♯81
コンクールの曲を前に沈み込む未乃梨と、凛々子から発表会の出演を打診される千鶴。凛々子が候補に挙げてヴァイオリンで弾いてみせた曲の背景に、千鶴は……?
沈んだ表情の未乃梨に、仲谷は「あ、そうだ」と何かを思い出したように十何ページかの楽譜のコピーを渡した。
「仲谷先輩、これは?」
「コンクールの曲の原曲。ピアノが弾ける子がいるパートはこれを弾いてもらうように、って子安先生から」
ピアノのためのものらしい二段譜の楽譜のタイトルには「Dolly op.56」と大きく書かれていた。短い数曲からなる曲集らしく、最初のページには「Berceuse」と章題のようなものが付されている。
「ドリー組曲っていう、元はピアノの曲なんだってさ。パート練とかでも小阪さんに弾いてもらうから、ピアノも練習しといてね」
「……はい」
未乃梨は「ドリー組曲」のピアノ譜を受け取ると、軽く楽譜に目を通した。最初の曲の穏やかで小さな子に歌って聴かせるような旋律に、未乃梨は余計に心が沈んだ。
(凛々子さん、秋に発表会をやるとかで千鶴を誘ってたっけ。……こういう曲、千鶴とやれたらな)
千鶴が高校で楽器を始めたばかりの初心者で、コンクールメンバーには最初から含まれていないことは、未乃梨にも分かっていた。それでも、今受け取った「ドリー組曲」の旋律には、千鶴を思い起こさせる優しさが漂っているように、未乃梨には思われた。
(この曲、コンクールでやるなら、千鶴のコントラバスも一緒がいいな)
コンクールで制服姿で舞台の上手で大きなコントラバスを手にして控えている千鶴を、未乃梨は想像せずにいられなかった。
(この前の「あさがお園」の訪問とかテスト明けの連合演奏会以外でも、もっと千鶴と演奏したいのに)
未乃梨は物思いを引きずったまま、仲谷の後に続いてパート練習に向かった。
未乃梨たちフルートパートとは別方向の空き教室に、凛々子はコントラバスを抱えた千鶴を招き入れた。
凛々子はヴァイオリンケースを置くと、その中からチケットと小さな演奏会のチラシを出して千鶴に手渡した。チケットとチラシの両方に、「星の宮ユースオーケストラ」の名前が入っている。
「これ、前に言った私が入っているユースオーケストラの演奏会よ。良かったら、聴きに来てね。あと」
チケットとチラシを楽譜を入れているクリアファイルにしまう千鶴に、凛々子は話を続けた。
「秋にやるうちのオーケストラのメンバーの発表会、千鶴さんも出てみるってことで良いかしら」
「私、部外者だけど良いんですか?」
「構わないわよ。瑞香さんは受験勉強があるから出られないけれど、私と智花さんは出るしね。どう?」
凛々子に持ちかけられて、千鶴は「うーん」と考え込んだ。
「『あさがお園』の訪問演奏みたいな感じなんですか? 何人かで集まって演奏するみたいな」
「あんな風にアンサンブルもやるし、練習が間に合うならピアノ伴奏でソロをやってもいいわね。何なら、未乃梨さんの伴奏で何か弾いたっていいのよ」
千鶴は少し青ざめた。「あさがお園」でベートーヴェンの「第九」を弾く直前に感じた冷や汗を、千鶴は思い出していた。
「えっと、あの、流石に私がソロで弾くのはちょっと」
「まあ。この前、あんなに立派に『第九』を弾いていたのに?」
「あの、あれは前に智花さんのチェロの真似して弾いてたら上手くいったっていうか」
「チェロとコントラバスじゃ全然別の楽器じゃない。『あさがお園』の子たちだって、お姉さんかっこいい、って言ってたわよ」
しどろもどろになる千鶴に、凛々子はケースを開けてヴァイオリンの準備をした。
「こういう曲、コントラバスで弾いたら素敵なんじゃない?」
凛々子は何かの楽譜を取り出すと、ヴァイオリンで弾いて見せた。未乃梨のフルートより低い音域でゆったりと響く旋律は、のんびりと飲み物を片手にくつろぐような空気を生み出していた。
せわしく動いたりしない凛々子のヴァイオリンの弓に、千鶴は背筋をしゃんと伸ばした。
「これ、何ていう曲なんですか?」
「オペラのアリアよ。劇の途中で、見せ場に歌手が歌う曲ね」
「え、ええ!?」
再び顔を青くしかけた千鶴に、凛々子は取り出した楽譜を見せた。どうやら楽器のための楽譜ではないらしく、凛々子が弾いていたと思われるパートには、明らかに英語ではないアルファベットが振られていた。
「これ、ヘンデル作曲の『オンブラ・マイ・フ』って曲よ。ペルシャのクセルクセスっていう王様が、暑い中で休むのに良さそうな木陰を見て歌う曲よ」
「木の陰で? ずいぶんのんびりした歌なんですね」
「だって、王様ですもの。富も力も素敵なフィアンセもいる、何の不自由もない立場の人が歌っている曲なら当然かしら」
千鶴は再び「うーん?」と唸った。
「私たちで言ったら、受験とかテストも終わって、お小遣いも貰ったばっかりで……みたいな?」
凛々子は、千鶴の言葉に少しだけ目を見開くと、くすくすと笑った。
「千鶴さんたら、面白いこと言うのね?」
「……あ、あの、私、変なこと、言っちゃいました……?」
狼狽える千鶴に、凛々子は笑顔のまま答えた。
「それ、正解かもしれないわよ。何の心配もいらないのって、最高の幸せかもしれないもの」
「え、てことは……」
「世界史とか倫理でエピクロス主義って習うと思うけど、かいつまんで説明したらそういうことになるわね」
凛々子の笑顔にいたずらっぽい表情が浮かんだ。
「この歌を歌うクセルクセス王には、地位に加えて確か恋人だか婚約者がいたけれど、千鶴さんなら、どう演奏するかしら?」
そう言って上目遣いで千鶴を見る凛々子に、千鶴は顔を真っ赤にして黙り込んだ。
(続く)




