第三章ep.6 凶犬《きょうけん》
【凶犬‐きょうけん】
弥切と芯太が、家路へと着いた頃のこと。
...ざまあねえや、子毛で一晩過ごすから宿なんてどうでもいいとか思ってたのは何処の何奴だよ
石は、ウオウ、オウオウ、ウオオン! 盛んに聞こえる獣の遠吠えに怯えながら、必死で早足で歩いていた。
「クソー! あしはエサじゃねえぞ。寄って来るんじゃねえ」
いま野犬に襲われたら、ひとたまりもない。石は、深夜の街道でひとり、叫びながら歌った。
その時、カサカサッ! と音がして、街道の脇に並ぶススキ野から、人が飛び出して来た。
ヒュッ!
「?!」
石は、勢いよく街道を転がった。真正面から、横に薙ぎ払われた無機質な刀の刃が、石の屈んだ頭の上を掠めた。
ほんの一瞬遅れれば、首は胴体についてなかったかもしれない。
石は、転がり終わると這いつくばって、その刀の持ち主の男から離れようとしたが、男は近づいて、今度は石の背中に縦に刀を振り下ろした。
ガツン!
出すのが一瞬遅れたが、杖を担ぐようにして刃を受け止め、肩甲骨から背中まで、バッサリと斬られるのは防いだ。そのまま、でんぐり返ししつつ、杖を背後に突き出す。男はのけぞって石から離れた。
...杖で受けなきゃ、一刀で殺られていた、なんて速さだ!
手で触ると、頬の肉が浅く削げている。
「面白い! 二度もワシの太刀を躱したか‼︎」
男はニヤリと嗤った。
杖を男に向け、腰を据えた。道中合羽のフードが顔を覆って、その表情は見えないが、いまの石には、明らかに三人と争った時のような余裕はない。
「退屈してたんだが、お前のおかげでずいぶんと楽しくなったぞ。ワシの名は狩農俵永。殺す前に、名前を聞いておきたい。有名な奴なら、ワシの株(名声)が上がるかもしれんからな、ははは」
...全くどいつもこいつも(名前を知りたがる)、こいつの株を上げるために死ぬつもりはねえぞ
足元に、月の光があたっているのを感じる。
...マズイな、あしの姿は、この男から丸見えだ
紺の着流しに一枚、羽織っただけ。両腕の着物の裾を腕を使いやすいように短く断ち、頭は月代を剃らずに伸ばしたまま。俵永は、鬼造とまではいかなくても、長身でがっしりした体つきの男で、長刀を手にぶらりと下げた上腕に、田亀のような形をした黒いアザがある。
野良犬がふたりの周りに群がって来た。あたりをウロウロと何頭も徘徊している気配がある。
月明かりから身体を隠せるような場所はないかと、石は後退りする。
...こいつはイカれてるが、かなりの場数を踏んでる奴だ。疲れ切った、いまの状態で戦える相手じゃない。なんとか逃げる方法を考えなけりゃ、ここであの世行きになるぞ
俵永は石が退がるのに合わせるように歩を進めてくる。その目の前の街道は月に明るく照らされ視界は開けていて、その先に石が隠れる場所は見当たらなかった。
その時、ウオウ! と吠えた野犬が、ススキ野から飛び出して俵永に飛びかかった。俵永は、慌てる事なくその犬を斬り捨てる。そして、真っ二つになった胴体の、下腹部を蹴り飛ばす。
「小五月蝿い野良犬が! 獣が人間様に襲いかかるとは小賢しい! さっき一匹、二匹、仲間を切り捨てられたのを恨んだか? おい! 逃げられると思うなよ」
背中を見せる素振りをすると、それに気付いた俵永が寄って来た。石は合わせた両手に隙間を作り、息を吹き込んで静かな音を鳴らす。
即興の犬笛だ。まわりを囲んでる犬達に言うことを聞かすなどは出来ないが、人に聞こえない音は、野良犬を強い興奮状態にした。
ウワウ、ワウ、アオウ! 野良犬が一斉に吠え始める。その狂ったような鳴き声に俵永は、足を止めてあたりを見回した。
