16話
返事を待たずに、僕は部屋に入る。
母親との、おそらく子供扱いされない初めての、きちんとした1対1の話を終えた千夏は、一人で静かにスマホを持って、床に座り込んでいた。
僕の気配に振り向いた顔には、涙の跡は無い。その事に少しだけほっとする。
でも、続く言葉と、その様子にそうではないことに僕は気づいた。
「…………お父さんのこと、ううん、お母さんのことだって。うち、全然わかってなかった。お母さん厳しかったって、お父さん甘かったって言ったじゃない? でもさ、最近のお母さん見てて、違う面いっぱい今更知ってさ。……さっきも、一番最初に言ってくれたの。うちが、娘で良かったって、そう思わない日はないって。それに、今日、あんなんだったけど、最低で最悪だけど、それでもお父さんも、そう思っていたのは嘘じゃないはずだって――――」
千夏がうつむいて、言葉を切って。
「でもさ……そんな風に想ってくれていたはずの二人がうまくいかなくなった最初の理由もまた、うちのせいだったんだね」
千夏が震えるように、そう言った。
咄嗟にそんなことはないと言おうとして、でも口をつぐむ。きっと、そんなことを千夏は求めていなかったし、僕はただ、最後まで吐き出してくれる言葉を聞くべきだった。
――――千夏があの日、僕にそうしてくれたように。
「ううん、それはちょっと誤魔化しだね。……お父さんがあんなふうに思ってたのは知らなかったけど、お父さんとお母さんが揉めたの、薄々うちのせいなのかな、とは思ってたんだ、言葉にするのが、認めるのが怖かっただけで」
時期も時期だったしね。そう言って痛々しく笑う。
「お父さんの言うとおり、一時の気の迷いでさ、あのまま耐えてれば良かったのかな? 言われればそりゃ確かにそうだよね。小学校の時も塾とか行ってたし送り迎えに色んな事を優先してもらってさ、中学から私立に、高校や大学に続けるところに入れてくれたのも、きっと高校受験や大学受験で苦労しないように考えてくれてなんだよね。お金も時間も沢山かけてもらってるんだな、って、うち、ハジメと会ってから、考えたりしてたんだ」
どうせ今の高校でも同じことしてるんだし。同じだったかな?
力なく自虐のように続けて、はは……と笑う。
自分が耐えればよかったのかと、自分のせいで全て壊れてしまったのかと。
笑っているのに、笑っていない。
「……それは困るな、それじゃ、僕が千夏に会えなかった」
僕はそう口にする。
千夏が、僕のそんな言葉に少しだけ震えて、その瞳の中を潤ませた。
でも、それが溢れない。堪えているわけではなく、溢れることができない。
僕は、その感情を知っていた。
これはきっと、いつかの僕だ。
『信じる』ということすらしないほど、疑いもなく来るはずだった日々が、唐突に来なくなることを理解してしまった時の。そんな時は、泣く事もできなくて。
――――ただ、寂しいとか悲しいとかそういった感情が飽和して、心を守るように、自分の中から他人のように自分を俯瞰してしまう。
顔を上げて、正面から千夏を見た。
俯くようにして座る、僕の大事な人。
あの日の僕には、まだ君は居なかった。
でも、今の君には、僕が居てあげられる。
その場所に、居てあげたい。そう僕なんかが思うのは、もしかしたら傲慢なのかもしれないけど。
『ハジメは、二番でも僕なんかでもない』
そう言ってくれた人がいるから。
誰にも譲れない僕だけの場所。
僕は、ずっと千夏からいつも何かをしてもらっていた。
だからこれは僕からの――――。
僕はゆっくりと千夏に近づいた。
「――――っ」
千夏を抱きしめる。
そっと、壊れてしまわないように、でも孤独じゃ無い事を伝えられる様に力強く。
決して同情でも、ましてや馴れ合いなんかじゃなく、ここにいられることへの感謝すら込めて。
腕で、全身で千夏を感じる。温もりを、香りを、千夏の全てを。
千夏は何も言わなかった。
ただ、少しずつ、少しずつ千夏の腕が僕の背中に回って。
僕らは二人、抱きしめ合っていた。
静かな部屋。
静かな世界。
まるで時が止まったようだった。
「……ぅ…………ぅぁ」
そんな時を動かし、静かな世界に音が生まれたのは、どれくらい抱き合っていた頃だったか。
それはきっと慟哭というものだった。
せき止められてしまっていた感情が、決壊する。
あの日、きっと僕は誰かにこうして欲しかった。
柔らかな感触を腕に、胸に、心に感じながら抱きしめて、そしてまた抱きしめられながら、不思議と僕はあの日の僕の心をも感じる。
あぁ、と思った。
そうか、人はこうして、世界に一人ではないということを確かめるために、大事な人にそう伝えるために抱き合うという行為をするのか。
そんな想いに行き当たり、ふと、自分の目に違和感を覚えた。
同時に温かいものが、頬に伝う感触。
「……え?」
僕の目からもまた、千夏と同じように涙が流れ落ちていた。
あの日から、泣くこともできずにいたのに、こんな。
泣いているという感覚すらなくただ、溜め込まれていた涙が今溢れ出しているように。
「ハジメ」
愛しい人が僕の名前を呼んだ。
涙は止まらない。ただ、伝うだけ。
「千夏」
僕は名前を呼ぶ。
今はただ、それだけで良かった。
◇◆
ハジメの温もりに包まれて、千夏は至近距離でハジメの顔を見ていた。
その目から、一筋の涙が、止まることなく流れ続ける。
ストン、と何かが心の中に落ちた音がした。
千夏はハジメのことが好きだと思っていた。この感情の名前は恋なのだと、そう思っていた。
優しいハジメ。
――――好きだった。
とても頼りになるハジメ。
――――ドキドキした。
沢山大事にしてくれるハジメ。
――――少し照れくさくて、同じようにしてあげたくなった。
少しずつ、水が染み込むように、千夏はハジメの良いところをたくさん知って、好きになっていった。
でも今、ただ涙を流しているハジメを、目の前の男性を見て。
千夏はどうしようもなく愛しいと感じていた。
好きなんて言葉じゃ足りないくらいに、心の中の感情がそれだけで一杯になって溢れ出すくらいに。
初めて知る、初めて感じる感情だった。
人は、人の格好良さや優しさにだけ、惚れるのではないことを知る。
もう、無理だと思った。
どうあがいても、もう何を見ても、千夏はこの目の前の人を求めずにはいられないだろう。
恐怖も、怯懦も、躊躇も。
この感情を諦める理由になどなれない。
「ハジメ」
ただ、その名を呼んだ。
彼の涙は止まらない。ただ、伝うだけ。それが途方もなく美しかった。
「千夏」
愛しいと思う人が自分の名前を呼ぶ。
今はただ、それだけで良かった。




