ep.12 名前
石は腰掛けに座りなおし欠伸をひとつ。
野太い足を組んで、踝あたりをコリコリ掻いて、何事も無かったようにしている。
大八車の周りの八九三は、何やらひそひそ話し合っている。
・ あのオヤジ見えねえってよ
・あり得ねえだろ、そんな事
・あの鬼造が子供扱いだぞ
・信じられねえ、一体あのオヤジは何モンなんだ?!
助五郎が口を開く。
「なあ御主人、あんたの名を聞かせてもらえないか?」
石は助五郎に顔を向けようともしない。
「この言い方が気に入らないらしいが、名前が分からなきゃ他に呼びようが無い」
「旦那が覚えておくような名前じゃ御座いませんよ。どうか捨て置いてください」
石は知らん顔だ。
「ワシは、この街道の先に用がある。大八車に載せた料理を、ソの河の職人達に届ける途中なんでな、急いでる。ここで、あんたと押し問答をしてる暇はないんだがね」
...じゃあさっさと行けよ
石には助五郎の理屈が分からない。
「ここであった事を水に流しても良いが、あんたの言いなりになるのは癪だ。話はまた改めてする事にして、まずは名前だ、教えてもらおう」
「・・・」
...この饐えた(腐った)臭いの正体は、蒸し暑いなか運んで来た生モノをのせいか、もう食えたもんじゃあるまい
微かな風が吹き、辺りを漂う鼻をつまみたくような臭いの理由を知り、石は更に不愉快な気分だ。
「聞いてるか?ご主人」
ことさらに助五郎は石を主人と呼ぶ。
..助五郎は此処で終わりにするとは言わねえ、参ったな
石は頭を抱えたくなった。
...青臭えガキの頃は渡世人気取りで粋がっていたもんだが
もうあんな阿漕(強欲)な世界は、コリゴリだ...
饐えた匂いと助五郎に取り憑いた悪臭が漂ってくる。
…自分じゃ分からねえんだろうが、助五郎から、ついさっき誰かを殺めたような生々しい血の臭いがしてるぜ、
あの世に逝けねえと魂が、こいつから離れねえようとしてねえ...
石はカリカリと首筋を掻いた。
自分にも纏わりついて来るようで、身体中がザワザワしている。
「自己紹介がまだだったな。ワシは子毛で問屋を営む堅気の商人だ。多の屋助五郎と云えば、町で知らぬ者はおらん」
...カタギとはよく言う。堅気の看板を出して表に出て来ただけで、中身は八九三のまんまじゃねえか
助五郎は胸を張って仰々しく両手を広げた。
「ワシは名乗った。これであんたが名乗らないのは、筋が通らんだろう。なあ御主人、そろそろ茶番はお終りにしよう
「名前が分からきゃ、屋敷への道案内人に誰を連れて来いと言えばいい?名無しの権兵衛さんか?それは嗤えねえな」
...使いってなんだよ
しかめっ面の石。
...八九三からの呼び出しか・・・つくづく幸運がねえな。この男が子毛を仕切ってるなら仕方ねえが出来りゃ通り過ぎてえとこだ
だが、つるはもう限界で、今夜の野宿には耐えられねえだろう...
