17話
どの位の時間を抱き合っていたのだろうか。
いつの間にか、涙は止まっていた。
喉の乾きを覚えて、僕と千夏は身を離す。
先程まであった温もりがなくなるのが、どうしようもなく寂しく感じられてしまう。
こんなに近くにいるのに、そう思って僕は少し笑った。
千夏もまた、同じ事を思っていたのだろうか。少し微笑んでいるように見えた。
もう大丈夫だと思った。
何も状況は変わっていないけれど、沢山泣いて、今自然と微笑むことができた僕らは、きっとこれからも大丈夫に違いなかった。
用意していた飲み物は、もう冷めてしまっていたけれど、僕らはそれで喉を潤した。
あれだけ目から水分が出たのだ、身体が潤いを欲するのは当たり前な気がする。
しばし、飲み物を飲む音だけが響いた。もう深夜で、外も中も静寂に包まれている。
そんな沈黙を破るように、ねぇ、と千夏は言った。うん、と僕は頷いた。
それだけで僕らの間では通じ合った気がした。先程、抱き合って、名前を呼び合ったのが全てな気がしていた。
ただ、それは錯覚かもしれなくて、だから、ちゃんと今更ながらに先人のアドバイスには従うのだ。
僕らが今言葉にしないといけないことは、もうお互い伝わっている、そう思える。
どちらから言葉を発しても良いような気はした。
ただ、千夏が先に口を開く。きっとその言葉は――――。
「キスして、いいかな?」
「…………え?」
ほんの一瞬前の僕を殴りたくなるほど、千夏の口から出てきた言葉は僕の頭の中に欠片も無かった。
想定に無い時、人はこんなに間の抜けた声を出すんだな、と僕は他人事のように自分の声を聞く。
そんな僕に、首を傾げるように千夏は問う。
「嫌なの?」
「そんなわけ、無いけど」
言葉を失った僕は、千夏に見つめられて、言葉の意味に頭が追いついて、その瞳にまるで恥じらう乙女のように顔を赤くする。
「じゃあ、しよう――――ちょっと確かめたいことがあるの」
千夏が男前だった。
誰が何と言おうと、完全にこの目の前の美しい女の子は男前だった。
「ん…………」
いつまで経っても見慣れることがない整った顔が、少し首を傾けるような角度で近づいて、甘い香りと共に、僕の唇に柔らかい感触が触れた。
――――僕らの二度目のキスは、歯が当たることもない、穏やかなキスだった。
ゆっくりと、千夏が離れていく。
そして、うん、と千夏は何かを確かめるように、納得するように頷いて、呟くように言った。
「やっぱりさ、うちはハジメが好き」
真っ直ぐだった。
その瞳が問うていた。貴方はどうなのかと。
僕の答えもまた、決まっていた。
「僕も、千夏が好きだよ………………あ、でも少し違うのかも」
「…………?」
「僕はさ、自分の感情の名前が、『好き』って気持ちかと思ってたんだけど」
「うん」
「色々考えて、感じて、溢れすぎないようにとか思うこともあったんだけど」
「うん」
僕は千夏のように、バシッと言えなかった。
まるで言い訳のように少しばかりの言葉を並べてしまう。
でも、そんな僕の言葉に千夏は、何より大事なもののように頷いてくれていた。
だから、僕は言葉に、今この胸にある熱と想いを全て載せて――――。
「愛してる」
そう告げた。
「あ…………」
千夏のただでさえ大きな瞳が、見開かれて、口から掠れたような声が出る。
高校生程度の恋愛でと言われるだろうか、もしかしたら、正直初めての恋に浮かされているだけなのかもしれない。
それでも、ただ好きというだけじゃ伝えきれない気がして。
あの瞬間、僕と同じことを千夏もまた思ってくれていた気がしたから。
「正直、愛とか恋とか好きとか、よくわかってなかったんだけどさ…………何だろう、それが一番しっくり来たんだ」
はは、そう言って、流石に照れくさくなってしまった僕は、頭をかいて下を向く。
「…………あぁもう!」
そんな声がさっきまでの言葉よりとても近くで聞こえて。
顎に手をかけられて、強引に顔を上に向けられ、そうして僕はまた、唇を奪われた。
先程よりも少し乱暴に、でも長く、少しだけ深く、僕と千夏は口づけを交わす。
「……カナさんが、言ってた」
そうして離れて、呼吸が乱れながら、紅潮した顔で、千夏は言った。
「え?」
「キスをしても、もっともっとしたくなったら、本物だって……本物じゃなかったら、したら冷めちゃうって」
「はは……じゃあ僕のこれは、本物みたいだ」
「……ん」
今度は僕からした。
三度奪われるようにしてキスをして、四度目にようやく自分からできる。
そんな僕の情け無さもまた、僕と千夏の関係のようで。
本物が何かはわからない。
恋は下心、愛は真心とは誰の言葉だっただろうか。
わかっていることは、どんなにキスを交わしても、この胸の中の想いが消えるとは思えないということ。
僕の心の中にはもう、千夏の場所があった。
そして千夏の心の中にも、きっと僕の居場所は用意されていた。
「ねぇ、千夏」
「なに? ハジメ」
「僕と、恋人になってくれますか?」
「…………ええ、喜んで」
千夏は、僕の言葉にまた少しだけ静かに涙を流して、笑ってそう答えてくれた。
その涙はもう、先程までのそれとは意味を変えていて。
僕らの感情の名前を知った日、こうして僕らの関係もまた、名前を変えたのだった。
二章 僕と彼女と感情の名前 完




