき、わたしがどれほどお世話したか、もうお忘れになられましたか?」


...この前って、それ一年くらい前の・・・


「元気になられたら、今度はご(はん)が喉を通らないとか、お茶が(にが)いとか、散々我儘(わがまま)を言われましたよね」


(つる)は、過去の不満をぶちまけるモードに入ろうとしている。(いし)は、これは(たま)らんと(つる)の着物の(そで)を掴み訴えた。


「いや、あんまり五月蝿(うるさ)いと、みんな起こしちゃうよ。落ち着けって、あしが悪いのは分かってるんだから」


「そうやって、とりあえず謝れば許してもらえると・・・」


雲間から出た月明かりに照らされて、(いし)の顔が、はっきり見えた。顔には、さっき付けられたような生々(なまなま)しい傷跡(きずあと)がある。


特に皮膚が(めく)れ、肉が剥き出しになっている(ほお)の傷が痛々(いたいた)しい。(つる)は、手を伸ばして、しっかり見ようとした。


「何があったんですか?」


手足も傷だらけで、着物は土と草にまみれている。


「いっさん・・・話して下さい」


真剣な眼差(まなざ)しで、(つる)(いし)に問いかける。


「大したことはねえ。酔ってふらふら歩いてたら、道端(みちっぱた)から土手に落っこちたんだ。()い上がるのに苦労したよ」


ヒヒヒ、(いし)は、そう言って自嘲(わら)った。(つる)は、それに取り合わず(ほお)の傷をじっくり見た。


...刃物(はもの)で、肉を(こそ)げ取った跡だ


言いたいことはあったが、ともかく手当をしなくてはならない。(つる)(いし)の手を取り、むりやり立たせた。


家の土間からタライに水を移し、持って来る。道中(どうちゅう)合羽(がっぱ)をむりやり脱がして、着物についた土や草は払い、タライで顔と手足を洗って、家の中へ。由の親子を起こさないように、静かに招き入れる。


そして、手を引き寝床(ねどこ)へと連れて行った。


『横になって下さい』


(いし)は言われるまま横になると、すぐにイビキをかき始めた。


(つる)は荷物から、清潔(せいけつ)な手拭い取り出して(いし)の首に巻いてやり、巾着(きんちゃく)から膏薬(こうやく)を取り出して和紙(わし)に塗ると頬の傷口に当てた。(いし)が巻いていた手拭いは洗い、もう一枚の手拭いを出して、薬草で揉んで手足を拭く。


半刻(はんとき)ほどその作業を続け、周りを片付けると、(いし)の隣に横になった。向かい合わせだと酒臭い息がかかって嫌なので、寝返りをうち、(つる)は石に背中を見せて眠る事にした。


...少し悪いことをしたかも?


と考えているうちに、(つる)は眠りに落ちた。





【恩‐おん】


それから三~四時間経った。


人が動く気配を感じて、(いし)はそちらの方へ意識を向けた。向こうで、小さな人影が起きている。


(よし)と一緒に寝ていた(たえ)が起きたようだ。(いし)は、身を起こして様子を(うかが)った。


...(かわや)かな? 父親でもねえ、あしはどうすりゃ良いのか?


