石《いし》と弦《つる》
ときは江戸時代。
徳川家康は幕府を開き、強固な国造りを目指し五つの街道を整備した。
その街道のひとつ江戸と京都を結ぶ道を中仙道という。
季節は春から夏へと向かっている。
中仙道から外れ名も無い脇街道を二人の男女が歩いていた。
男は歳は四十半ば、上は茶色の着物に下は股引、足に脚絆を着け、雨避け代わりの道中合羽を着物の上から羽織ってる。
手拭いを巻いた首には頭陀袋を下げ、帯に腰差しの煙草と網袋を背負い、杖を手にぽつぽつと歩く。網袋に小さめの菅笠を引っかけおり、杖は突くのではなく左右に振っている。
男の名を石という。
その後ろを歩く女性は見た目は若い娘のように見えるが、歳は二十四の大人の女性。
藍色の小袖に上張りを羽織り、手甲、膝下には脚絆を着けて、下げ髪を束ね団子にして巻上げてる。左手に杖と巾着袋を持ち、歩くとき右足の爪先を少し引きずっているようだ。
女の名は弦という。
石と弦は、理由あって江戸へ旅をしている。人目を気にする旅のため、関所の調べが厳しい五街道を避け脇街道を歩いている。
幕府の手で整備されてない脇街道は、悪路や難所も多く、木々が鬱蒼として薄暗く、勾配がきつく滑りやすい。
二人が歩く道の両側には竹林が茂り空を覆い尽くしている。今にも獣が飛び出してきそうな不気味な雰囲気が漂う。
「いっさん、昨晩の雨が嘘みたいです。よく晴れてるみたいですよ」
竹林の隙間からたまに覗く空を眺めていた弦が、石にそう話した。
「そうか、ちょいと肌寒い気がするが、お陽さんは出てるかい?」
「ええ、お陽さまといっさんの好きな青空が見えます」
石がよく青空かどうか聞くので、弦は石が青空が好きだと勘違いしているようだ。だが、目に見えるわけで無し、それに石はそんなロマンチストではない。
雲が多いといつ雨が降るか分からない、雨の日は地面は泥濘み足を取られて危ないので普段より気を使う。
耳が頼りの石は激しい雨音にまわりの音がかき消されてしまうと、状況が分からなってしまう。
だから雨が降りそうもない、よく晴れた空かどうか気にしてるだけなのだが、
「晴れてんならいいや」
「...なんですか?投げやりですけど」
弦は不満そうだ。
....そんなことねえけどなぁ。
「あー、青空で良かったなぁ」
「わざとらしい」
怒った顔で弦が石を見る。
...なんて言やぁいいんだ、と思いながら石は顔を空に向けた。
かすかに木々の隙間からこぼれる日差しと温かさを肌で感じ、嬉しそうな顔になる石。それを見て、一緒に嬉しくなった弦、自然と機嫌も直っていった。
弦はいつも、石を呼ぶときに 『いし』を言わない。何度言っても聞かないのでもうあきらめている。
「綿雲が、青空を西から東にゆっくり流れてます。大きいのと小さいのが二つ並んで、親子みたいに」
弦は、竹林の隙間から見える空の様子を話してる。
弦に《石が見えない》事への他人行儀な配慮はない。 代わりに空の天気、風景、色、目に見える様々なものを石に伝える。
石は、それを聞きながら想像する。
石は全盲ではなく、わずかに光と色を認識できる。目を開けると酷い靄がかった景色の残像のようなものが映り、じっと見てると強い光が差し込んだ時のよう目の端がチカチカして酷い頭痛がする。そのため普段から目を閉じるのが癖になった。
坂道の勾配がきつくなり、二人は前後になって石が前を弦が後ろを歩く。坂道の傾斜が急になるときは互いに何を言わずとも、そうするようになっていた。
石は手に持っていた杖を後ろへ伸ばし弦が掴む。杖の端と端を握り、石が弦を引っ張る。
弦は生まれつき右足の力が弱く、普段からよく転ぶ。昔住んでいた下家の階段を、ずっと両手をついて犬のように這って昇っていたこともあった。
石は地面を踏みしめ、弦を引っ張って坂道を昇る。
しばらくして麓を流れる木曽川の風を足元から感じた。
...登りがやっと終わったな。
石は弦に顔を向けた。
「疲れたろう、ここで休憩だ」
弦が頷く。
玉のような汗で荒い息づかいの弦は、一里塚と掘られた道端に建てられた岩の、丸い台座の上に座り込んだ。石は座る弦の傍らに立つ。