ギャン! と鳴いて、足を止めた俵永に襲いかかった次の一匹が、胴体をパックリと斬り裂かれて生き絶えた。
俵永はススキの間を駆ける別の一匹を串刺しにして、また飛びかかってきた一匹を返す刀で斬り捨てる。この野犬の頭が、コロコロと街道を転がっていく。
「この狂犬が! いい加減にしろ!」
鳴き声が聞こえなくなるまで、俵永は刀を振るう。生き残った野犬は散り散りになって、遠くに逃げていった。
「ようやく居なくなったか、この畜生共が、クソッタレ! ヤレあいつも消えたか? まあいい。殺したところを見られたわけじゃ無し、散々切り刻んで肉片にして、川に流したからバレるわけも無いからな」
俵永は帯に吊るしてあった瓢箪を取ると、口に当て酒を煽った。
「しかし酔ったせいで、柄の握りが甘かったかもしれん。ワシが不意打ちで殺し漏らすとはな。暗殺帰りの余興に夜道で歌うバカを斬ってやろうと思っただけだったが、いい拾い物だった。次は、殺してやろう」
俵永は誰も居なくなった街道を見つめて、愉快そうに笑った。
,,.ありゃなんだ? いまのあしには、相手が悪過ぎる。よく逃げれたもんだ
興奮して自分に襲いかかる可能性もあった一か八かの犬笛だったが、運良く野良犬は全て、俵永に襲いかかりその隙に逃げることが出来た。
ただ足はもつれ、すっ転んで、這々の体で逃げたので、手足は擦り傷だらけになっていた。
刀を振る音で分かった、恐ろしくそのスピードが速い。まるで爪楊枝を振るように、楽々と刀を捌いていた。あの時、闘ったら生き残れなかったに違いない。
そして、息も絶え絶えになり動けないところまで来ると、草むらに身体を隠した。
...あんな奴を、由の家に連れていくわけにはいかない
自分を追って来ないか耳をそば立て、息を潜めて、じっとする。
...追ってくるなら、ここで差し違えても必ず仕留める・・・
それから、月は見た目にも分かるくらいに動いた。石は、時間が経ち、ソロソロと草むらから出て来た。
...大丈夫だ
俵永は追って来ない。野良犬の鳴き声もピタリと止んでいる。
ふう・・・ と、深い溜息を吐き、石は、トボトボと歩き始めた。疲れ切った体を引きずるように歩いている。途方なく時間が過ぎた気がした頃、ようやく由の家へと辿り着くことが出来た。
...やっと眠れる
最後は這いつくばって由の家の玄関の前に行き、戸に体をもたせ掛け一寝入りしようとする。
「午前様ですか?」
「!」
戸が開き声がした。体はまったく動かなかった。声の主はよく知ってる。開いた戸のほうに顔を向ける力もない。うなだれて、膝を抱えて俯く。
戸口に立つ弦が、うずくまる石を見ている。
「子の刻(深夜前後)までお帰り下さいと申したはずでしたのに、ずいぶんとお帰りが遅いようですね」
もう石には、言い返す気力が無い。
...今日はもう駄目だ
弦の声を聞いた事で安心してしまったのだろう、ここで力尽きた。
「弦、あしはもうダメだ」
「いっさん、わたしの質問には、まだ答えてらっしゃいませんが?」
「休みてえよう。説教は明日にして」
「なんです、甘えた声を出して」
石の身体から、酒の匂いが漂ってきた。
「お酒を飲まれたのですか?」
「うん」
「お酒を呑まれて、ご機嫌で深夜にお帰りですか?」
「、・-。」
「はい?」
モゴモゴと口籠もる石の言い訳が、弦の怒りに火を注ぐ。
「眠いのはお互い様です。遅いので何かあったのでは? とわたしは寝ずに待っていたんですが、その頃、いっさんはお酒を飲んでいらしたんですね」
石はカチン! とキて振り向いた。どんなに疲れていても、怒りは最後のエネルギーを産むらしい。
「あしは、お前が先に寝てると思ってたけどな、もう五つ六つの子供じゃねえんだ。待っとけ、なんて言ってねえだろ?」