隣で眠る(つる)を起こそうかどうしようかと考えていると、(よし)が目を覚まして体を起こした。


(よし)(たえ)の身体を抱え「おしっこ?」と聞いている。


(いし)が気付かないふりで横になろうかとか考えていると、(よし)に声をかけられた。


(いし)さん帰ってたの? 全然気づかなかったわ」


(いし)は、恥ずかしそうに頭を下げた。


(つる)だけじゃなくあしも一晩休ませてもらった、すまねえ」


そして、首元に手を当てて


(よし)さんには感謝するしかねえ。本当にありがてえと思ってる」


と言ってまた頭を下げた。薄暗い部屋にかすかな光が差し込んでくる。


「頭下げないでよ、(つる)ちゃんが遊び相手になってくれるから(たえ)も喜んでるし。あたしもつい甘えて、家の手伝いをしてもらって・・・」


「そうかい、少しでも手助けになってるんなら良かった。寝泊まりさせてもらってるんだ、気にしねえでコキ使ってやってくれ、それから・・・」


(いし)は、また首筋に手を当て、口をモゴモゴとなにやら言いにくそうにしている。


(カネ)がちょいと心細くて、ここらで稼ぎてえんだ。それで、しばらく(つる)をこの家に置いてやってもらいたいんだが、いいかな?」


「それは、あたしも有り難いし(たえ)も喜ぶから。でも、(いし)さんはどうするの」


(いし)の顔が、ぱっと明るくなった。


「あしはいいんだ。子毛(こげ)按摩(あんま)の仕事を見つけたから、これからは町に泊まる事する。(ちけ)えほうが便利だしな。ともかく(つる)を頼む」


(いし)は、(よし)に手を合わせ頭を下げた。


「そんな(おが)まなくても、それに按摩(あんま)の仕事って、それは、多の屋の旦那から紹介・・・」


(よし)の言葉を(さえぎ)るように、(たえ)が着物に(すが)りついた。


「お(かあ)ちゃん...」


袖を引っ張られ見下ろすと、我慢できない様子で『早く連れて行って』と(たえ)がねだっている。由は、まだ何か言いたげだったが、(たえ)を抱え上げると(いし)にお辞儀して、家の外へと出ていった。


二人が(かわや)に行き、(いし)は、これからどうするかを考えた。


...ああ言ったものの、アテはねえんだなぁ


按摩(あんま)の客も宿も、今のところは何もない。(つる)の分の寝泊まり出来る所と朝夕の飯は確保出来たので、ほっとしたが、自分の分は自分で見つけないと干上がってしまう。


「しばらく離ればなれだなぁ(つる)。・・・まあ、今生(こんじょう)の別れでもねえし、いつでも会えるか」


ヒヒヒ、と笑う(いし)。ここのところ野宿や農家の納屋を借りたり。(ほこら)で寝泊まりしたりと、離れることが無かったので少し(さび)しい心持ちになったようだ。


(いし)身支度(みじたく)を始めた。

(いし)に、背を向け寝たふりを続ける(つる)


...どこで起きようか? いっさんの支度(したく)を手伝わないと・・・


(よし)の家にしばらく居るのは良いが、昨夜、子毛(こげ)の町で何があったのかが気になる。


(つる)の考えを邪魔するように、背後でばたばたと支度をする(いし)にイライラしながら、(いし)を問いただそうかと迷ったが、正直には応えないだろうと思い直した。


...わたしを置いていったりはしない。大事なことは、きっと話してくれると思う・・・、うるさい。引っ越しするわけでもないのに、身支度一つで、どうしてこんなに騒々(さわが)しいの


(つる)はゆっくりと身体を起こした。


...ともかく、わたしはこの家で過ごせば良いだけ。後は、なんとかなるでしょう


と、自分に言い聞かせ、背後を振り向いた。


「ああ五月蝿(うるさ)い! もう少し静かに身支度できませんか?」


ビクッ! として、(いし)の背中が固まった。


「ともかく、荷物を小分(こわ)けにしましょう。たいして荷物もないのに散らかして、まず持って行く物と、置いていくものを分けて下さい」


(いし)は、泣き笑いのような顔で(つる)を見ている。


(つる)、あしはしばらく留守にするが、お前が寝てる間に、(よし)此処(ここ)に置いてもらえるよう頼んだから」


そう話す(いし)の両手に、杖が握られてあった。


...なんなの? その顔は。それに、その杖を何処(どこ)に仕舞うつもりなんですか?


「わたしの心配は必要ありません。何とでもしますから。それより、怪我のほうはどうですか? 痛みはありませんか? それと、まだ寒いでしょうから厚着して、洗い替えも一つ必要です。ほっとくと着の身着のままなんですから、ちゃんと洗って使うんですよ」


(つる)はぶつぶつと言いながら、そばに置いてあった網袋(あみぶくろ)から、きれいに畳まれた下着の替えと手拭いを取り出し、自分と離れた後の(いし)の暮らしに必要なものと不要なものを小分(こわ)けしていく。


...あの間に、何があったのかしら?