石は、ハアあ...とため息を吐いた。
...つるは休ませてやらなきゃいけねえ・・あしが行くと言えば、這ってでもついて来ようとするだろうが、そんな事はさせられねえ
「御主〇、名・・●×△#~・*・」
...うるせえなあ、もう
助五郎と石の遅々として進まない押し問答に周囲は飽きている。
生欠伸をする奴、なぜか山向うをぼんやり眺めてる奴、コソコソ話で笑っている数人。
怒り狂っていた鬼造でさえ、地べたに胡坐をかいて鼻糞をほじっている。
右馬に至っては小便する場所を探しに消えた。
たえは暇そうに腰掛けで足をブラブラさせて、よしと つるは、ひそひそと小声で話してニヤニヤしている。
急に助五郎の甲高い声が街道に響いた。
「お前達、何やってんだ、せっかく運んできた料理が傷んじまうだろうが!何を怠けてる。いつでも出発できる用意をしとけ!!」
首を振り、街道にいるはずの右馬を探すが、どこにも居ない。
「鬼造、いつまでそこに座ってるんだ。それに右馬!どこだ!大八車を先導しろ!!」
助五郎は石に向き直った。
「案内が必要無いなら、無理にとは言わん。屋敷は、よしが知ってるから聞け。以前に多の屋で働いてたからな」
助五郎は、ゆっくりと石に近づいた。
腰を曲げ耳元で囁く。
「屋敷に来い。断ってもいいが面倒な事になるぞ。お前は腕に自信が有るようだが、多人数相手に女房を守り切れるかな?
「ワシは、お前じゃなく女房を攫う。そうすりゃお前は勝手について来るからな」
助五郎は冷めた目で石を見つめた。
「覚悟は出来たか?ワシは、お前の戯言を聞き入れて穏便に済ませようと言ってるんだ
「もしこれ以上意地を張るなら、殺し合いだ」
まわりからは澄ました顔でいるように見えるが、つるを攫うという脅しは石に効いた。
...意固地になるな、ここが引き時だろ?これ以上やれば、助五郎の言う通り互いに引き返せなくなる
冷静さを取り戻そうと、石は銭の事を考えた。
...これから旅するための路銀(旅費)も、もう僅で、この先心許ない
多少は稼いでおかねえと、江戸までの旅は野宿ばかりになっちまうぞ、仕方ねえ今は我慢だ...
助五郎の脅しに怒りで体が震えるが、それでも必死に気持ちを落ち着かせる。
...別の事を考えよう。子毛は宿場町、按摩の客は居るはずだ
一人につき四十文(約千円)として、一ヶ月もありゃそこそこは稼げる...
ようやく、いつもくらいには落ち着いて来たようだ。
...あしもまだまだガキだな、すぐカッてなっちまう、あーやだやだ。
坊主は悟りを開くなんて云うが、一体何歳になりゃ辿り着けるもんなんだかね...
考えは纏まった。
助五郎のツラを張り倒したい衝動を抑えて囁き返す。
「旦那に御挨拶に伺えば、今日の事は水に流すと仰るんで?」
「そうだ」
助五郎は頷いた。
「旅の者と茶屋で世間話をしただけだ。そう云う事にしてやる」
石は答えた。
「理解ました。旦那がそう仰られるのなら、これ以上の御時間を頂くのはもったいねえ、何処へなりとも参りましょう
「ですが、何分長旅の疲れで一息つく暇もありません。お時間を頂戴して宿で身を整えてから、伺う事に致します」
助五郎はその答えが不満だったが「わかった」と答えた。
いまはまだ料理を運ぶ途中、助五郎にも、これ以上長引かせても意味が無いことは分かってる。
「何時頃来れる?」
「今日の夜、遅くとも明日の昼には」
「今日の夜だ、出迎えをやる。宿は何処だ?」
「・・・」
宿はない。だが、そんな事を正直に言う気も無い。
...クソ
・・・すぅ。と息を吸って口を開く。
「昔馴染みの腐れ縁、そいつの家で寝屋を借りるつもりですが場所は分かりません。
「ここで待てば迎えに来ると言ったきりで、さて? 来るのはいつになる事やらそいつ次第でして」
「そうか、じゃあ一人残そう。これで話は終わりだ」
助五郎は話は終わったと石から離れようとする。
