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♯69

練習中に崩れた髪を手洗いで未乃梨に直してもらう千鶴は、改めて未乃梨の想いを知る。

一方で、凛々子が瑞香や智花に打ち明けた、とある思惑の行方は……。

「これで、よし、と」

 手洗いの鏡の前で、未乃梨(みのり)は|背伸びをして後ろから千鶴ちづるの髪を結い終えると、満足そうに両手を腰に当てた。

 千鶴の髪がまだ肩には届かない伸びかけのボブなせいもあって、結ったショートテイルにまとまりきらずに、左右の耳の前と襟足にひと房ずつ後れ毛のように髪が残っているのが、かえって可愛らしく仕上がっていた。

 左右に顔の向きを変えながら、千鶴は結ってもらった髪の仕上がりを確かめた。

「ありがと、未乃梨。私ひとりだと、こんな風に上手く結えなくてさ」

「いいよ、これぐらい。……ねえ、千鶴」

 鏡に映っている、千鶴の背後に立っている未乃梨は少しだけ、意を決したような顔をした。

「あのね。この前の、私が千鶴のカノジョになりたい、って言ったことだけど。……返事、いつまでも待ってるからね」

「……うん」

「どれだけ待たされてもいいの。でも、イエスでもノーでも、必ず返事は聞かせて。お願い」

 鏡の中の未乃梨は、精一杯の勇気を出して、笑顔を作っていた。

「分かってる。ちゃんと、私の中で決着が付いたら、返事、するね」

「ありがと。……今年は無理だけど、来年は一緒にコンクール、出ようね」

「そうだね。私も、未乃梨ともっと演奏してみたいし」

「私もだよ。……じゃ、そろそろ戻ろっか」

「うん」

 未乃梨は千鶴の手を引いて、手洗いを出た。その足取りは、数日前よりはずっと軽かった。



「千鶴ちゃんを星の宮ユースに、ねぇ」

 チェロを抱えたまま顎に手をやる智花(ともか)に、瑞香(みずか)は手近な教室の机に座ってから膝の上にヴィオラを置いて、智花に首肯した。

「私は賛成かな。本人がオーケストラで弾きたいって思ってくれるなら、ね」

 ヴィオラとチェロの二人に、凛々子(りりこ)はヴァイオリンを手にしたまま頷いた。

「実は、前にコントラバスの舞衣子(まいこ)先生が練習に弾きに来たときに、ちょっと千鶴さんのことを話したの。興味を持ってくれてるみたい」

本条(ほんじょう)先生? あの菅佐野(すがさの)フィルの?」

 智花はチェロを床に置くと、楽譜のファイルに挟まっていた演奏会のチラシを出した。そこには、「菅佐野フィルハーモニー管弦楽団」というオーケストラの名前が印刷されていた。後援や協賛に名前を連ねる、県や市などの自治体や誰でも知っている新聞社などの大企業の名前に加えて、決して手軽ではないチケットの価格がプロの演奏会であることを如実に示していた。プログラムに大きく書かれている「マーラー 交響曲第一番『巨人』」というメインの曲目が凛々子の目を引いた。

「それ、レッスンの日と重なってるのよね。聴きに行きたかったわ」

 瑞香が智花の後ろから、そのチラシを覗き込んだ。

「今度、智花と一緒に聴きに行くやつね。第三楽章のソロを本条先生が弾くって言ってたっけ」

「本条先生が何て言うかは知らないけど、連れてきてもいいんじゃないかな。先生ならバスの人数が増えて賑やかになった、って喜びそうだけど」

 瑞香が、「うーん」と首を傾げた。

「あとは、吉浦(よしうら)先生だよねえ。あの人、厳しいからなあ」

「その方がいいわ。吉浦先生の合奏に出て上手くなった子、弦でも管打でもいっぱいいるもの」

 凛々子がそう言い切ったあたりで、空き教室の扉が開いた。手洗いで未乃梨に髪を直してもらっていた千鶴が、戻ってきた。

「すみません、お待たせしました」

「構わないわよ。それじゃ、始めましょうか。二人とも準備お願いね」

「はーい」

 明るい表情でフルートを準備する未乃梨に、瑞香は視線を引かれた。

(前よりはいい表情をしてるってことは、今日は心配はなさそうかな)

 そんなことはおくびにも出さず、瑞香は未乃梨がチューナーを見ながらフルートで吹く(アー)の音に合わせて調弦を始めた。凛々子や智花も続いて調弦を始めて、千鶴もコントラバスの重くて低いAの開放弦の音を弾いていた。

 Aの音から始まる弦楽器の音の重なりが連なっては消えて、それぞれの調弦が終わった。その響きが、瑞香には不思議に好ましいような、大して回数を合わせてもいないのに妙に自分の耳に馴染んだような、居心地の良さがあった。

(千鶴さん、うちのオケで弾いてくれたら……ちょっと面白いことになるかもね)



「主よ、人の望みの喜びよ」も、「G線上のアリア」も、合わせの練習は滞りないどころか、練習に参加した全員が大きな充足すら感じる手応えがあった。

 千鶴のコントラバスは、「主よ、人の望みの喜びよ」ではまだ荒削りな部分はあっても優しい柔らかな弓で弾く音でアンサンブルを支えていたし、「G線上のアリア」では繊細さを増した、弦を直接指で弾くピッツィカートが未乃梨の吹く主旋律をしっかりと引っ張っていた。

「これで、本番は大丈夫っていうところかしら。千鶴さんに未乃梨さん、当日も宜しくね」

「はい!」

 元気に答える千鶴に、未乃梨は前回とは性質の違う胸の奥の小さな鼓動を、しっかりと感じていた。

(私も、千鶴に振り向いてもらえるように、頑張らなきゃ……!)


(続く)

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