(よし)が、(たえ)を連れて(かわや)から戻ってくると、困った顔で項垂(うなだ)れた(いし)が、一人で荷造りする(つる)の後ろで正座していた。



もう外は、太陽が登る前の穏やかな()が差している。陽光が照らしているが、冷たい夜の空気は変わらずに、まだ肌寒い。


「じゃあ、行く」


(いし)は、見送りに出て来た(つる)に言った。


しばらくの間、離れることが無かったので、(つる)は少し寂しい気もあったが、手のかかる男の世話は少しの間しなくて済むので、気が楽でもあった。


...此処(ここ)に居るのを知らないわけじゃないし、たまには顔を見せに来るでしょう。そのときは、旅に出る時かもしれないけど


数歩、進んで、(いし)はくるりと戻って来た。


「あら、お早いお帰りですね?」


「こいつを持ってた。尺八(こいつ)は置いていくから、大事にしまって置いてくれ」


「・・・」


(つる)が眉をひそめた。


不要なものを分けたんじゃなかったんですか? とその顔に書いてある。


(いし)が、(つる)のそんな様子には気付くはずもなく、帯に挟んでいた尺八(しゃくはち)(つる)に手渡す。


聞いてはいないが、形見なのだろうか? 楽器として使えないものを、なぜ取って置くのかは(つる)にも分からないが、(いし)がとても大事にしてるのは知っていた。


...なんで、こんなに重いのかしら?


竹の尺八(しゃくはち)なのにやたらと重い。これ以外の管楽器(かんがっき)を持った事がないが、普通より重い気はした。


(いし)が、のぼる朝陽と競争するように出ていこうとするので、(よし)が慌てて引き留めた。


(いし)さん、ちょっと待ってよ」


持っていた(ささ)の包みを、


「これを持って行って」


と手渡す。それは、(ゆう)べ残して置いたご飯を握り飯にして、笹で包んだもの。石はその包みを手で触り。


「これは、もらえねえ」


と由に返そうとした。(つる)が今から世話になり、幼い子供もいる家から(めし)をもらうのは(しの)びない(申し訳ない)。


「気にしないで、こんな冷えた残りもので悪いけどね」


(よし)は、冗談の感じで笑って話す。


「いや、うん。だけどこれは、(たえ)ちゃんに食わせてやってくれ。あしは、こんな上等なもんじゃなくて良いんだ」


「大丈夫、うちの分はあるし、昨日から(つる)ちゃんにお世話になって何もできてないから、受け取って」


(よし)は、受け取ろうとしない。困った(いし)に、(つる)が助け舟を出した。


「いっさん、(よし)さんのご厚意に甘えましょう。この御恩は、お返しするときもあるでしょうから」


(つる)にそう言われると、(いし)は握り飯の包みを大事そうに(ふところ)に入れた。少しバツが悪そうなその顔を(つる)は見つめる。


「ちゃんと帰ってきてください」


「分かってる」


まだ(おぼろ)げな日差しのなか、(いし)が去って行くのを、姿が見えなくなるまで(つる)は見送った。



それからふたりは、水茶屋を開くための準備と朝食の支度でバタバタと忙しく働くことになった。


(たえ)は普段は聞き分けの良い子なのに、今日は普段と違い(あわ)ただしかったせいか、むずがって(よし)にしがみつき離れようとしない。


(よし)が、(たえ)にかかりきりになっているので、(つる)は、言葉で教えて貰いながら饅頭(まんじゅう)作りと、朝ごはんの支度を平行して行っていた。


慣れない台所に、朝食の用意に初めての作業と、(つる)は手こずり、(よし)(たえ)の相手をしながら、作業を手伝い二人とも疲れ果てた。


進まない、終わりの見えない、朝の始まりにふたりとも途方にくれている。


(よし)さん、起きてるかい?」


そこに玄関の向こうから、光明が差した気がした。(つる)(よし)は互いに顔を見合わせる。


お互い口にせずとも、何が言いたいのか分かった。


(よし)は、(たえ)を抱えて玄関口に向かい、ガラッ! と勢いよく戸を開けた。そこには、驚き目を丸くする定吉(さだよし)が立っていた。


「お、はよ・う」


過ごしやすい快適な朝には不似合いの、眉間(みけん)皺寄(しわよ)(けわ)しい表情の(よし)に、定吉(さだよし)は顔を引きつらせながら挨拶する。


「もう支度は、・・・」


「お願い!」


定吉(さだよし)の返事を聞くこともなく戸は閉まった。両腕には、(たえ)が残されていた。


何故か? 玄関口の戸を開くことは許されない気がした。


定吉(さだよし)は、抱えた妙を見下ろし、ゆびを咥えた不機嫌そうな(たえ)定吉(さだよし)を見上げている。


「元気かな?」


定吉(さだよし)は明るくご機嫌を(うかが)った。


「げんきじゃない」


...えええ、エエ・・・


(たえ)は、見た目通(めどお)りに、ご立腹(りっぷく)のようだった。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