♯70
いよいよゴールデンウィークに迫った養護施設での本番。
忙しくなりそうな千鶴と未乃梨に、凛々子は何かを考えているようで……。
合わせの練習の後で、凛々子は千鶴と未乃梨に本番の日時や場所といった詳細を伝えた。
「来週の五月五日、こどもの日ね。私たち三人の集合はこの紫ヶ丘高校の校門前に十二時半。場所はあさがお園っていう、紫ヶ丘の隣町にある、小学生ぐらいの子が入っている児童養護施設よ。私が習っているヴァイオリンの先生の紹介で、こちらに演奏しに行きます。詳細は今送るわ」
凛々子が自分のスマホを操作して、空き教室の机に置いてある千鶴と未乃梨のスマホのバイブレーションを震わせた。
「コントラバスの本体は私と瑞香が現地に車で直接持って行くから、千鶴ちゃんは弓と松脂だけ用意してね。あと」
凛々子に続いて説明した智花が、千鶴に一ページにほんの数段だけ書かれた、ヘ音記号の手書きの楽譜を渡した。最上段には「An die Freude」と千鶴には見慣れないアルファベットが並んでいる。
「アン、ディー……フレウデ? Fis……Fis……G……A……A……G……Fis……E……あれ? これって……」
音符を拾い読みしながら、千鶴はある予感を覚えて小首を傾げた。単純な音の連なりの中に、力強い何かを感じさせる動きは、千鶴には既視感があった。
智花は説明を続けた。
「本番は楽器紹介のコーナーを曲の間にやるんだ。その時にコントラバスでそれを弾いてもらおうと思ってね。これだよ」
智花は、まだ片付けるの前のチェロで、楽譜に書かれた旋律を弾いた。その旋律に、千鶴は確かに聴き覚えがあった。
「これって、前に休憩中に一緒に弾いたやつですよね?」
「正解。ベートーヴェンの『第九』だよ」
「分かりました。やってみます」
「楽器紹介っていうことは、私もフルートで何か吹かなきゃいけないんですか?」
千鶴と入れ替わりに尋ねる未乃梨に、今度は瑞香が答えた。
「すぐにできる曲なら何でもいいよ。私なら、これ」
瑞香は静かに親しく語りかけてくるような穏やかな旋律をヴィオラで四小節ほど弾いた。
「これ、『愛の挨拶』だ……?」
「未乃梨、この曲知ってるの?」
初めて聴くらしい旋律に思わず目を見張った千鶴に、未乃梨は頷いた。
「うん。昔、ピアノの発表会で聴いたことあるの。エルガーっていう作曲家が、奥さんにプロポーズした時に作った曲よ」
「へえ、そんな曲があるんだ」
未乃梨の説明に小さく驚く千鶴を見やってから、凛々子は「それじゃ、何か質問はあるかしら?」と他の四人を見回した。
「詳しいことはみんなのスマホにメッセージで送ってあるから、何かあれば私に連絡ちょうだい。では、今日の練習はここまで。お疲れ様でした」
瑞香と智花を見送ると、千鶴と未乃梨と凛々子は校門まで一緒に歩いた。
千鶴は、長い両腕を頭の上に掲げて伸びをした。
「うーん、っと。一気に忙しくなりそうだなあ」
「今度の本番が終わったら中間テストだし、その次は吹奏楽部で最初の本番だもんね。市の連盟の連合演奏会」
隣で長身の千鶴の顔を見上げる未乃梨に、凛々子が尋ねた。
「『スプリング・グリーン・マーチ』だったかしら。あの曲をやるの?」
「はい。市内の色んな高校の吹部が一曲ずつ、新入部員を入れた最初の本番をやるんです。そのあとは……私はコンクールメンバーだから、しばらく今日みたいに千鶴とは一緒に練習できないかも」
未乃梨の言葉に、凛々子は「……ふむ」と頷いた。
「千鶴さんはコンクールに出ないのかしら?」
「私みたいに初心者で入部した一年生は、秋の文化祭までしばらく自主練習です」
まだ明るい夕空を見上げながら、千鶴は「あーあ」とつまらなさそうにのんきな声を上げた。
「あら、練習なら私がまた付き合うわよ?」
「ええ? 凛々子さん?」
未乃梨が、少し焦ったような声を漏らした。
「あら未乃梨さん、どうかした?」
「……い、いえ、何も」
何やら言葉を引っ込めた未乃梨を他所に、凛々子は千鶴の顔を見上げた。
「じゃ、六月に私が入ってるオーケストラの演奏会、聴きに来る? チケット、用意できると思うけど」
「え、いいんですか?」
「ちょっと、千鶴!?」
興味を持ったらしくいきなり足を止めた千鶴と、その急に止まった千鶴に斜め後ろからぶつかりそうになった未乃梨がほとんど同時に声を上げた。
後ろに転んで尻餅をつきそうになった未乃梨の腰を、千鶴は左手だけで咄嗟に支えた。その千鶴を、凛々子は一瞬だけ素っ気ない顔で見てから、二人に微笑みかけた。
「何なら、二人とも聴きに来る? 招待券ならまだあるわよ」
「い、行きます! 千鶴と一緒に行きます!」
千鶴の手にすがったまま、未乃梨は凛々子に早口でまくし立てた。
「でもさあ、未乃梨、クラシックの音楽会でしょ? 何を着ていけばいいの?」
「あまりラフじゃなかったら大丈夫よ。……こないだ買ったレイヤードスカート、穿いてきちゃダメだからね?」
「ええ!? あれ、よそ行きでもありなんじゃないの!?」
言い合いを始めた千鶴と未乃梨を、凛々子は「あらあら」と微笑ましく見つめていた。
(続く)