「じゃあ、誰がこの家の戸を開けるんですか?」
「・・...」
言葉に詰まった石は、また膝を抱えて座り込んだ。
「由さんも妙ちゃんも就寝です。二人を起こすわけにはいかないでしょう」
弦が、石を見下すような眼差しで見ている。
「あしは、朝まで外で寝たって大丈夫なんだから、お前は家でゆっくり寝てりゃ良いだろ!」
「大きな声を出さないで、みんな寝てるんですから」
弦が、家から出てきた。石の前に屈み、物わかりの悪い子供を諭すように話す。
「良いですか? 私たちは、他人様のお家にご厄介になる身です。まだ五つの子供もいますし、常識を分かって下さい。深夜に帰ってくるなど、そもそも非常識なんですよ。それに、お家の前で見知らぬ男が寝ているなど、近くにお住いの方々が見たら、どんな噂になるか? 由さんにご迷惑をお掛けすることになるでしょう」
もう、ぐうの音も出ない石は、ダウン寸前のサンドバッグ状態で、弦の言葉に殴られるまま。
「それにです。外で寝られると聞きましたが、まだ春先で外はお寒い事でしょうね? 風邪をひくこともありますよね。そういえばこの前、いっさんが風邪を引いたとき、わたしがどれほどお世話したか、もうお忘れになられましたか?」
...この前って、それ一年くらい前の・・・
「元気になられたら、今度はご飯が喉を通らないとか、お茶が苦いとか、散々我儘を言われましたよね」
弦は、過去の不満をぶちまけるモードに入ろうとしている。石は、これは堪らんと弦の着物の袖を掴み訴えた。
「いや、あんまり五月蝿いと、みんな起こしちゃうよ。落ち着けって、あしが悪いのは分かってるんだから」
「そうやって、とりあえず謝れば許してもらえると・・・」
雲間から出た月明かりに照らされて、石の顔が、はっきり見えた。顔には、さっき付けられたような生々しい傷跡がある。
特に皮膚が捲れ、肉が剥き出しになっている頬の傷が痛々しい。弦は、手を伸ばして、しっかり見ようとした。
「何があったんですか?」
手足も傷だらけで、着物は土と草にまみれている。
「いっさん・・・話して下さい」
真剣な眼差しで、弦は石に問いかける。
「大したことはねえ。酔ってふらふら歩いてたら、道端から土手に落っこちたんだ。這い上がるのに苦労したよ」
ヒヒヒ、石は、そう言って自嘲った。弦は、それに取り合わず頬の傷をじっくり見た。
...刃物で、肉を刮げ取った跡だ
言いたいことはあったが、ともかく手当をしなくてはならない。弦は石の手を取り、むりやり立たせた。
家の土間からタライに水を移し、持って来る。道中合羽をむりやり脱がして、着物についた土や草は払い、タライで顔と手足を洗って、家の中へ。由の親子を起こさないように、静かに招き入れる。
そして、手を引き寝床へと連れて行った。
『横になって下さい』
石は言われるまま横になると、すぐにイビキをかき始めた。
弦は荷物から、清潔な手拭い取り出して石の首に巻いてやり、巾着から膏薬を取り出して和紙に塗ると頬の傷口に当てた。石が巻いていた手拭いは洗い、もう一枚の手拭いを出して、薬草で揉んで手足を拭く。
半刻ほどその作業を続け、周りを片付けると、石の隣に横になった。向かい合わせだと酒臭い息がかかって嫌なので、寝返りをうち、弦は石に背中を見せて眠る事にした。
...少し悪いことをしたかも?
と考えているうちに、弦は眠りに落ちた。
【恩‐おん】
それから三~四時間経った。
人が動く気配を感じて、石はそちらの方へ意識を向けた。向こうで、小さな人影が起きている。
由と一緒に寝ていた妙が起きたようだ。石は、身を起こして様子を伺った。
...厠かな? 父親でもねえ、あしはどうすりゃ良いのか?
