♯80
朝の音楽室に髪も結わずに遅れてやってきた千鶴。
その千鶴の髪を結いながら、未乃梨の気持ちはどこか沈みがちで……。
音楽室に千鶴が息を切らせてたどり着くと、中でフルートを出して待っていた未乃梨が少しだけ頬を膨らませた。
「千鶴。一緒に登校したかったのに」
「ごめん。寝坊しちゃって」
「髪も結んで来なかったの?」
「急いで出てきちゃったから、起きてそのままでさ」
申し訳なさそうに結んでいない伸びかけのボブの頭を搔く千鶴に、未乃梨は溜息をついた。
「しょうがないわね。ほら、結んだげるから座って」
「うん。……お願い」
未乃梨に促されて音楽室の椅子に座ると、千鶴は制服のスカートのポケットに仕舞ったヘアゴムとリボンを渡した。
ヘアゴムで千鶴の髪をまとめながら、未乃梨はその髪をまじまじと見た。
「にしても。千鶴って、意外と髪伸びてたのね」
「今年に入ってから、受験とかで切ってなかったしね。やっぱり、伸ばそうかなあ」
「どこまで伸ばすの? ミディアム? まさか、ロング?」
「ロングって、凛々子さんぐらいだよね? 流石にそこまでは考えてない、かなあ」
「……凛々子さんぐらい、ね」
未乃梨は、ヘアゴムでまとめた千鶴の髪にリボンを結う手を止めた。
「千鶴。……もしかして、凛々子さんのこと、意識してるの?」
「べ、別に、そういう訳じゃ――」
「おんなじ弦楽器同士だもんね。部活の個人練習も、ずっと見てもらってるもんね?」
未乃梨は、言いよどんだ千鶴の髪にリボンを結い終えてから、千鶴の肩に手を置いた。
「……私、ずっと千鶴の返事、待ってるのに」
「うん。分かってる、けど」
「待つの、結構辛いんだからね?」
未乃梨は、千鶴の肩に置いた両手を千鶴の胸元の前で組んで、後ろから寄りかかってきた。千鶴の背中に制服越しの柔らかなふくらみが、うなじに細く軽やかなセミロングの髪が触れた。
「あの……未乃梨……?」
「ごめん。千鶴がまだ、返事を言えないって分かってる。でも」
椅子に座っている千鶴の背後から抱きついたまま、未乃梨の言葉は途切れた。
千鶴は、未乃梨に抱きつかれたまま椅子から立ち上がれずにいた。
(昨夜に見た夢には未乃梨は出てこなくて。でも、凛々子さんは出てきて、今朝も駅を出たところであんな風に手を引かれて……)
思い起こされることがあまりに凛々子のことばかりで、千鶴は戸惑った。千鶴は、二人きりの音楽室で、後ろから抱きついた未乃梨の小さな手に自分の手を重ねて落ち着かせることしかできなかった。
一限目の授業に先立つ予鈴のチャイムが鳴って、未乃梨はやっと千鶴に後ろから抱きついた手をほどいた。
「千鶴。……ごめんね」
「ううん。気にしないで。教室、行こうか」
今度は千鶴が未乃梨を促して、音楽室をあとにした。
その日の昼休みは、未乃梨は特に変わった様子もなく過ごした。ただ、千鶴が志之や他のクラスメイトと話していても気にする素振りは見せなかったし、昼休みに千鶴や志之と一緒に弁当を食べている時も急に大きな声を出すこともなかった。
放課後に入ってすぐ、志之は千鶴に耳打ちをした。
「ねえ、千鶴っち。今日のみのりん、なんか大人しくない?」
「さあ。いつも通りじゃないかな? 朝練じゃいつも通りだったし」
部活に向かう準備をしている未乃梨を遠目に見ながら、千鶴は咄嗟に志之に誤魔化した。
「千鶴。音楽室行こっか」
その未乃梨に呼ばれて、千鶴は慌てて返事をした。
「あ、ちょっと待って」
「ふーん。みのりんって、いつもならこういう時は遅いとか先行くよとか言い出しそうなもんだけど」
「そうでもないよ。いつもの未乃梨じゃない?」
「ま、千鶴っちがそう言うんなら。さて、あたしも女バレ行くかぁ」
未乃梨を遠目に見ながら、千鶴に続いて志之もスクールバッグを肩に提げた。
音楽室の前で部活に来た千鶴と未乃梨を、いつものワインレッドのヴァイオリンケースを肩から提げた凛々子が呼び止めた。
「お二人とも、ご機嫌よう。改めて、昨日はお疲れ様」
「凛々子さん。……千鶴のこと、今日もよろしくお願いしますね」
未乃梨はそれだけ言い残すと、音楽室の中に先に来ていたフルートのパート員の方へ早足で近寄っていった。
「あ、未乃梨……もう」
「フルートパートでやることがあるのでしょうね。では、私達も行きましょうか」
「今日も、よろしくお願いします」
凛々子に促されて、千鶴は備品のコントラバスを取りにいった。
千鶴や凛々子と別れてから、空いている教室に移動して譜面台を立てたりフルートを組み立てたりしている間、未乃梨の気持ちは沈んだままだった。
フルートの上級生の仲谷が、未乃梨の肩をつついた。
「小阪さん、どうしたの? 浮かない顔してるね」
未乃梨の浮かない気持ちの理由は明らかだった。
(千鶴の練習を見てあげられるのは凛々子さんだけだし、演奏者としても凄い人だけど、でも――)
「……すみません。大丈夫ですから」
「昨日で学校外の本番も終わったことだし、切り替えないとね。小阪さんはコンクールも出るんだし」
片目をつむる仲谷を前に、未乃梨はどこか沈みがちなままになっていた。
(続く)