「いっさん ...ここ座れますよ」
台座の上で石の座る場所を開けようとした弦は転げそうになった。石は素早くその体を支える。
「何やってんだよ、ばか。じっとしてろ」
呆れたような石。
「馬鹿ってなんですか?せっかく座らせてあげようと思ったのに」
頬を膨らませブツブツとつぶやく弦。
「わかったから座ってろ。あしは立ってるほうが楽なんだ、これでいいんだから」
と体を持ち上げて台座に座り直させた。
風は緩やかに吹き、冷たい風が汗をかいた体には丁度良い。弦は懐の手拭いを取り出した。途中の小川で冷たい水を竹筒に入れたので、それで手拭いを濡らし固く絞って石の手に持たせる。
石は「いらね」と返そうとするが強引に押し付けられ、結局、顔と首回りの汗を拭った。ひんやりとした手ぬぐいは気持ち良かった。着物を脱いで体中の汗を全部拭き取りたいくらいだ。
「ほら、気持ちいいでしょ」
弦が気分良さげな石の顔を見上げてる。
...うるせえな。
空を仰ぐと、頭の中の記憶の残像の空を思い浮かべた。
石は幼い頃、人に預けられた。預けられた先は盲目の夫妻の家。子が無かった夫婦は、一晩の宿を借りに来た女から石を預かったそうだ。それ以上のことは育ててくれた養父母は話そうとしなかったから理由はわからない。
石は幼い頃に麻疹にかかり、眼が不自由となった。適切な治療と栄養があれば失明は免れたかもしれないが、養父母の家は日々の生活が精一杯で、病人の治療費を出す余裕も無く医者に見せることが出来ずに、石は視力を失った。
盲目となった石を不憫に思った養父は、自分の按摩業を手取り足取り教えた。養父は、盲人の互助組織である当道座に属し勾当の位にあり、盲人として生きる石のこれからのことを思い、自分と同じく当道座に入れるよう手配し座頭という階級を与えられた。
数年たち養父母が亡くなると土地を離れ畿内へと出て、学もなくツテもない石は世間の辛酸を舐め、泥を啜りながら生きた。
親の名も知らず、いつ生まれたのかも分からない。石は、養父がつけた呼び名。名前というより呼びやすいように付けたのだろう。
背は人並み手足は太く強靱で、自分の事ではへこたれない。中年腹で、弦に「お酒の飲み過ぎです」と始終小言を言われている。
弦は二十四の歳になったはずだが、童顔、小柄のせいで十四、五に見られることもある。体つきは年相応なので、そのアンバランスさのせいで変な色気があるらしい。
旅の宿で「子供なのにしっかりしてるね」と褒められて、小娘と勘違いした年寄りに菓子を貰い素直に受け取っていた。
「おまえ、バレたらどうするつもりなんだ?」
となりで会話を聞きながらヒヤヒヤしていた石が後で聞いたら、
「いっさんが気が小さいだけですよ、貰えるものは貰っとけばいいんです」
と言われた。
しばらく休んでいると体の汗はひいてきた。このままじっとしてたら風邪をもらうかもしれない。
「そろそろ行くか?」
「そうしましょうか」
石の差し出す手を支えに弦が立ち上がる。降り坂から吹いてくる風に石は顔を向けた。
「関所が...」
石につられ同じ方向を向いた弦の目に関所が映った。
「あれ...往来手形は、どこにあったかな?」
関所を通るために常駐役人に見せる手形を探しはじめた弦。肩にかけていた行李を地面に下ろし、中を探っている様子。
...大事なもんはちゃんと仕舞う場所を決めとけよ。
と口にすれば揉めるので、石は黙ってしばらく待つ。
「あった!」
行李ではなく、着物の袂に仕舞っていたことを弦が思い出し、自分の袂に手を入れて無事見つけた。
一応間違いないか、取りだし開いてみる。
その手形には、この者たち夫婦と記載されていた。
この小説には人の命を軽視したり侮辱するような(特に盲目の人や女性に対して)物言い、または乱暴な表現、人を貶める蔑称や男女問わず人や物、地域に対しても差別的な表現がありますが、作者はそれを良しとしているわけではありません。作品のイメージを大事にするために故意に使っている表現ですのでご了承ください。不快だと思うのであれば読まないようにしてください。読む人の選択に任せるものです。