隣で眠る弦を起こそうかどうしようかと考えていると、由が目を覚まして体を起こした。
由は妙の身体を抱え「おしっこ?」と聞いている。
石が気付かないふりで横になろうかとか考えていると、由に声をかけられた。
「石さん帰ってたの? 全然気づかなかったわ」
石は、恥ずかしそうに頭を下げた。
「弦だけじゃなくあしも一晩休ませてもらった、すまねえ」
そして、首元に手を当てて
「由さんには感謝するしかねえ。本当にありがてえと思ってる」
と言ってまた頭を下げた。薄暗い部屋にかすかな光が差し込んでくる。
「頭下げないでよ、弦ちゃんが遊び相手になってくれるから妙も喜んでるし。あたしもつい甘えて、家の手伝いをしてもらって・・・」
「そうかい、少しでも手助けになってるんなら良かった。寝泊まりさせてもらってるんだ、気にしねえでコキ使ってやってくれ、それから・・・」
石は、また首筋に手を当て、口をモゴモゴとなにやら言いにくそうにしている。
「銭がちょいと心細くて、ここらで稼ぎてえんだ。それで、しばらく弦をこの家に置いてやってもらいたいんだが、いいかな?」
「それは、あたしも有り難いし妙も喜ぶから。でも、石さんはどうするの」
石の顔が、ぱっと明るくなった。
「あしはいいんだ。子毛で按摩の仕事を見つけたから、これからは町に泊まる事する。近えほうが便利だしな。ともかく弦を頼む」
石は、由に手を合わせ頭を下げた。
「そんな拝まなくても、それに按摩の仕事って、それは、多の屋の旦那から紹介・・・」
由の言葉を遮るように、妙が着物に縋りついた。
「お母ちゃん...」
袖を引っ張られ見下ろすと、我慢できない様子で『早く連れて行って』と妙がねだっている。由は、まだ何か言いたげだったが、妙を抱え上げると石にお辞儀して、家の外へと出ていった。
二人が厠に行き、石は、これからどうするかを考えた。
...ああ言ったものの、アテはねえんだなぁ
按摩の客も宿も、今のところは何もない。弦の分の寝泊まり出来る所と朝夕の飯は確保出来たので、ほっとしたが、自分の分は自分で見つけないと干上がってしまう。
「しばらく離ればなれだなぁ弦。・・・まあ、今生の別れでもねえし、いつでも会えるか」
ヒヒヒ、と笑う石。ここのところ野宿や農家の納屋を借りたり。祠で寝泊まりしたりと、離れることが無かったので少し寂しい心持ちになったようだ。
石は身支度を始めた。
石に、背を向け寝たふりを続ける弦。
...どこで起きようか? いっさんの支度を手伝わないと・・・
由の家にしばらく居るのは良いが、昨夜、子毛の町で何があったのかが気になる。
弦の考えを邪魔するように、背後でばたばたと支度をする石にイライラしながら、石を問いただそうかと迷ったが、正直には応えないだろうと思い直した。
...わたしを置いていったりはしない。大事なことは、きっと話してくれると思う・・・、うるさい。引っ越しするわけでもないのに、身支度一つで、どうしてこんなに騒々しいの
弦はゆっくりと身体を起こした。
...ともかく、わたしはこの家で過ごせば良いだけ。後は、なんとかなるでしょう
と、自分に言い聞かせ、背後を振り向いた。
「ああ五月蝿い! もう少し静かに身支度できませんか?」
ビクッ! として、石の背中が固まった。
「ともかく、荷物を小分けにしましょう。たいして荷物もないのに散らかして、まず持って行く物と、置いていくものを分けて下さい」
石は、泣き笑いのような顔で弦を見ている。
「弦、あしはしばらく留守にするが、お前が寝てる間に、由に此処に置いてもらえるよう頼んだから」
そう話す石の両手に、杖が握られてあった。
...なんなの? その顔は。それに、その杖を何処に仕舞うつもりなんですか?
「わたしの心配は必要ありません。何とでもしますから。それより、怪我のほうはどうですか? 痛みはありませんか? それと、まだ寒いでしょうから厚着して、洗い替えも一つ必要です。ほっとくと着の身着のままなんですから、ちゃんと洗って使うんですよ」
弦はぶつぶつと言いながら、そばに置いてあった網袋から、きれいに畳まれた下着の替えと手拭いを取り出し、自分と離れた後の石の暮らしに必要なものと不要なものを小分けしていく。
...あの間に、何があったのかしら?