石は、これで話を終わらせるわけにはいかない。
「そうして頂ければ宜しいかと。もし、やんごとない(やむを得ない)事情で、伺う事ができなくても旦那に伝わりましょう。安心致しました」
名前を知られたくは無いが、それは無理だろう。
ただ八九三に居所を知られるなど願い下げだ。
後々の厄介ごとを回避するためにも、極力情報を教えたくはない。
助五郎は暫く黙っていた。
「逃げるということか?お前、ワシがさっき言った事を忘れたのか?お前の女房をさら...」
「あしは今日の夜、必ず《う》《か》《が》《う》と約束致しました。
「旦那が信用して、暮れに棒鼻(町の入り口)まで案内人を寄越して頂ければ、その厚意に必ずお応えいたします」
石は静かに話した。
助五郎は、また黙り石を見据えている。
...女と目暗。逃げたとしてもそう遠くには行けまい、その時は必ず捕まえて、こいつは拷問にかけ、女は散々弄んで地獄を見せてやる
クククと、助五郎は嗤った。
そして、また顔を石に近づけた。
「良いだろう。ただし、今夜、屋敷に来なければ、山の上、海の底、地の果てだろうが必ず追いかけて捕まえて来させる」
石は返した。
「旦那、盲目と女の足で、夜の山道を越えれるわけがねえ。あしは、久しぶりに古い馴染みと昔話をしたいだけでね。
「それに悪友ってのは、見知らぬ奴が居たら警戒して現れない。理由は旦那なら分かるでしょう」
...こいつ・・此処らに、もしや知り合いでも居るのか?
ここから数キロも行った所には、八屋というその辺りの村落を束ねる八九三が居る。
その輩と繋がりがあるなら、厄介だ。
助五郎はもう少し話をしたかったが諦めた。
...こいつが約束を守るなら今夜、話が出来るだろう
助五郎は背を向けた。
「随分無駄な時間を使った。急ぐぞ」
「へい」
掛け声とともに、大八車は動き始めた。
助五郎達は去って行く。
ただ去って行く時、大八車の傍らを歩く鬼造は、横を向き石をずっと睨んでいた。
鬼造が大八車の車輪に轢かれる。
ガリガリ... ! 「ぅおぃ、足が!!」 ゴリゴリ、ゴリッ!
「痛えよ!アニキ」
「アホか?お前は・・・」
右馬は呆れながら、起こすように指示した。
男三人で鬼造の巨体を担ぎ起こす。
起き上がって大八車について行こうとする鬼造の姿は、目は涙目、太った熊がウサギのようにぴょんぴょん跳ねているようにしか見えない。
嘲笑せるつもりはないだろうが、その間抜けなその姿を見て、よしと つるは顔を背けて笑いを堪えていた。
助五郎が向かうのは、ソの河の川岸。そこでは、ソの郷の職人が総出で大橋をかける工事を行っている。
工事は、幕府より下知(命令)された天下普請の公共工事。
幕府から和久家を通じて、町代の多の屋助五郎に任せられた。
御上より受けた天下普請の事業は、職人達にとっては命を懸けた大事業だった。
助五郎達の姿が見えなくなると、つると よしの爆笑が水茶屋から街道へと轟く。
助五郎達に聞こえたんじゃないかと思えるくらいに。
たえは、そんな二人を見上げて目を丸くしていた。
何を大笑いしているのかと、石も呆気にとられていたが、やがて、ふたりが笑い終え落ち着くと石は話を切り出した。
二人の笑い声が響く間、考えていた事だ。
「よしさん、ちょいと話があるんだが・・・」
よしは笑い過ぎて、流れた涙を拭きながら応えた。
「あたしに?」
「ああ、お前さんに頼みがあるんだ」
石は、誰が見ても本当にバツが悪そうな顔で、話を始めた。
この小説には人の命を軽視したり侮辱するような(特に盲目の人や女性に対して)物言い、または乱暴な表現、人を貶める蔑称や男女問わず人や物、地域に対しても差別的な表現がありますが、作者はそれを良しとしているわけではありません。作品のイメージを大事にするために故意に使っている表現ですのでご了承ください。不快だと思うのであれば読まないようにしてください。読む人の選択に任せるものです。