由が、妙を連れて厠から戻ってくると、困った顔で項垂れた石が、一人で荷造りする弦の後ろで正座していた。
もう外は、太陽が登る前の穏やかな陽が差している。陽光が照らしているが、冷たい夜の空気は変わらずに、まだ肌寒い。
「じゃあ、行く」
石は、見送りに出て来た弦に言った。
しばらくの間、離れることが無かったので、弦は少し寂しい気もあったが、手のかかる男の世話は少しの間しなくて済むので、気が楽でもあった。
...此処に居るのを知らないわけじゃないし、たまには顔を見せに来るでしょう。そのときは、旅に出る時かもしれないけど
数歩、進んで、石はくるりと戻って来た。
「あら、お早いお帰りですね?」
「こいつを持ってた。尺八は置いていくから、大事にしまって置いてくれ」
「・・・」
弦が眉をひそめた。
不要なものを分けたんじゃなかったんですか? とその顔に書いてある。
石が、弦のそんな様子には気付くはずもなく、帯に挟んでいた尺八を弦に手渡す。
聞いてはいないが、形見なのだろうか? 楽器として使えないものを、なぜ取って置くのかは弦にも分からないが、石がとても大事にしてるのは知っていた。
...なんで、こんなに重いのかしら?
竹の尺八なのにやたらと重い。これ以外の管楽器を持った事がないが、普通より重い気はした。
石が、のぼる朝陽と競争するように出ていこうとするので、由が慌てて引き留めた。
「石さん、ちょっと待ってよ」
持っていた笹の包みを、
「これを持って行って」
と手渡す。それは、夕べ残して置いたご飯を握り飯にして、笹で包んだもの。石はその包みを手で触り。
「これは、もらえねえ」
と由に返そうとした。弦が今から世話になり、幼い子供もいる家から飯をもらうのは忍びない(申し訳ない)。
「気にしないで、こんな冷えた残りもので悪いけどね」
由は、冗談の感じで笑って話す。
「いや、うん。だけどこれは、妙ちゃんに食わせてやってくれ。あしは、こんな上等なもんじゃなくて良いんだ」
「大丈夫、うちの分はあるし、昨日から弦ちゃんにお世話になって何もできてないから、受け取って」
由は、受け取ろうとしない。困った石に、弦が助け舟を出した。
「いっさん、由さんのご厚意に甘えましょう。この御恩は、お返しするときもあるでしょうから」
弦にそう言われると、石は握り飯の包みを大事そうに懐に入れた。少しバツが悪そうなその顔を弦は見つめる。
「ちゃんと帰ってきてください」
「分かってる」
まだ朧げな日差しのなか、石が去って行くのを、姿が見えなくなるまで弦は見送った。
それからふたりは、水茶屋を開くための準備と朝食の支度でバタバタと忙しく働くことになった。
妙は普段は聞き分けの良い子なのに、今日は普段と違い慌ただしかったせいか、むずがって由にしがみつき離れようとしない。
由が、妙にかかりきりになっているので、弦は、言葉で教えて貰いながら饅頭作りと、朝ごはんの支度を平行して行っていた。
慣れない台所に、朝食の用意に初めての作業と、弦は手こずり、由も妙の相手をしながら、作業を手伝い二人とも疲れ果てた。
進まない、終わりの見えない、朝の始まりにふたりとも途方にくれている。
「由さん、起きてるかい?」
そこに玄関の向こうから、光明が差した気がした。弦と由は互いに顔を見合わせる。
お互い口にせずとも、何が言いたいのか分かった。
由は、妙を抱えて玄関口に向かい、ガラッ! と勢いよく戸を開けた。そこには、驚き目を丸くする定吉が立っていた。
「お、はよ・う」
過ごしやすい快適な朝には不似合いの、眉間に皺寄せ険しい表情の由に、定吉は顔を引きつらせながら挨拶する。
「もう支度は、・・・」
「お願い!」
定吉の返事を聞くこともなく戸は閉まった。両腕には、妙が残されていた。
何故か? 玄関口の戸を開くことは許されない気がした。
定吉は、抱えた妙を見下ろし、ゆびを咥えた不機嫌そうな妙は定吉を見上げている。
「元気かな?」
定吉は明るくご機嫌を窺った。
「げんきじゃない」
...えええ、エエ・・・
妙は、見た目通りに、ご立腹のようだった。




